
宮城県大崎市岩出山池月上宮宮下。

池月は江合川沿いの河岸段丘と丘陵地から成ります。江合川段丘部に川の蛇行によって形成された三日月形の池があり、池月沼と称したことに因む地名といいます。宇治川合戦で有名な源頼朝の名馬池月もこの地より献上したともいいます(安永風土記)。近世には上宮村の字。池月村は明治5~22年の玉造郡の村名。
上宮村は江戸期~明治5年の村名。玉造郡のうち。江合川北岸の河岸段丘と丘陵地から成ります。村名の由来について、式内社と伝える荒雄川神社の由緒書には「当社が奥州一の宮たりし頃に置かれし神宮寺は其の後衰廃して名のみ存し、村の名も神宮と称し更に之を上宮と書き換え」たとし、また、下宮の八幡宮に対する上宮であるとも伝えています。岩出山本郷に要害を拝領した岩出山伊達氏の給地と蔵入地から成ります。村高は元禄郷帳で313石余、天保郷帳では476石余。安永期の村況は村高が47貫余(うち田代37貫余・畑代10貫余)・人頭39・戸数45・人数210。修験に羽黒派明王院があり、村鎮守は荒雄川神社。江合川を堰止めて灌漑用水を引くため二ツ石堰がつくられました。小黒ケ崎・松程鉱山は寛永期に金鉱を採掘。室町期に廃寺となった神宮寺跡には嘉元・正和など鎌倉期の紀年銘板碑群があり、藤原秀衡の家臣佐藤庄司の居館と伝える庄司館跡もあります。明治元年新仙台藩、以後、仙台県・一関県・水沢県・磐井県に所属。明治5年下宮村・鵙目村・上一栗村と合併、池月村の成立とともにその一部となります。次いで同22年一栗村成立に伴い池月が一栗村の大字となり、上宮は一栗村池月の字となります。

荒雄川神社…『延喜式神名帳(延喜七年に編集した代表的神社台帳)にのっている玉造三座の一つで、鬼首の荒雄岳上の社を奥宮と称したのに対して里宮と称され、神宮寺も併置されて、この地方の信仰の中心となっていた。祭神は、須佐雄尊と瀬織津媛尊で、応徳3年(1086)ころに、源義家が征東の際、戦勝を祈って黄金の剣を奉納したと伝えられている。また、嘉応2年(1170)に藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし、室町時代には、奥州探題の大崎義隆が大崎五郎の一の宮として崇敬し、江戸時代に至っては、岩出山伊達家の氏神となった。寛保3年(1743)に、幕命によって江合川(荒雄川)沿いの三十六所明神を合祀したので、三六社様とも称されている。』

岩出山池月の荒雄川神社は「里宮(里の宮)」、鬼首温泉の荒雄川神社を「嶽宮(奥の宮)」と呼んでいます。
記念碑…『宮城縣知事從四位勲三等俵孫一篆額 維レ松河原堤ハ江合川ノ流路ニ沿ヒ下宮及二ツ石堰用水路ヲ擁護ス其ノ位置ハ奔湍激突ノ衝ニ膺ルヲ以テ洪水氾濫スル毎ニ決潰ヲ免レサリキ大正三年之ヲ修築スルニ當リ工法ヲ改メ石造ト為シ水ニ面スル半部ニ鐵筋混凝土ヲ施セリ堤ノ全長ハ參百六拾七間總工費金參萬六千餘圓ナリ工茲ニ竣レリ自今沿岸ノ地役ク舊時ノ惨害ヲ見ス永ク耕耨ノ利ヲ享タルコトヲ得ムカ地方有志者碑ヲ立テ之ヲ記念セントス仍テ梗概ヲ識ス 大正三年拾一月七日 宮城縣土木課長從七位勲八等中村悌一郎撰 佐々木露村書』

『荒雄川神社三十六所明神総社なり』

社号標「延㐂式内郷社荒雄川神社」(御即位記念・大正4年8月7日建之)

鳥居(奉納鉄本悟)
石灯籠一対。


畜魂碑…『岩出山町お西部に位置する池月地域の畜産も昔から馬産地として知られ終戰後は役牛酪農肉用牛繁殖と時代と共に変化を見て耒て居りますが名馬名牛を数多く生産し社会はもとより農家経営に大きく貢献した多くの家畜の霊が安らかであらんことを願って飼養者の総意に依り慰霊の碑を建立したものです。昭和六十年四月吉日畜魂碑建設委員会』

馬頭観音(昭和39年4月20日森市治建之)

石殿一基。

産婆(大正14年旧11月26日鉄本つぎ行年七十七)

