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宮城県大崎市鳴子温泉鬼首久瀬。荒雄川神社(荒雄さま)・主馬神社。
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荒雄川神社・主馬神社…『主馬神社は市指定有形文化財「金華山号」を祀る。大正元年(1912)に現在の荒雄川神社境内に堂を建て安置した。』
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鬼首(おにこうべ)は江合川(荒雄川)の源流部に位置し、東西約14.5km、南北約16kmのほぼ円に近い外縁をなします。那須火山帯栗駒火山群鬼首火山の中央火口丘荒雄岳を620~1,290mの外輪山が囲む山地。荒雄岳と外輪山の山麓接線を江合川が時計の逆まわりで流れ、流域には発達した河岸段丘高原と環状盆地が形成されています。外輪山に画された当地は、往古より他郷と隔絶した別天地であり、往来は東に国見峠、西に花立峠(小国峠)、南に小豆坂・六角峠、北に鬼首峠(秋田峠)を越えて他境に出ます。温泉が地内所々に湧出しており、古来、硫黄・石英・石雲母・金・銀・銅の鉱産や漆の生産に富み、馬産地としても知られていました。地名の由来についてですが、坂上田村麻呂が蝦夷経営の際、蝦夷首領大武丸を斬った時に、その首がこの地に落ちたので鬼首と呼んだという伝説を残しますが、鬼首は本来鬼切部と呼ばれていたものの訛りと考えられます。鬼切部は平安後期奥六郡の安倍頼時と陸奥太守藤原登任の大戦があった古戦場。その安倍館と称するものが鬼切辺館あるいは鬼城と呼ばれ、古塁跡を残しています。義経記によりますと、平泉に藤原秀衡を頼ろうとした源義経主従は北陸道を下り、大梵字(山形県鶴岡市)~清川~亀割山~栗原寺~平泉のコースをとっていることから、清川より東については現在の国道47号(北羽前街道)沿いに東に進み、鬼首・鳴子を経て栗原寺(栗駒町)に向かっていることがわかります。奥羽永慶軍記には、玉造郡一栗(岩出山町)城主の氏家兵部は、はじめ大崎にそむいて伊達政宗につき、その伊達にもそむいて最上義光に頼ろうとし、鳴子・志登米(尿前)・瓶割(亀割)坂を経て最上に向かったとあり、やはり鬼首にかかったことになっています。
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戦国期に見える鬼首は栗原郡のうち。奥羽永慶軍記には、天正14年の大崎領内訌及び翌15年の伊達政宗の大崎領進攻作戦に、岩手沢氏家弾正一味に「鬼首」の名が鍛冶屋沢などの名とともに出ています。この本は江戸期に入っての成立ですが、内容の基本は伊達治家記録の記事とほとんど同じであり、永慶軍記の方がより詳しいので、ここの鬼首や鍛冶屋沢も戦国期に遡るものといっていいです。江戸期の鬼首村は栗原郡一迫のうち。北は須金岳の峰を境に出羽秋田藩領に、西は小国峠を境に出羽新庄藩領に接します。元禄郷帳の村高は534石余、天保郷帳では1,973石余。安永風土記によりますと、村高は田代179貫余・畑代17貫余で計197貫余(うち蔵入地192貫余・給所5貫余)。人頭は寛永検地の竿答百姓53から189に増加。家数191(うち名子1・借屋1)、人数は男534・女475で計1,009、馬349。神社としては荒湯の遠流志別石神社、根松の山神社、寒湯の牛頭天王社、清水台の愛宕社など16社。寺は曹洞宗鬼亡山洞雲寺・浄土真宗正楽寺代僧高学坊、修験は羽黒派善行院。村鎮守の不動堂など仏閣5。村内原屋敷には雑石御蔵2棟の御蔵場がありました。広大な村域は山岳地帯であるため、御林22・堤17・堰27を数え、産物はシイタケ・ワラビ・ゼンマイ・フキ・ウド・薯蕷で山村の様相が伺えます。荒湯・姥湯・寒風沢湯・もとめしらめ湯・吹上湯の温泉がありました。明治元年新仙台藩、以後、仙台県・一関県・水沢県・宮城県・磐井県を経て、同9年宮城県栗原郡、同11年玉造郡所属。同22年町村制施行により1村で独立村を組織。戸数・人口は、明治42年には256戸・1,615人、大正5年には287戸・1,987人、同13年には310戸・2,211人。大正11年の民有有租地1,123町余、うち田182町余・畑42町余・宅地33町余・山林原野864町余。昭和29年鳴子町・川渡村と合併、現行の鳴子町鬼首となります。
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花渕山登山道(小向コース)案内図。
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参道が登山道になっています。紹介するのは神社までです。
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鳥居(奉納平成2年9月9日鬼首振興株式会社・荒雄建設株式会社。佐々君治山報恩会)
