
宮城県栗原市花山草木沢箕ノ口。北辰一刀流剣豪千葉周作ゆかりの家「孤雲屋敷」(栗原市指定有形文化財・旧佐藤家住宅)。花山湖の南方。近くには草木コミュニティセンター、箕ノ口館跡、城国寺、天神社などがあります。

剣豪千葉周作ゆかりの家「孤雲屋敷」(旧佐藤家住宅)…『本建築は、花山字草木沢小田に所在した佐藤家住宅を移築したもので、七代目当主の重太郎は、この地で生まれ育ち、後に江戸で最大の道場を持つにいたる幕末の剣豪、千葉周作の、剣士としての天分を認めた人といわれています。重太郎は、孤雲と号し、この住宅で隠遁(いんとん)生活を送っていましたが、学問、趣味にたけ、人徳も厚く、多くの人と親交を持っていました。その中のひとりに、周作の父幸右衛門がおり、その縁で、周作も孤雲と知りあうようになったのです。また、建築的には当地方でもまれな、十八世紀末以前のものと推定され、極めて貴重なものであり、平成五年十二月一日に、有形文化財に指定されています。この文化的価値のある「孤雲屋敷」では、その内部を一般に開放し、千葉周作に関する資料の展示をおこなっています。栗原市教育委員会』

旧佐藤家住宅(指定有形文化財(平成5年12月1日指定)所在地:花山字草木沢箕ノ口地内)…『佐藤家はもと姉歯(あねば)氏の重臣であったが後に遠藤氏の家臣となり、川口村に移住、やがて帰農。幕末期に肝入、その後村長を勤めた家柄である。この建物は、桁行20.37メートル(10.5間)梁間11.64メートル(6間)木造平家建、片入母屋造、茅葺形銅板葺(もと茅葺)である。上手に正、前座敷から成る客座敷を、その裏に納戸(なんど)をとり、つづいて前面に中の間を、背面に茶の間(常居)を配した五間取(ごまどり)で、下手には広い台所、庭を設ける。下屋柱上に渡した繋ぎ梁(投げかけ梁)上に束を建てて四間の扠首梁(さすはり)を載せる。扠首梁の中央を上うし梁が支承。台所庭の部分ではこの上うし梁の約六尺下を下うし梁が走り、土間庭の妻側に建つうしもち柱に柄(ほぞ)差しで結合する。開口部、間仕切りに柱が一間(けん)ごとに建ち開口部には古式の三本溝の鴨居、敷居が用いられ内雨戸で、座敷廻りには濡れ縁を設ける。一間の柱間寸法は6.4尺。建築年代は不詳であるが、その平面形状、柱間寸法、架構手法などからみて十八世紀後期頃、約230年前後を経た古民家で、この地方の上層民家の特徴を伝えた大型民家の典型的遺構と考えられ、住宅史上、民家史上貴重な存在である。平成6年3月栗原市教育委員会』

長屋門。
長屋門…『【栗原の農村文化と深く関連する建造物】栗原市内では、500棟を超える長屋門を見ることができます。長屋門とは、門の扉口の両側に実用的な部屋が連なる形式の門のことで、東北地方の農村部では中世ごろから存在があったと言われています。このエリアでは、農家の象徴的な建物としての位置づけがあり、主に明治時代以降に建設されました。栗原市内の居住地域のほぼすべてに分布しています。長屋門の調査が進んでいる栃木県や茨城県より多く建っていますが、全国的な長屋門の数は正確にはわかっておらず、このエリアの数がとても多いのかは議論が待たれるところです。【時代とともに変化を重ねてきた】栗原市の長屋門は、主に農業に関連する用途で利用されていました。建築当初は茅葺き屋根で土壁のものがほとんどでしたが、高度経済成長期以降、屋根を瓦や金属板に葺き替え、壁を漆喰で塗り直すものが増えました。新しく建設されたものもあります。長屋門は、現在でも農業に関連して利用されているものがほとんどですが、なかには改築し、カフェやギャラリーとして利用されているものもあり、今も人々の生活に根付いている建物です。』

