くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

カテゴリ:寺・神社 (平川市) > 寺・神社 (旧平賀町)

青森県平川市柏木町柳田。鬼コのいる神社。久々にここの鬼コを拝みに行ったのですが…銀杏強烈!無理無理。食べるのは好きですが、匂いは苦手です。ってことで入口で退散。君たちは平気なのね。過去の記事『八幡宮 (平川市柏木町)』『八幡宮(平川市柏木町):鬼コ』  ...

津軽忠臣之碑を目指します。目印はこの手書き看板(津軽忠臣之碑(六羽川の戦い)五百米先・右側)のみ。住所的は平川市高畑高田。 しばらく歩いて行くと途中に彌佐堰工事記念碑がありました。 竣工昭和27年5月1日。結構古いものですね。 彌佐堰工事記念碑の少し先を右に ...

地図に鳥居マークがあったので訪れてみたら小さな祠があるのみでした。 中には八大龍王立像があります。 水の恵みに感謝をし、温泉入って帰ります。 ...

新館八幡宮の近くです。墓所があり、その向かいに釈迦堂という建物がありました。新館八幡宮の記事も参照ください。竹館村誌には「延暦年中田村磨将軍東夷征伐の時、夷を仏教にて教化せんとして釈迦堂を建立した。この跡は今釈迦堂屋敷、また釈迦堂沢とよんでいる。」とあり ...

神明宮といえば…弘前市下湯口の神明宮のアクセスが増えています…巖鬼山神社も…アニメ「ふらいんぐうぃっち」の人気恐るべし!笑 さて、こちらは平川市高畑の神明宮。再訪です。由緒等は以前の記事を参照してください。「高畑城跡・高畑神明宮 (平川市高畑)」 境内入口 ...

かつての尾崎村。北西に新屋村、西に町井村、東南に広船村、東に木戸口沢に向かう道が通い、北は崖や河川跡の窪地も残る複雑な地形の水田、西と南は浅井川と崖の切通しを越え水田が広がり、東は奥深い山地。国誌によりますと「東は山に倚り西に平田あり。筵を織るを産業とす ...

かつての町井村(町居村)で、貞享4年検地水帳によりますと、高宮太夫抱えの熊野堂地、蔵王堂地の他、村抱えの地蔵堂地がみえます。熊野堂は字山下の熊野宮(二柱神社)。蔵王権現堂は明治の神仏分離の際に堂宇取壊しのうえ熊野宮に合祀。地蔵堂は神仏分離の際に愛宕神社と ...

再訪しました。 詳細は前回の記事を参照してください。 前回の記事:「尾崎八幡宮 (浅井八幡宮)・尾崎城址 (平川市)」 手水舎。 社殿。 本殿。 土俵。 観音堂など。 末社。 手水鉢。 不明の碑。 末社の横の建物。 忠魂碑、太鼓橋等寄附人名碑。 境 ...

温川山荘(平成26年8月20日閉館・平成29年10月営業再開)を過ぎて少し行くとぬる川のバス停があります。そこに車を停めて渓流沿いに歩いて行きます。 川の向こうに本殿が見えました。 鉄橋(湯川橋)。 湯川橋は昭和39年9月5日竣功。 私の体重には耐えれそうです。 ...

御祭神は宇賀御魂神、大宮乃女命、猿田彦太神。例祭6月10日。参道には、両部鳥居、社号標「稲荷神社」(明治34年旧2月10日、願主古川清三郎敬白)、庚申塔(寛政10年6月17日)、朱塗木造鳥居、倉庫(ブロック造)、朱塗木造鳥居三宇、御神灯一対(昭和5年7月10日古川金次郎 ...

葛川館跡標柱。 『築城年代、城主は不明。郭の三方は断崖で、南側の台地続きを堀で切断した一郭の館跡である。神明宮境内になっている郭内に、関ヶ原合戦に西軍の武将であった大谷刑部吉継の子と、越後の武将上杉景勝の重臣直江山城守の弟が植えたという伝説をもつ樹齢300 ...

大木平は標高が高く、高原野菜(南八甲田高原野菜)の名産地となっています。 大木平小中学校(廃校)横にあった碑…『我等が大地』。 隣には校歌(作詞:小野清勝)。 ちょっとした森の中に建つ鳥居。 小高い丘になっています。 境内には木造の鳥居と社殿以外は特に ...

部落東北端を流れる切明川の北側、小高い山の中腹に鎮座。いわなの村へ向かう途中、切明温泉を過ぎた場所に平川市消防団第10分団第1部の建物があり、その裏手から橋を渡って行きます。 老松と一緒に朱塗の木造両部鳥居があり、その側には昭和3年10月8日成田子之助建立の ...

102号線から集落に入り、突き当りの消防屯所裏手に鎮座。井戸沢の地名は沢頭が深く陥没して井戸状をなす地形に由来。井戸沢稲荷神社は部落の中ほど西側の小高い丘の杉林に囲まれた境内に鎮座。道路沿いを流れる川の橋を渡ると昭和15年6月10日国防婦人会、紀元二千六百年記念 ...

平川市葛川一本木平。部落の東北端の小高い丘に鎮座。由緒等はわかりませんでしたが、昭和48年に善光寺平より部落が集団移転してきたため、その年10月に当神社を落成したと伝えます。氏子総代長内勝則。 百沢より神官が4年に1度お祀りにきているそうです。 社殿は昭和48年 ...

かつての新田村で、天保4年(1833)に上新田と下新田に分かれ、下新田が荒田村となりました。 貞享4年検地水帳に村抱えの八幡社地がみえます。 下駒田の旧村社である当八幡宮は天文2年(1533)に小野井讃岐守裕政により勧請。 小野井讃岐守裕政は荒田館の館主とも云わ ...

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