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参道。
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参道石階段と長床。
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御神木。
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荒雄川神社奥宮境内。向かって左から主馬神社・雷神社・荒雄川神社・八幡神社。
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パンフレット「鬼首鎮座荒雄川神社」より…『【荒雄川神社】ご祭神:大物忌神他五柱。当社の社伝や由緒によれば、もとは「荒雄河神社」と称し、荒雄岳の水神峠付近に江合川(荒雄川)の水源がありそこに社殿を設けて荒雄川の水への畏敬の念を込めて水神である大物忌神を奉斎したという。荒雄川流域にも大物忌神の神霊を祀る三十六ヵ所の神社が建てられた。その後も羽黒派修験の道場となったが、時代とともに荒廃したため、明治5年(1872)に現在の鎮座地へ遷座した。【主馬神社】ご祭神:金華山号神。金華山号は明治二年(1869)鬼首の生まれ。幼名は「起張(きちょう)」と言う栗毛の雄馬でした。明治9年(1876)の明治天皇奥羽地方巡幸の際、天皇の目に留まり御料馬に召し上げられ「金華山号」に改名した。明治28年(1895)に金華山号は老衰で死去しましたが、金華山号を特に寵愛していた明治天皇の意向により、剥製にされ聖徳記念絵画館に安置されている。【八幡神社】ご祭神:誉田別命。【明治天皇御料馬「金華山号」】明治天皇御料馬「金華山号」の等身大木製をお祀りしております。鳴子温泉鬼首に鎮座する荒雄川神社、山の中にある自然豊かな神社。【御祈祷のご案内】安産祈願・初宮詣・七五三・歳祝い・厄祓い・交通安全・地鎮祭※その他の御祈願も受付いたします。お申し込みは社務所へご連絡ください。』
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宮城県神社庁より…『【鎮座地】宮城県大崎市鳴子温泉鬼首字久瀬3番地【主祭神】大物忌神【例祭日】9月9日、10日【由緒】当社の創祀年月明でないが、往古より荒湯(雄)川の水源に立つ大石2個(1個高さ9尺8寸、巾10尺8寸。1個高さ18尺5寸、巾9尺3寸)をば荒黄河大物忌命(或大物忌石)と奉称し尊崇していた。荒雄川流域36ヶ所に社殿を営み以て神霊の怒を鎮め奉った。よってこの社を36所明神とも称えて来たのである。天文年中羽黒派修験不動院(開山民部坊寿安)奉仕二世清元の代天正年中藩祖政宗岩手山在城の折若水桶及柄杓等を献じて尊信し同院に4貫50文の祭祀料を寄せた。明治5年社宇荒廃したので今の地に移祀し奉る。同8年5月村社に列格。大正10年2月供進社に指定された。氏子380戸(久瀬、小向、川東、原、田野、中川原、軍沢、寒湯、岩入、蟹沢)封内記に上宮村(今岩出山町池月字上宮)に36所、明神を載せ上宮村なるを式内社としている。思うに鬼首なるは奥宮(獄宮)で上宮なるは里宮(36所明神の1)であろう。祭神大物忌神とせるは社伝に従い、社号川の字を河に改めたるは延喜式によった。』
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Wikipedia「荒雄川神社」より一部抜粋…荒雄川神社(あらおがわじんじゃ)は、宮城県大崎市鳴子温泉郷の鬼首温泉にある神社である。旧社格は村社。玉造郡延喜式式内社三座のうちの一座。「荒雄川」は江合川の別称である。【祭神】大物忌神を主祭神として祀る。その他に、鬼首温泉に鎮座する神社の神々である素戔嗚命、誉田別命、軻遇突智命、大山祇神、日本武尊を合祀している。境内社として、雷神社(祭神:大雷神)と八幡神社(祭神:誉田別命)、主馬神社(祭神:金華山号)が鎮座している。【由緒】創建は不詳である。荒雄岳には雄石・雌石という2つの大石があり、その下から荒雄川の源泉となる水が湧き出ているという。その大石を『大物忌石』『大物忌神』と呼称し、社殿を建てて祀ったと伝わる。社伝や由緒によれば、もとは「荒雄河神社」と称し、荒雄岳の水神峠付近に江合川(荒雄川)の水源があり、そこに社殿を設けて荒雄川の水への畏敬の念を込めて水神である大物忌神を奉斎したという。荒雄川流域にも、大物忌神の神霊を祀る三十六ヶ所の神社が建てられた。その後も羽黒派修験の道場となったが、時代とともに荒廃したため、明治5年(1872年)に現在の鎮座地へ遷座した。岩出山池月の荒雄川神社に対して奥宮(嶽宮)と呼ばれる。【主馬神社】荒雄川神社拝殿南側に境内社である主馬神社が鎮座している。祭神として明治天皇の御料馬である金華山号を祀る。金華山号は明治2年(1869年)鬼首の生まれで、幼名は「起漲(きちょう)」、栗毛のオス馬だった。