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岩手県北上市村崎野9地割。
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村崎野は紫野とも書れたこともありました。北上盆地の中央部、北上川西方の台地平坦部に立地。地名の由来は、当地がもと二子村に所属していたことから二子村の先の野原という意味からきたものという説や、紫がたくさん繁生している野の意味という説もあります。中世までは大部分が原野であったとみられており、遺跡・館跡などは何もありません。近世中期以降の新田開発によって発達した地域です。
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江戸期の村崎野村は和賀郡のうち。はじめは二子村地内崎野と称する草刈場であったといいますが、奥寺八左衛門定恒の新田開発によって寛文9年に成立し、後に二子村から分村したとされます。はじめ盛岡藩領、元禄7年旗本南部主税知行を経て、宝永4年からは再び盛岡藩領。享保20年からは二子通に属します。村高は貞享高辻帳では村名のみが記されており、宝暦3年1,059石余(うち役高1,045石余)、給人は岩間伝八5石余・竹村治兵衛7石余、邦内郷村志1,059石余(うち給地13石余)、天保郷帳・安政高辻帳ともに1,059石余、旧高旧領1,289石余。邦内郷村志では家数69、集落別内訳は本村59・春木場7・門屋3、馬83。本枝村付並位付によりますと位付は下の上、家数73、集落別内訳は本村63・門屋4・春木場6。用水は奥寺堰から直接引水するほか、用水の効率を高めるために奥寺堰用水をいったん堤に溜めこんで用いる方法がとられており、その堤(用水高)には最大の大田屋堤(750石)をはじめ、めくら沢堤(750石)・久八堤(20石)・佐左衛門堤(2石)・久次郎堤(2斗)・又助堤(50石)・甚之丞堤(6石)・小田屋堤(8石)・左兵衛堤(180石)・下堤(20石)のほか、一本松堤・蒲沢堤がありました。奥寺八左衛門の新田開発によって誕生した村であり、同人への地元民の崇敬の念は極めて強く、それに関連する史跡も多いです。工事の飯場跡の地には、はじめ同氏の墓所が造られましたが、寛保元年近隣の村民が門屋の地に移転し、庵寺を再建して祀り、後に奥寺神社となりました。また、二ツ屋と戸田の地には開田工事の事務所が置かれ、今日田屋という屋号が伝わっています。奥寺氏は堰開削の難工事を成功させるために神仏の加護を求め、成就祈願と新田鎮護のため、元禄2年村崎野伊勢皇大神宮を勧請しています。神社はこの他に稲荷神社・八坂神社・戸田神社があります。寺子屋は門屋の奥寺八左衛門の墓所に建てられていた庵寺にあり、三田氏が近村の子弟に教えていたほか、下大堰川では医者の及川玄麟が自宅で教えていました。主要道路は東部の村境ともなっている奥州街道、飯豊村から藤沢村に通じる瀬畑街道、同じく岩崎街道、黒沢尻方面から太田村清水観音への参詣道である清水街道があります。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年東和賀郡に属します。同12年門屋の斎藤家に公立小学村崎野学校が開設されましたが、同15年高橋家、同17年畠田家に移転。明治11年の村の幅員は東西1里14町・南北30町、税地は田161町余・畑218町余・宅地21町余など計425町余、戸数119・人口730(男373・女357)、馬87、神社4(大神宮・稲荷神社・八坂神社・戸田神社)、職業別戸数は農業114・工業2・雑業1・神官1・士族1、物産は馬・鶏・鶏卵・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・蘿蔔・麻布、地味は南東隅が赤土で下位に属し、中央は黒土で旱損を被り易く、西部は黒色土で上・中・下位が錯綜するといいます。明治22年飯豊村の大字となります。昭和20年飯豊開拓組合が設立されて翌年満州引揚者により開拓の入植が開始。同25年国鉄東北本線村崎野駅設置。同年の世帯数274・人口1,846。同29年北上市飯豊町字村崎野となります。昭和40年代を通じて北上工業団地に誘致企業が相次いで工場を建設しました。
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きたかみ景観資産(北上市認定№93「奥寺堰、田園と住民を見守る奥寺神社」)
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社号標(昭和51年1月7日)