産婆。

参道石段。

鳥居。
狛犬一対。
狛犬一対。
石灯籠一対…
かと思いましたが、日付が違いました。
見た目はそっくりなんですけどね。
参道を振り返るの図。
手水舎。


神社庁より…『【主祭神】大物忌神【例祭日】8月7日【由緒】本社は養老4年の創祀と伝えられ、荒雄山上に鎮座し俗に三十六所明神と称した。延喜の制小社に班す。前九年の役に陸奥守鎮守将軍源頼義安倍一族征討の際大谷孝任をして当社に祈願をこめ黄金十枚、黄金造の太刀一振を献じた。当時の神主阿部保則の後胤式部大輔保時十七日の間祈祷したところ官軍大勝利を得たという。又、後三年の役に源義家も戦勝を祈請したといわれる。大崎氏の志田・玉造・栗原・加美・遠田の五郡を領するや、当社を一ノ宮と称し社領三十貫文を寄進崇敬した。この後、伊達政宗岩出山在城の節本社を郡内総鎮守とし、神領を献じ崇敬旧の如し。明治6年5月郷社に列せられ、同44年5月供進社に指定された。これより先、明治41年8月六社を合併した。』


Wikipedia「荒雄川神社 (大崎市岩出山池月)」より一部抜粋…『荒雄川神社(あらおがわじんじゃ)は、宮城県大崎市岩出山池月にある神社である。 旧社格は郷社。玉造郡の式内社三座のうちの一座である。「荒雄川」は江合川の別称である。【祭神】須佐雄尊と瀬織津姫尊を主祭神として祀る。宮城県神社庁によれば大物忌神が主祭神とあるが、由緒書や宮司に伺った話では里宮では祀られていないという。その他に、境内社として山神社(祭神:木花咲姫)と天神社(祭神:菅原道真)、水分社(祭神:水分神)などが鎮座している。【歴史】由緒書によると、養老4年(720年)に創建されたという。玉造郡に鎮座する式内社三座のうちの一つである。鳴子温泉郷の鬼首温泉に鎮座する荒雄川神社と対になっており、岩出山池月の荒雄川神社は「里宮(里の宮)」、鬼首温泉の荒雄川神社は「嶽宮(奥の宮)」と呼ばれており、奉斎する宮司社家もそれぞれ別である。主祭神は須佐雄尊と瀬織津姫尊である。由緒によると、穢れを清める祓戸大神の一柱である瀬織津姫尊は、当社では川の上流を司る水神として祀られたものであり、神社庁の由来にある「大物忌神」の名も、荒雄川の清浄な水の流れを司る神である瀬織津姫への畏敬の念と、水を穢すことへの禁忌の念から名付けられたのではないかという。里宮の鎮座する地は古来からの聖地であり、境内には縄文時代の祭祀遺跡とされる「荒雄川神社遺跡」があり、神社周辺でも縄文土器や石器などが発掘されている。荒雄川神社が創建された後も神宮寺が併設されるなど、地域の信仰の中心地であった。前九年の役が起こると、陸奥守鎮守府将軍である源頼義は、安倍一族征討祈願のために大谷孝任を派遣して黄金10枚と黄金造の太刀一振りを奉納している。後三年の役の戦中である応徳三年(1086年)には、源義家も戦勝祈願をしたと伝わる。嘉応二年(1170年)に藤原秀衡が鎮守府将軍に任命されると、荒雄川神社は「奥州一の宮」と定められた。室町時代になり、奥州探題大崎氏が大崎五郡(志田郡・玉造郡・栗原郡・加美郡・遠田郡)を領有すると「大崎郡一の宮」として篤く崇敬され、社領三十貫文の寄進をうけた。江戸時代には郡内総鎮守へ指定、岩出山伊達家の氏神となった。寛保3年(1743年)、幕命により、江合川(荒雄川)流域の三十六所明神を合祀したため、荒雄川神社は別名「三十六所明神」「三十六社様」とも称される。明治5年に郷社へ指定。』
石灯籠一対(大正7年8月7日)


狛犬一対。
社殿。
拝殿向拝蟇股・木鼻等。




拝殿向拝神額。


境内。




太郎杉の跡。


荒雄川神社遺跡…縄文時代中期(約五千年前)の遺跡。

「太郎杉」のご紹介…『写真の木は、昭和三十八年頃までこの場所にありました。当神社の御神木で「太郎杉」と呼ばれ、樹齢は伐採時の年輪確認で、約千四百年とも言われています。荒雄川神社がおよそ千三百年程前に創建されたと記されておりますから、神社の創建より更に百二十年程前にこの場所に根付いていたことになります。写真は昭和三十六年八月に撮影されたもので、今から五十七年前に撮影されたものでございます。木の手前に立つ人の大きさと対比すれば、その年数にもご納得されると思います。また当神社の境内には、太郎杉の兄弟杉と言われる「次郎杉」・「三郎杉」・「四郎杉」・「五郎杉」もありましたが既に枯れてしまい、根の部分が朽ちてはいますが、わずかにその痕跡を見ることができます。』


授与所。


天神社。承久三年(西暦1221年)勧請。






社殿横の鳥居。

石殿等たくさんありました。








「御霊抜き御明神像納め所」とありました。


こちらはWikipediaに「カエルの石祠」(石祠内にはカエルに似た石を祀る)と紹介されていました。


水分社。

水分神(昭和5年5月1日建之)

馬櫪神(明治■年7月17日)

神輿堂。


こちらは…



とのことです。

山神社。建永二年(西暦1207年)勧請。






































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