岩手県北上市和賀町後藤。
後藤野飛行場(Wikipediaより一部抜粋)…後藤野飛行場は、太平洋戦争中に岩手県に建設された日本陸軍の秘匿飛行場。岩手陸軍飛行場ともいった。1937年(昭和12年)に日中戦争が始まり、岩手県内で陸軍の飛行場を誘致する運動が起こり、内陸南部の胆沢郡金ケ崎町と和賀郡藤根村(のち和賀村→和賀町、現・北上市)との間で誘致合戦が進められた。藤根村には花巻、黒沢尻両町を始め、和賀、稗貫両郡の13か町村が期成同盟会を結成した。期成同盟会は藤根村後藤野の土地120万坪を飛行場用地に献納すると発表。陸軍は飛行場を藤野村に建設する方向へ傾いた。11月27日に正式決定された。飛行場の建設は1938年(昭和13年)6月6日に起工式が行われ、工事が始まった。工事には県内の中学校などの生徒が動員された。9月25日には秩父宮雍仁親王を迎えて献納式が行われた。10月31日に完成、11月6日には竣工式が行われ、立川飛行場から軽爆撃機が飛来し、後藤野飛行場に着陸した。後藤野飛行場は操縦者の訓練用飛行場となった。その後、太平洋戦争に突入し、戦況は悪化、後藤野飛行場は1943年(昭和18年)に創設された特別操縦見習士官の教育訓練用の飛行場となった。1944年(昭和19年)4月30日には北海道八雲飛行場から第九十五飛行大隊が移動。7月20日には熊谷陸軍飛行学校岩手分教所として開設された。1945年(昭和20年)には特攻隊の出陣式が飛行場で行われた。7月には陸軍特別攻撃隊神鷲第二二五隊(神鷲第二二五隊)が配置され、8月9日には飛行場から特攻機が3機離陸したが、1機はエンジン不調で帰還した。残る2機は太平洋上に出たが、目標の敵艦は見当たらず、引き返すこととなった。しかし、後藤野飛行場への帰還は夜間となり、北上山地を越える困難な飛行ルートとなるため、1機は宮城県の矢本飛行場(現在の航空自衛隊松島基地)にもう1機は福島県の原町飛行場に向かうことになった。だが、2機とも目的地に着くことはなく不時着し、操縦者はいずれも死亡した。後藤野飛行場は8月9、10日の両日に空襲を受けた。8月15日に終戦を迎えた。終戦後の9月下旬、米軍が岩手県に進駐。9月から10月にかけて後藤野飛行場の残存機を破壊。その後は飛行隊の隊長が部下や秋田県出身者らとともに後藤野の開拓を始めた。1954年(昭和29年)に後藤野飛行場跡に保安隊(現在の自衛隊)を誘致する構想が発表されたが、住民の反対運動が起きたのと、県内では滝沢村(現在の滝沢市)に決定したため実現には至らなかった。後に飛行場跡の近くに工業団地が造成され、現在に至る。
後藤野に立って…『後藤野の歴史は、1051年(永承6年)の「前九・後三年の役」の頃戦場となり、中世にあっては、領主和賀氏の支配地となり、近世南部藩の領地となった。1679年(延宝7年)奥寺八左衛門により奥寺堰が完成し、広く開田されたが当地は採草地となった。1937年(昭和12年)日中戦争が始まり、飛行場が建設された。土地所有者は地代3.3平方メートル当たり五銭という額で協力させられ、県内各地の青年団や中等学校生等の勤労奉仕により造成、「岩手陸軍飛行場」として県から軍に献納された。当初は、訓練用飛行場として使用され、終戦近くには、艦船を太平洋上で迎撃する特攻隊基地となり、米軍の空襲を受けた。戦後飛行機・施設等は、米軍によって爆破され荒れ地となった。一部は、開拓団が入り、昭和30年藤根、横川目、岩崎の三村が合併し、和賀町となり町営牧野となった。その後、湯田ダムの完成に伴う開田や、工業団地として造成され大企業等の進出がなされている。平成3年市町村合併により新北上市となった。前九年の役から、秀吉の仕置、奥寺の開田、飛行場の建設から開拓、そして工場誘致と、常に世の変転に際し対処してきたこの里に目を開き、新たなる発展を願うものである。1995年(平成7年)12月21日後藤野飛行場史跡整備委員会 監修 北上市教育委員会』