現在使用されている長屋門の一例。

長屋門の模式図例。

栗原市内の長屋門の分布。
花山は栗原郡の西北端、栗駒連峰の西南麓に位置し、栗駒山南麓に発する一迫川が多くの支谷を集めて地域中央を南流。北端で約1,500m、南西端で約120mと標高差の大きな山岳地帯でほとんどは山林。平地は各河川沿いの狭長な河岸段丘に見られるに過ぎません。東部御岳山一帯はアズマシャクナゲの群生地で、開花時の紅色の美観が地名の起こりと伝えます。往古は姫松荘のうちであったと伝え、千葉太郎胤政の城と伝える百目木館、厨川次郎(安倍貞任)の城と伝える淵牛館、千葉太郎家臣狩野兵庫頭為直の城と伝える巳口館の三古館がありました。
平安末期に見える花山は栗原郡のうち。吾妻鏡の建久元年3月10日条に、前年に滅んだ藤原泰衡の弔合戦と称して兵をあげた大河兼任が、栗原郡栗原寺で殺されたことが記されていますが、その経路は「花山、千福、山本等を歴て亀山を越え栗原寺に出づ」となっています。ここには地名や経路に混乱がありますが、栗原寺との関連で「花山」が出ているので、これは栗原寺と並んであったと思われる花山寺の所在地花山のことと考えられます。

江戸期に見える花山村は栗原郡一迫のうち。元禄郷帳の村高1,339石余、天保郷帳では1,728石余。安永風土記によりますと村高は田代134貫余・畑代39貫余(茶畑代25文)で計174貫余、うち蔵入地56貫余・給所117貫余。人頭は寛永18年検地時の79から195に増加、うち伝馬役52、家数230(うち名子6・水呑4・借屋25)、人数は男659・女563で計1,222、馬279。村鎮守蔵王社をはじめ神社は17。寺は真言宗金峰山花山寺・曹洞宗満福山成国寺の二寺で、いずれも遠藤文七郎家中寺。花山寺は平安後期には七堂伽藍を備えた大寺であったと伝えますが、江戸期に入って衰退し後に廃寺。仏閣は不動堂・子安観音堂・滝不動堂・薬師堂・毘沙門堂・虚空蔵堂。村域には一迫川をはじめ戸沢川・草城(木)川・御岳川・大滝川のほか、沢が幾筋もありました。すべて当村一円用水の堤37・堰162を数え、藩の御林が12、遠藤文七郎拝領林が6。また、当村は栗駒山を越えて秋田院内領へ通じる秋田口の要衝であり、寒湯(ぬるゆ)に境目番所が設けられていました。村内に宿場はありませんでしたが、大門より当村寒湯御番所・栗原郡川口町・同郡鬼首村番所・同村荒場の4ヶ所へ伝馬・歩夫を立てており、東方川口町より西方寒湯御番所への道に長さ22間・幅2間の山下橋、東方川口町より西方鬼首村への道に長さ6間・幅1間半の国見沢橋が架かっていました。産物はキノコ類・イモ類・ゼンマイ・ワラビ・ウド・ハンノキ・ヤマベ・イワナ・カジカ等。ゼンマイは仙台藩主の膳前の漬物とされていました。なお、村内寒湯には湯坪縦2間・横2間の温泉がありましたが、安永当時は禿湯となっていました。明治元年宇都宮藩預り地、以後、栗原県・登米県・一関県・水沢県・磐井県を経て同9年に宮城県所属。同22年の町村制施行後も栗原郡下の単独村として存続。
村域を本沢・草木沢(花山村の南部、草木川・小田川流域に位置)の2区分としています。村役場は本沢字座主に設置。明治6年、座主に本吉小学校設立、草木・山内両分教場を開設。同20年に花山尋常小学校となります。同26年、座主に駐在所設置。同38年の戸数253・人口2,357。大正5年の本籍人口2,791・現住人口2,529・現住戸数367。同年の米作付反別179町余・収穫高3,368石余、麦作付反別71町余・収穫高101石余。農業とともに戦前の当村の産業には養蚕・産馬・林業があり、大正5年の養蚕戸数は122戸。産馬は一迫・姫松・金田・長崎4ヶ村とともに花山組を組織、市場において競売された花山組の馬数は明治44年139匹、大正4年136匹を数えています。第二次大戦後の昭和32年に花山ダムが建設されており、村の中心部300haが水没。以後は転出者が年々増加し過疎化が進行。昭和46年の住民登録人口2,834・世帯数620、同50年の人口2,212・世帯数575。


