宮城県栗原市一迫真坂八幡。小安街道沿い。
社号標(大正5年10月15日建焉)

参道沿いの石碑群。

庚申塔など…状態はあまりよくありません。





御大典記念工事…

南無阿弥陀佛。

鳥居は崩壊していました。
真坂は一迫川中流域南岸平地に位置。地名の由来は、往古武烈天皇をまつったという王沢村山神社に至る坂道を尊称して御坂と呼び、後に「みさか」が「まさか」に転訛したものと伝えます。地内には井山雅楽之丞の城と伝える姫松館、狩野伊豆隆真の城と伝える真坂館の二古館がありました。江戸期の真坂村は栗原郡九十六邑の一つ。端郷に北沢村がありました。元禄郷帳の村高は2,608石余、天保郷帳では3,176石余(ともに端郷北沢を合算)。安永風土記によりますと村高は田代199貫余・畑代29貫余で計228貫余(うち蔵入地170貫余・給所50貫余)。人頭は寛永惣検地の173から203に増加、203人のうちには寺1ヶ寺・地頭白川氏家中抱地指引人5人を含み、村住居は89人、町住居は114人、他に白川氏家中前25人、家数は233(うち水呑5・借屋25)。神社は鎮守八幡社・同秋葉社などの13社。仏閣は太子堂・阿弥陀堂・観音堂・不動堂、寺は白川氏家中寺曹洞宗の瑞沢山竜雲寺・福寿山起雲寺、修験は本山派吉浄院、羽黒派の大善院・大性院・金剛院。当村で産する米は良米であり近隣6ヶ村の米とともに御膳米として上納されました。当村は上街道(古奥州街道)沿いに位置しており、はじめ富塚氏、後に白川氏の拝領町場真坂町(宿)がありました。真坂町は本町1丁30間・中町1丁30間・荒町1丁30間・御免町1丁30間の4町から成っており、町肝煎・検断2名が置かれていました。また、登米街道と花山街道が真坂町で上街道と交差し、町裏には藩の雑石蔵がありました。享保年間の町屋敷は4ヶ町で123軒、うち拝領家中屋敷は89軒。同町では正徳元年・享保6年の2度大火があり、正徳には110軒、享保には122軒の町屋敷が焼失しています。なお、当村内清水ケ袋で一迫川をせき上げた伊豆野堰は、流域15ヶ村の入会用水で溜高1,473貫余に及びました。明治元年宇都宮藩預り地、以後、栗原県・胆沢県・登米県・一関県・水沢県・磐井県を経て、同9年宮城県所属。この間同8年清水村を合併。同22年栗原郡一迫村の大字となります。大正12年からは一迫町の大字。明治以降は新たに南町・横町・御免頭町が成立、その後一迫村・一迫町の中心街として発展。
手水石。

境内はかなり広いのですが、周囲の木々はほぼ伐採されており、また、神楽殿等も跡地と化しています。歴史もあり、住所地にも「八幡」とあるのにちょっと寂しい状態ですね。



社殿前。
石灯籠一対(文政2夘年8月15日)
神社庁より…『【主祭神】応神天皇【例祭日】8月15日【由緒】源頼義安部頼時討伐の際の創建と云い、又、天智天皇の御代中臣某の勧請し、頼義にいたり再興したとも伝える古社である。』
社殿。
本坪鈴。

かなり大きく存在感あります。

世話人の名前等も刻まれています。

拝殿内。
八幡神社…『【鎮座地】一迫町真坂字八幡五番地【祭神】誉田別尊、玉依姫、神功皇后【由緒】この神社は、安永七年(1778)の「真坂村風土記御用書出」に、「天智天皇七年(667)三条大臣三子中原少将実朝臣の勧請と伝えられ、また天喜三年(1055)安倍貞任追討のため八幡太郎義家(源義家)公が戦勝を祈り誓った神社であることを伝えられている。」と記されている。同風土記によれば、「社地南北三十間東西七十五間、社東向一間作、拝殿東向竪四間横二間、祭日(八月十五日)には白河家武頭一人、徒士目付一人、足軽十人を神祭警固にあてた」とある。境内は広く東向きに石鳥居があり、手水石鉢、石灯籠、神楽殿を配し、拝殿の銅鈴は町内最大である。親杉といわれた大木は高さ五十米、根周り十米もあったが、昭和九年の台風で倒れた。樹令を木目で数えて千年以上であったという。また直径一米以上の大杉は太平洋戦争末期に国へ献木の名のもとに伐採された。明治七年七月村社に列せられる。祭日は八月十五日(現在九月十五日)である。』一迫町教育委員会・財団法人宮城県文化財保護協会

こちらは読み取れず。顕彰碑?

古峯神社。崩壊しています。

石殿二基。ちゃんと見ていませんが黄金山大神・鹽釜大神かな。

境内社。

安産の神。

手前の古い木札は明治30年代のもの。

武甕槌命。

事代主命。


















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