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案内板「奥寺神社祭神 従五位奥寺八左右衛門定恒公事績」より…『奥寺八左衛門定恒公は、和賀中央土地改良区幹線水路掘削の元祖であり、恩人であります。江戸中期南部藩士であった定恒公は、武功より国益が大切であるという信念から、和賀・稗貫両郡の新田奉行として奥寺堰(上堰・下堰)など開削し、原野を開墾して十数箇村に及ぶ七千二百石余の新田を開発しました。定恒公は、開拓に命を捧げた招魂の権現であり、神であります。その功績偉業を顕彰するため奥寺神社に霊をまつり、稲作農家の守護神として、この殿堂を後世に伝えるものであります。以来、地域住民の深い信仰心に見守られ、毎年8月7日には遺徳を偲び例祭を開催するなど、欅の大木と共に歴史的景観を保ちながら現在に至っています。定恒公は、第29代南部藩主重信公に仕え、当時不毛の地であった和賀の西武村崎野を中心とした開拓を志し、藩の命を受ける。横川目綱取より山をくり貫き(穴堰)、二つの大きな水路(平堰)を通す。一つは千四百六十間、一つは七百間、和賀川の水を引き、村崎野に注ぐ。難工事のため神仏の加護を受けるなど15年、この間二子・藤沢・村崎野・飯豊・成田・南笹間・中笹間・北笹間・栃内・横志田・江釣子・後藤・藤根・竪川目・横川目等にわたり、広大な原野の開田事業を成し遂げる。工事には北海道松前候から資金三千両を借用、人夫は藩に願って牢人を使い、技術者は秋田阿仁銅山から鉱夫を招く。この大工事を全面的に支援したのが、江釣子村全明寺住職大迦和尚である。※寛永5年(1628)奥寺八左右衛門定恒公は、陸奥國津軽郡奥寺村で家継の子として生誕する。代々砲術と鉄砲造りを秘伝としてきた家系である。※寛文5年(1665)38才。和賀郡村崎野の用水開発工事に着工する。※寛文9年(1669)奥寺堰用水工事に伴い、村崎野(紫野)村が誕生する。※延宝7年(1679)52才。村崎野開拓工事を完成する。※貞享3年(1686)59才。村崎野太田屋で急没する。盛岡三ツ割東顕寺(菩提寺)に葬られる。戒名「碧雲鐵公居士」開拓地の農民、村崎野太田屋に定恒公の墓を建立する。※寛政10年(1798)村崎野太田屋で、定恒公百十三年忌大法要が行われる。※その後、村崎野集落の農民が、願いにより門屋に墓碑を建立する。※大正2年(1913)定恒公没後228年、飯豊村長照井清見氏上堰水利組合とはかり、村崎野門屋の碑前で法要回向をする。※大正4年(1915)定恒公従五位を追贈される。(官報号外掲載)※昭和23年(1948)定恒公没後263年、國分謙吉県知事参列の下に奥寺顕彰祭典が執行される。※昭和35年(1960)9月、社殿(元和賀郡役所奉安殿)を黒沢尻町より移転し、11月、移築鎮座の落成祝賀会を開催する。※昭和44年(1969)10月、和賀中央土地改良区は奥寺神社境内に、農業水利事業期成同盟会並びに地区民の協力を得て、定恒公の顕彰碑・記念碑・玉垣(二百二十柱)を建立する。※昭和51年(1976)同改良区は、同境内に「奥寺神社」刻銘の標柱を建立する。同53年(1978)には、寄進者による大石鳥居と没地太田屋に墓石をそれぞれ建立する。※昭和61年(1986)10月、奥寺修吾氏は先祖のルーツ探しと定恒公の事績調査のため、奥寺神社に初めて参拝する。時に、定恒公三百年忌に当たる。翌年8月、奥寺神社例祭に第一回全国同族参拝団が訪れ、拝礼される。※平成元年(1989)2月、北上市民劇場で地域住民参加の「水が来たぞォ」奥寺堰と農民の物語が公演される。平成20年3月村上地区振興協議会』※掲載写真…「祭神奥寺神社・奥寺堰(上堰)」・「戸田地域には水芭蕉の群生地がある。」・「山野草キクザキイチゲ。当地域としては珍しい。」 
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境内。
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記念碑(椎名悦三郎書)…『奥寺八左衛門貞恒氏の開鑿した穴堰1,092間を含め111,418間の上堰、下堰は昭和2年岩手県営第1号として、和賀郡中央耕地整理組合が改修し、旧田補水と1,280町の開田が地域開発に貢献した。上堰の穴堰は昭和28年東北振興化学KKが、石羽根ダム(工費6億8千万円KK負担)の築造とともにダムの下流、上堰の穴堰161間を残して埋没したるも農業用水優先の協定によって、水利が豊富となった。しかし、水路が素堀りの為老化甚しく、今回明治百年にあたる昭和43年国営和賀中央農業水利事業が、25億円の予算で起工した記念と奥寺堰(上堰)堀鑿300年祭と併せ奥寺氏の偉業をたゝえ、後世に土地改良精神を伝える為、和賀中央土地改良区並びに国営和賀中央地区農業水利事業促進期成同盟会、地区民が協力して境内に顕彰碑、記念碑、玉垣を整備し美観を添えるものである。昭和44年10月15日撰文理事長照井一郎』・事業内容…『【予算】25億円【用水路】24.997M【排水路】10.362M・内訳…【上堰幹線】9.257M【下堰幹線】9.973M【村崎野幹線】3.372M【猿田幹線】2.395M【中央幹線】5.932M【中央幹線放水路】1.474M【中田幹線】645M【大堰川】2.300M【国営付帯県営事業】15億円【用排水路】48.000M』