パンフレットより…『本建築は、旧花山村字草木沢小田に所在した佐藤家住宅を移築したもので、七代目当主の重太郎は、この家で生まれ育ち、後に江戸で最大の道場を持つにいたる幕末の剣豪、千葉周作の、剣士としての天分を認めた人と言われています。重太郎は、孤雲と号し、この住宅で隠遁生活を送り多くの人と親交を持っていましたが、その中のひとりに、周作の父幸右衛門がおり、その縁で、周作も孤雲と知りあうようになったのです。この建物は当地方でもまれな、18世紀末以前のものと推定され、極めて貴重なものであります。佐藤家はもと姉歯氏の重臣であったが後に遠藤氏の家臣となり、川口村に移住、やがて帰農。幕末期に肝入、その後村長を勤めた家柄であります。この建物は、桁行20.37メートル(10.5間)、梁間11.64メートル(6間)木造平屋建、片入母屋造、茅葺形銅板葺(もと茅葺)で、開口部、間仕切りに柱が一間ごとに建ち開口部には古式の三本溝の鴨居、敷居が用いられ内雨戸で、座敷廻りには濡れ縁を設けています。一間の柱間寸法は6.4尺。建築年代は不詳ですが、その平面形状、柱間寸法、架構手法などからみて、約230年前後を経た古民家で、この地方の上層民家の特徴を伝えた大型民家の典型的遺構と考えられています。(平成5年12月1日花山村有形文化財指定)』
パンフレットより…『母屋平面図建築面積(242.23㎡・73.27坪)。上手に正、前座敷から成る客座敷を、その裏に納戸をとり、つづいて前面に中の間を、背面に茶の間(常居)を配した五間取りで、下手には広い台所、庭を設ける。』
パンフレット「千葉周作の人物像」より…『周作は、面長で眉が秀で、切れ長の目に、鼻は高く、身長は六尺(約180センチ)もある立派な体格をしていました。少年の頃から人一倍、負けん気が強い性格で、剣術家として一流であったばかりでなく、文化人としても多くの作品を残しています。文学を好み、諸国を漫遊する毎に必ず日記をつけ、それが数巻にもなるほどでした。また、和歌、俳諧、狂歌をたしなみ、どんなに忙しいときでも、興が乗ると即興で歌を吟じたということです。』
和歌:「はる風やゆきかふ旅の箱根山 片山は晴れ片やまはふる」・「思わじと思へばまさる起ふしに なほ思はるゝ君かおもかげ」
俳句:「吹風にすゞみしまゝの無想剣」・「草むらや秋を吹きだす夜半の虫」
狂歌:「打死とどうせかく碁の勝負にて かう白くろの目ももたれまし」・「春風や駕籠のすだれを吹上げて はなぞちりこむ東路の旅」』

