
秋田県秋田市下北手宝川潤ケ崎。県道62号秋田北野田線沿い。
鳥居。
鳥居の裏に幟立てかな…一対
「寄贈 宝川町内神明社 宝川ふる里会会長三井勇孝77才・三井重機建設(有)社長三井弘孝41才 平成28年4月3日」

庚申塔(文政5年壬午3月、三浦利左右エ門・小林三良左エ門・木山長吉・川村孫惣、谷崎村種 寒川村 ■■ 宝川村 ■ 宝川村 ■右)・庚申塔(明治12年3月16日)

七庚申(昭和24年旧10月7日、川村長治郎・川村武蔵・木山熊吉・木山金之助・川村清・川村金蔵・門脇貞治郎・小林多治、講中安全)

参道。

宝川は太平川支流宝川沿いに位置。かつては、たからか村・田からか村などとも書かれました。古館と呼ばれる館跡が集落南西の丘にあります。大昔、下北手付近には雨が降らず、各地の川の水が無くなり、飲み水が無くなって人々が亡くなっていきました。ところが宝川を流れる小川だけは清水がこんこんと湧き出て枯れることはなく、各地の人々はここに集まり、命を救うことができたことから、この小川のことを宝の川と呼び、それが宝川という村名の由来になったとの言い伝えもあります。

戦国期に見える宝川村は出羽国豊島郡のうち。天正19年正月17日『豊臣秀吉朱印蔵入帳写』に「たからか村・石田村」302石余とあるのが初見史料。この蔵入地の物成は慶長2年「たからか村・いした村」50石、同3年「たからか村・石田村」50石。文禄元年8月22日『秋田家分限帳写』には湊兵右衛門代官所のうちに「宝川村」205石余が見え、慶長6年の『秋田家分限帳』では秋田兵右衛門代官所の中「豊島庄之内田からか村」228石余が見えます。
江戸期の宝川村は出羽国河辺郡(寛文4年まで豊島郡)のうち。秋田藩領。慶長8年の村高185石余と推定。『正保国絵図』では本田当高225石。『元禄7郡絵図』では225石余。『享保黒印高帳』では村高208石余・当高223石余(うち本田202・本田並15・新田6)。『享保郡邑記』では23軒。『寛政村附帳』では親郷牛島村の寄郷で当高223石余(すべて給分)。『秋田風土記』では212石・23戸、用水は沢川。この村の里長の家の山下の庭に名松があり見物人が多かったといいます。『天保郷帳』では223石余。この頃、薪を久保田に売るのを業としていました。産神神社鎮座。修験法喜山観音院は20番札所。明治の郡区町村制下、桜村に戸長役場を置き、松崎・柳館・寒川・通沢・黒川・梨平の諸村と連合。明治22年河辺郡下北手村の大字となります。昭和29年からは下北手を冠称、秋田市の大字となります。





御祭神は天照皇大神。

例祭旧暦3月17日。
創立年月日不詳。
明治6年村社。

拝殿向拝神額。

「平成乙亥九月吉日 願主小林清吉、仝ヒサ、宮司田村英夫謹書」

拝殿内本殿。







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