岩手陸軍飛行場跡略図。

岩手陸軍飛行場の概要(昭和18年4月調)
岩手陸軍飛行場跡記念碑。


沿革…1937年(昭和12年)日中戦争が始まった7月、岩手県下の市町村長会議で愛国機の献納と飛行場設置が決議され、当時の黒沢尻、花巻の二町と藤根、江釣子、岩崎、横川目、飯豊、二子、湯田、笹間、太田、湯口、湯本の11ヶ村で「後藤野飛行場設置同盟会」を結成し、地権者から僅少価格で用地を買収して、その実現を図った。広さ百二十万坪(396ヘクタール)は関東の熊谷飛行場(314ヘクタール)を凌ぐもので、抜根、整地作業は建設機械のなかった当時、県下中等学校(現高等学校)地域青年団、職場を単位として結成された「青少年勤労報国団」の勤労奉仕によって、すべて人力によって行なわれた。翌年9月25日秩父宮を迎えて献納式が行なわれ「岩手陸軍飛行場」と命名された。起工式から竣工まで148日、延12万851人、総工費僅か8万7千円であった。当初は陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた複葉練習機が飛び交ったが、1944年(昭和19年)本土が空襲を受けるようになって俄かに実戦基地化され、「神鷲隊」という特攻隊が移駐し短期間の訓練の末各地に配属されていった。翌年8月9日、米軍艦載機により空襲を受けて飛行場の施設が破壊され、隣接する民家に投下された爆弾で横川目国民学校4年佐藤満君(当時10歳)が犠牲となった。同日、特攻隊三機が発進したが吉村公男中尉(22歳)渡辺秀男少尉(22歳)石井博伍長(19歳)は、還らぬ人となった。1945年(昭和20年)8月15日終戦となって飛行場の役目が終った後藤野は、国から払い下げを受け開拓団が入植して農地に生れ変り、さらにその一画には工場が誘致され工業団地となって発展した。当時の飛行場の面影を残すものは何もなく忘れ去られようとしている。戦後50年に当り、この地が飛行場跡であることを後世に伝え、さらなる平和を願い、地区民並びに篤志者の浄戝と、北上市、花巻市の御援助により記念の碑を建立するものである。1995年(平成7年)12月21日後藤野飛行場史跡整備委員会

秩父宮殿下御成記念碑。

台座碑文…『昭和拾弐年九月二日 花巻町 黒沢尻町 藤根村 江釣子村 笹間村 横川目村 岩崎村 湯田村 二子村 飯豊村 太田村 湯口村 湯本村 二町十一ヶ村ニテ飛行場設置期成同盟会ヲ結成 岩手県ノ名ニ於テ陸軍省ニ献納 之レガ受納、式ヲ同拾参年九月二十五日挙行セラル畏クモ秩父宮殿下ノ台臨ヲ給フ衆庶此ノ殊寵ヲ辱ウシテ感奮セザルナシ茲ニ此ノ盛事ヲ記念スベク本碑ヲ建設ス』

讀賣新聞オンラインHP「戦争末期特攻基地に 後藤野飛行場跡地と証言映画化で記録」より一部抜粋…北上市和賀町にある後藤野工業団地。自動車部品などの工場が立ち並ぶ一角に、「岩手陸軍飛行場跡」の記念碑がある。戦後50年に建てられ、「この地が飛行場跡であることを後世に伝え、さらなる平和を願い」などと刻まれている。通称・後藤野飛行場。県民挙げての勤労奉仕で1938年に整備された飛行場は当時、日本最大級の広さを誇った。当初は陸軍の教育訓練飛行場だったものの、戦況が悪化した太平洋戦争末期は実戦基地となり、特攻隊の訓練も行われるようになった。「最北の特攻基地」と呼ばれるゆえんだ。終戦間際の45年8月には3機の特攻機が飛び立ち、19~22歳の3人の若者が命を落とした。「足元の戦争の歴史を残したい」。北上市在住の双子の映画プロデューサー、兄・都鳥拓也さん(42)と弟・伸也さん(42)は、ドキュメンタリー映画「戦争の足跡を追って 北上・和賀の十五年戦争」(2021年)で、この地にカメラを向けた。軍需工場に勤めていた祖父・源司さん(97)から地元で起きた「戦争」を小学生の頃から聞いており、伸也さんは「祖父が90歳を超え、『いつか聞けなくなるかもしれない』と思った」。北上に刻まれた記憶は、映像に残さなければいけない題材だった。しかし、役目を終えた飛行場は戦後に開拓団が入植して農地となり、その後の工場誘致で工業団地として発展。現地には基礎の一部とみられる跡だけが残る。2019年4月に撮影を始め、ドローン映像を研究者に見てもらい、飛行場の範囲を推測。伸也さんは撮影を通じて「地方に眠る戦争の足跡がなくなっていくことで戦争がよそ事になっている。跡地が大事にされていれば市民が戦争や特攻隊を身近に感じられるはず」と思うようになった。戦争体験者の一人、北上平和記念展示館元館長の高橋源英さん(88)は、飛行場近くに住んでいた。特攻機が羽を揺すって出陣した様子や、飛行場周辺の空襲を覚えている。「語れる人が限られてきている今、経験したことを書き物や映像で残すことが大事だ。北上も戦場だったことを知ってほしい」と訴える。映画は、地域の戦跡研究者らも加え、13人の証言で構成。後藤野飛行場だけでなく、アルミニウムを生産した「国産軽銀岩手工場」、7000通の軍事郵便を保存する北上平和記念展示館など郷土の戦争の跡が収められている。』
当時の飛行場の面影を残すものは何もないとのことですが、直線的に長く伸びる周囲の道路にも、どことなく飛行場付近であった面影を感じさせます。













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