中へ。
「千葉周作の手の実物大の大きさです。あなたの手と大きさを比べて見ましょう。」

孤雲が周作の思い出を語るシーン。
展示物より「花山村は、九割以上が山岳地帯を占める美しい自然に恵まれた山里です。しかし、この静かな村にも、過去さまざまな時代の波が押し寄せ、独自の文化を今日にとどめています。」…『【古い歴史をもつ花山村】花山川、草木川流域には、旧石器時代から先住民が生活していました。縄文時代には人口も増加し、その当時の土器や石器も数多く出土しており、小集落が形成されていたことが確認されています。【戦いの舞台となった花山村】平安時代に花山村は、陸奥の豪族安倍氏の支配下にありました。頼時の時代に富強の頂点を極めた安倍氏の叛乱をしずめるため、永承6年(1051)、源頼義は、息子義家とともに安倍氏の戦いました。このとき頼時の息子貞任は華山城(渕牛館)にたてこもって反抗を続けましたが、康平5年(1062)戦死をとげました。これが世にいう前九年の役です。【渕牛館(えんぎゅうだて)】花山湖畔にある小高い丘陵が渕牛館で、平安中期に富強を誇っていた安倍氏の一族安倍貞任が、前九年の役で源一族を相手に戦いを繰り広げた居城跡と伝えられています。【頼朝の野望と花山村】奥羽地方では安倍氏がほろんだのち、藤原清衡の支配が強大となり、陸奥の平泉を根拠地として、「平泉三代」の基を築きあげました。源頼朝は、文治5年(1189)、藤原氏をほろぼし、ついに全国の軍事支配権を手に入れました。【花山寺遺跡】金峰山花山寺は、平泉藤原氏の創建と考えられており、秀衡の時代に栄えたといわれていますが、慶長年以降は荒廃し、現在では大門音無滝の名称に、名残りをとどめるのみとなってしまいました。また、運慶作といわれている不動尊像、脇仏二童子像が保存されています。【狩野氏に統治された花山村】源頼朝は、建久3年(1192)征夷大将軍に任ぜられ、武家政権である鎌倉幕府が成立しました。頼朝は幕府成立以前の文治5年(1189)に、葛西清重を奥州総奉行に命じ、その家臣、狩野氏が巳の口館に居城してこの地を治めました。【遠藤氏に永く統治された花山村】慶長5年(1600)、伊達政宗は仙台藩を成立させました。また慶長8年(1603)に家康は江戸幕府を開き、幕藩制度が確立しました。このような時代の中で、花山村は「宿老」の遠藤氏に中世以来支配され続け、明治維新を迎えています。【御嶽神社と鉄砲祭】神の山御嶽山の修業者であった「役の行者」が、金峰山蔵王権現社を近畿地方の吉野山より移したのが、御嶽神社の始まりといわれています。お鉄砲祭は正徳2年(1712)伊達藩宿老遠藤守信公の奥方が、幼君の病弱を憂い御嶽神社に祈願したところ、その効が現われ、その御礼として足軽に鉄砲を撃たせたのが起源といわれています。【満福山城国寺】応永元年(1394)、良厳和尚が開基した曹洞宗大本山総持寺の輪番地で、領主遠藤氏の菩提寺です。寺内には、明治維新で活躍した仙台藩の宿老遠藤充信(さねのぶ)、その子で四条派の画人、遠藤速雄といった人々の墓があります。【仙台藩花山村寒湯御番所】秋田藩に通じる秋田口を固めた関所の跡で、御境目番所となったのは、このあたりが仙台藩領となった慶長13年(1608)のことです。こうした封建時代の遺跡が建造物とともに残っていることは珍しく、大変貴重な文化遺産といえます。【花山村の誕生】慶応3年(1867)、明治天皇により、王政復古の大号令が発せられました。明治3年(1870)、廃藩置県が施行され、その後明治9年(1876)4月、「宮城県」が置かれました。さらに、明治22年(1889)に施行された「市町村制」により、花山村が確立し、今日にいたっています。』