明治9年(1876年)の明治天皇の奥羽地方巡幸の際、天皇の目に止まり御料馬に召し上げられ「金華山号」に改名した。金華山号は、境内の説明によると、「・近衛秋季機動演習の天覧の際に、他の供奉の馬が砲声に恐れ慄き逃げ出そうとしている中、金華山号だけが泰然として何事もなかったかのように歩いた。・突然の雷雨で板橋が浮くようなことがあっても、金華山号だけが前足で安全を確認しながら静々と橋を渡った。・明治天皇が騎乗するときは前脚をひざまづき、体を低くかまえた。・明治天皇の観兵の折、急に大雨が降り足元の土が流失しようとも三本足にて体を支え、少しも動くことがなかった。」など、いかに優れた馬であったかを伝える逸話が残されている。明治28年(1895年)に金華山号は老衰で死去した。金華山号を特に寵愛した明治天皇の意向により剥製にされ、聖徳記念絵画館に安置されている。明治24年(1891年)に当時の社掌であった高橋盛喜が発起人となり、皇居外苑の楠木正成像の馬の部分を制作した初代後藤貞行が金華山号の木像制作の依頼を受け、明治34年(1901年)にケヤキ材を用いて等身大の金華山号の木像を鬼首温泉で制作した。その年の東北特別大演習の際に天覧に供され、その後、荒雄川神社奥宮の境内社として建てられた主馬神社の神体として納められた。 神体である金華山号の木像は、毎年9月9日・10日に行われる例祭の時だけ開帳される。平時も拝殿のガラス扉越しに見ることができ、扉の横のボタンを押せば上記の音声説明とともに拝殿のライトがつく。
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石灯籠一対。
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荒雄川神社奥宮拝殿。
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拝殿向拝。
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拝殿向拝神額(海軍大将末次信正)
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拝殿内。
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荒雄川神社奥宮本殿。
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雷神社。
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石殿等々。
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八幡神社。
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八幡神社拝殿神額。
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「八幡宮」
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主馬神社鳥居。
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主馬神社。
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主馬神社拝殿向拝。
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馬が彫られていました。
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金華山号の木像。
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境内案内板「鳴子町指定有形文化財」より…『【指定番号】有美第一号【名称】木彫「金華山号」【金華山号】明治24年神馬金華山号肖像木型製作発起人当神社社掌髙橋盛喜氏の依頼により、当時馬の彫刻家で知られた帝国技芸員初代後藤貞行氏によって、明治34年鬼首の地で製作されたものである。「金華山号」は、明治2年4月当時の栗原郡鬼首村で生まれ、幼名は「起漲(きちょう)」という名で、明治9年7月、明治天皇の奥羽地方御巡幸の折、その非凡さが認められて宮内省が買い上げ、後に名を「金華山号」と改められた。明治13年より26年まで明治天皇の側に長く仕えた名馬である。【指定年月日】平成14年7月29日【材質】欅(ケヤキ)【寸法】体高1.48メートル、耳からヒズメまで2.13メートル、前足より尾まで2.55メートル』鳴子町教育委員会
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