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奥寺堰由緒…『「三日月の丸くなるまで南部領」。藩政時代の南部領はそれほど広大でありましたが、広いだけで土地そのものは痩せており、農地としての利用は少なかったと言われております。この時代南部藩は、新田開発を重点施策としており、特に和賀平野の未開拓地、藤根・笹間・飯豊の広大な土地に農地を拡張し農業生産の拡大を願っていました。寛文5年(1665年)南部藩士奥寺八左エ門定恒は藩の命を受け、和賀川より取水して大規模な開田事業の工事に取りかかりました。ところが、和賀川からの勾配が取れず、上堰の取入口の決定に幾度も失敗したと言われております。工事に失敗し困り果てているとき一夜不思議な夢を見ました。夢のお告げでは「明朝、淡雪についた白狐の足跡に従って西山の麓まで行くがよい。連理の樹のあるところを取入口とし、白狐の足跡どおり水路をつけよ。」とのお告げがあり、お告げに従って掘ったところ揚水は首尾よく成功したと伝えられております。この偉業により新田開発に成功、方々から人が集まり住み着くようになり、現在の繁栄の基礎を築いたと言われております。このことから、奥寺八左エ門定恒と奥寺堰は、北上市内の小学校でも「昔のくらしと街づくり」として副読本に取上げられ学習されておりますし、平成18年2月には、農林水産省より農業・地域振興、歴史・伝統・文化、環境・景観、地域コミュニティの形成等が認められ、日本「疏水百選」の一つに認定されました。ここに、北上地方の農業発展の礎となった偉大なる先人奥寺八左エ門定恒と、奥寺堰がもつこの歴史・伝統・文化等を永く次世代に継承すべくこの由緒をしたため、これを建立します。平成19年7月和賀中央土地改良区理事長八重樫瑞郎』
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県営灌漑排水事業和賀中央地区完工記念碑(岩手県知事中村直書)
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参道。
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石灯籠一対(昭和35年9月23日)
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御神木。
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社殿。
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御祭神は奥寺八左衛門定恒(南部家家臣)。奥寺堰の開拓者である奥寺八左衛門の偉業を称えて、地域住民により建立された神社となります。市保存樹木であるケヤキなどの木々に包まれており地域の信仰の場・憩いの場として親しまれています。
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奥寺定恒墓碑。
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「(屋号マルヤマ)壁雲鐡公居士菩提」※「壁雲鐡公」に見えますが案内板には「碧雲鐵公」とあります。
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顕彰碑(椎名悦三郎書)…『【顕彰従五位奥寺八左衛門定恒】奥寺氏は寛永3年8月10日陸奥国津軽郡奥寺村に生れ、長じて250石の南部藩士となる。生耒豪胆砲術に錬達するも荒蕪地を拓き国利民福を増進し国家に報いる志を以って一族と共に300年前寛文5年村崎野中心の大草原の開拓を志し、和賀川より取入れを計画し苦心の末横川目綱取から穴堰を堀り北上川に達する平堰を含め111,418間の上堰を完成し、更に下堰を堀り15ヶ年の歳月を要したのである。上堰下堰は昭和2年和賀郡中央耕地整理組合によって改修された改良区の幹線水路である。従って、奥寺氏は当改良区幹線水路堀鑿の元祖であり恩人である。奥寺氏は武功より国を益することが大切であると言う信念から和賀、稗貫両郡の用水奉行として八左門堰、後藤堰、その他数堰を開鑿し29ヶ村7200石余の新田を造成し開拓に精魂を傾けた土地改良精神の権化であり神である。その功績偉業を顕彰するため奥寺神社に祀り、米作り農家の守護神とし崇敬の殿堂を後世に伝えるものである。奥寺氏は貞享3年1月7日村崎野太田屋において59才で急没す。大正4年従五位を贈らる。昭和44年10月15日撰文理事長照井一郎』
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墓碑。
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専学道翁居士。
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大庵良壽信士・無住妙室信士(文政5午天8月2日)※自信なし
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