展示物「花山村と千葉周作~周作の文武両道の基礎は美しい花山村の自然の中で育まれていきました。」より…『【花山村での誕生】周作は、寛政6年(1794)正月元旦、陸奥国栗原郡花山村荒谷(現在の宮城県花山村)に出生し、幼名を於菟松、字を成政といいました。千葉家の遠祖は、源平の合戦で房総に逃れた源頼朝を助け戦功をあげた、下総の豪族千葉常胤の一族で、代々剣法を家芸とし、周作の二人の祖父も、剣術の流派の達人でした。(父方の祖父清右衛門-北辰無双流、母方の祖父吉之丞-北辰夢想流)清右衛門の次男幸右衛門成勝、すなわち周作の父は、医を生業にしながら、剣術を教えていたということです。【周作と佐藤孤雲】栗原郡と玉造郡との境に、かつて小田という地があり、孤雲と号する人物が住んでいました。孤雲は、本名を佐藤重太郎といい、仙台藩郷士の職にありましたが、痘瘡にかかり醜い顔となったため、職を辞し、隠遁生活に身を投じていました。また、読書や刀剣鑑定に優れ、人徳も厚く、いつしか周作の父幸右衛門とも親交をもつようになりました。それが縁で、若い日の周作も孤雲と知りあうようになり、その影響で四書五経を学び、大いに心をきたえることができました。そのことが、後に剣の道へ進んだ千葉周作の、心技一体の基礎を築いたといわれています。』・展示物「千葉周作と江戸~剣の道で成功すべく十五歳で江戸へ出た周作はきびしい修行にあけくれました。」より…『「江戸での修行と成功」~【道場時代】文化6年(1809)、幸右衛門は、三人の息子の将来を考え、剣術の修行のために一家で江戸へと旅立ち、江戸近郷の松戸宿に住むことになりました。又七郎は周作が大器であることを認め、自らの道場での修行を終えたあとで、かつての師匠である中西忠兵衛の道場に周作を通わせることにしました。3年の修行の後、26歳になった周作は中西道場でも免許皆伝を与えられ、再び浅利道場に戻り、道場の後継者として又七郎の養子となりました。【武者修行時代】周作が27歳の時、剣法上のことで義父又七郎と対立、離縁し、千葉姓に戻り、自らの流儀を北辰一刀流と名付けました。当時、天下に名をあげる方法は、他流試合に勝つことで、周作も自分の腕を磨き、試すために、諸国武者修行の旅へと出ることにしました。周作はどこへ行っても強く、教えを請う者も多かったということです。【玄武館開設】文政5年(1822)の秋、武者修行を終えた周作は江戸に戻り、北辰一刀流道場「玄武館」を日本橋品川町に開設しました。29歳の周作の教授法は理にかなったもので、門下生は、たちまち増えていきました。また、心、気、力の一致を旨とした北辰一刀流そのものも、従来の剣術のように形式にとらわれない実践的なものであり、そのことも玄武館の人気を支えていたといえます。【江戸での名声】文政8年(1825)、神田お玉ヶ池に道場を移した玄武館は拡張を続け、ついに敷地三千六百坪、道場八間四面もの規模となり、寄宿舎も置かれるほどになりました。周作の名声も高まり、玄武館は江戸の三大道場のひとつに数えられました。また、周作は天保6年(1835)より水戸藩の師範を務め、後に百石の秩禄を得るにいたりました。「晩年の周作」~嘉永5年(1852)、周作は浅草観音堂に、門弟の名を託した額を奉納しましたが、その数は三千六百人にもおよびました。このように江戸での名声を欲しいままにし、天下に名を馳せた周作も、安政2年(1855)に、62歳でその生涯を閉じました。「剣術の大衆化」~剣術への関心が高まっていた幕末の江戸で、最大の道場を構えていた周作は、剣術の技術をシステム化し、教育事業として成功させました。それは剣術の大衆化を意味し、今日の剣道へと命脈をつないでいます。千葉道場成功の理由には、周作自身剣法を家芸とする一族の出身で、剣術に秀でていたことが、当然あげられます。しかし、周作が他の道場を引き離した大きな要因のひとつには、煩雑だった昇段制度の簡略化があります。修行過程は流派により異なりますが、周作は八段階あった小野派一刀流の過程を三段階にし、昇段のたびにかかる費用を大幅に削減、今日のお金に換算して約百万円安くしました。もうひとつの要因は、それまで閉鎖的で抽象的かつ難解であった剣術の教授法を、具体的で明快なものに改め、誰にでも理解しやすく、身近なものとしたことにあります。「玄武館と幕末」~周作の時代は、黒船の来航により太平の眠りからさめた時代でした。人々は国難の危機におびえ、若者たちはこぞって剣を学び、また、天下国家を論じあいました。幕末動乱の時代は、周作を必要としていたのです。周作の玄武館は、幕末史上活躍した多くの人物を輩出しています。水戸藩士を始めとして、門下随一といわれ、水戸藩にかかえられた海保帆平、浪士隊を結成した清川八郎、無刀流の祖山岡鉄舟など、枚挙にいとまがありません。また、周作の弟定吉の、桶町千葉道場の門下生であった坂本龍馬は、定吉の息子重太郎と意気投合し、ともに勤王運動に奔走。周作の玄武館にも出入りしていました。』

千葉周作生誕の地・周作の生家道場跡。

妙見様(千葉介氏所蔵)

千葉家の氏神・北辰妙見社。

佐藤孤雲の墓石。

佐藤孤雲三十三回忌の供養碑。

千葉周作画像(東條会館所蔵)…『周作は、面長で眉が秀で、切れ長の目に、鼻は高く、身長は六尺(約180センチ)もある立派な体格をしていました。また、その眼光はらんらんと輝き、左右の手を下げると膝におよぶほど長く、大の字に寝ると、二畳間の四隅に達したといわれています。この肖像画は、その周作の姿を今日に伝えるもので、嘉永六年(1853)、周作が六十歳の時に、門人の高橋喜惣次が画工に描かせたものです。この絵の賛を求められた周作は、筆をとり、「夫剣者瞬息(それけんはしゅんそく)心気力一致(しんきりょくいっち)」という言葉を書き記しました。周作の剣術の極意は、この二句につきるといえます。』

千葉周作の墓(東京都豊島区本妙寺)

北辰一刀流免許皆伝書(岩崎兼三氏所蔵)

他道場との修業過程の違い。

東條一堂先生瑶池塾の址・千葉周作先生玄武館の址。
玄武館…『諸国武者修行を終えた周作は、江戸日本橋品川町に道場を開き、「玄武館」と名付け、自らの流派を「北辰一刀流」と称しました。文政八年(1825)、神田お玉ヶ池に道場を移した玄武館は、日に日に名声を増し、門弟も増えていきました。現在の玄武館跡(東京都千代田区神田東松下町)には、その所在を示す石碑が建てられており、周作が花山村の生まれであることも記されています。また、「北辰一刀流」は、現在もその灯をたやすことなく受けつがれており、東京都杉並区に、その本部が置かれています。』

千葉周作と佐藤孤雲…『少年であった周作が、江戸へ旅立ってから、何年もの月日が過ぎ去って行きました。そして、この家の七代目当主であった佐藤孤雲は、今では江戸で剣術家として大成している周作の子供時代の思い出にひたっています。』

北辰一刀流系譜。
千葉周作の人間像…『周作にまつわる逸話や今日に伝えられる彼の文人としての作品は、私たちに生き生きとした周作像を思い描かせてくれます。【周作の気質】日本一の道場を築きあげた周作は、少年の頃から人一倍、負けん気が強かったと伝えられています。周作の気質を今に伝える、こんな逸話が残されています。少年の頃のある日、武家の矢場で、周作が数人の若侍が弓術の練習をしているのを見学していたところ、一人の若侍が寄ってきて「お前も弓が好きか。」という。その態度が高慢無礼であることに周作は腹を立てたが、冷静に軽く一礼すると、「少々は心得ています。しかし拝見すると、あなた方の腕前ではいざという時に役に立ちますまい。」と返答した。これを聞いた若侍たちは真っ赤になって怒った。「それほど大言を吐くなら、俺達の矢面に立ってみるか。物の役に立つか、立たぬか見せてやろう。」周作はにっこりと笑って、手に木剣を提げて矢場の真ん中に突っ立った。それに対し若侍達は、強弓を引きしぼって次々と射始めた。周作は少しも慌てず、次々に矢をかわし、あるいは打ち落としていった。やがて矢種がつきたのを見すました周作は、「御無礼の役、何卒お許しを。」と丁重に挨拶して矢場を立ち去った。-というのです。【文武両道の周作】周作は剣術家として一流であったばかりでなく、文人としても多くの作品を残しています。周作は文学を好み、諸国を漫遊する毎に必ず日記をつけ、それが数巻にもなるほどでした。また、和歌、俳諧、狂歌をたしなみ、どんなに忙しいときでも、興が乗ると即興で歌を吟じたということです。』

江戸への旅立ち…『文化六年(1809)のある日、周作の父幸右衛門は孤雲を訪ね、三人の子供の将来のために、江戸に出る考えがあることを告げます。孤雲も賛成し、父についてきた於菟松(後の周作)に、江戸で修行し、大きな志を持つよう悟しました。そして一振りの刀を差し出し、剣の道でその名を天下に知らしめるよう努力し、大いなる成功を願いなさい、と叱咤激励しました。この刀こそ「備前國住長船祐定作、永禄十三年八月作」と刻まれた、孤雲の愛刀です。刀を受け取った幸右衛門一家は、江戸での成功を夢見て旅立って行ったのです。それは、於菟松が十五歳になった春のことでした。』

北辰一刀流剣術指南所。
北辰一刀流免許皆伝書。
周作が賜わった孤雲の刀「備前國住長船祐定」(模造品)
孤雲が自分の愛刀を周作に差し出し、江戸での成功を願う様子。
その他屋敷内諸々。
説明省略。
現地でお楽しみください。
こちらは向かいにあった草木コミュニティセンター。


地名「草木」の由来…『本村入り口川原町に明治の末頃まで草木塔という高さ約1メートルの自然石の塔が立っていた。度重なる水害で流失したが、草木塔は全国に約百基、うち山形には八十基が現存している。草木塔は仏教思想特に山岳信仰にもとづき伐採した植物の霊を慰め、植樹や緑化に尽力した人の顕彰、自然への尊敬と感謝などの思いが込められて建立された。花山村が、京都と平泉を結ぶ重要な交通ルート上にあり、奥羽山脈を越えた京都や山形地方の文化がまっさきに根をおろした地であることから、草木塔がこの沢の入り口に建てられ、だれ言うとなく草木塔が草木と呼ばれるようになった。破壊される自然への鎮魂と、自然を守ろうとする決意の表明が草木塔であり、草木の名称の由来である。平成十一年二月吉日花山村』





































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