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宮城県大崎市岩出山城山。岩出山城跡(岩出山要害跡)城山公園。ちなみに駐車場には「玉造郡役所跡・岩出山町役場跡」という標柱がありました。
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こちらはSL広場に静態保存されている蒸気機関車C58形114号機。昭和14年2月に日本汽車製造株式会社において製造し、主に陸羽東線を約204万km走り続け、現在は岩出山町発展の記念物として永久保存されています。
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この日は人が集まって何かが行われていました。色々とイベントが行われているみたいですね。
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そういえば「岩出山100縁商店街」というイベントも開催されていました。
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一般社団法人鉄道文化連結会(陸羽東線シゴハチ歴史保存会・岩出山城山SL保存会)による整備活動のようです。
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案内板「蒸気機関車C58形114号機と人々の歩み(SteamLocomotive C58 114 in Japanese History)」より一部抜粋…『形式:C58形、製番1694、長さ18.275m、高さ3.940m、幅2.930m、動輪径1.520m、運転整備重量100.20t。【経歴】この機関車は昭和14年2月、汽車製造株式会社にて製造され、陸羽東線などを約204万km走り続け立派にその使命を果たし、岩出山発展の記念物として永久保存されることになり、昭和48年3月に国鉄から管理を移されたものです。●1939年2月18日C58形114号機製造、奈良機関区配属~1940年8月紀伊田辺機関区配属~1943年2月14日宮古機関区配属、盛岡-宮古-釜石間を走行~1944年8月仙台機関区配属、仙山線を走行~1949年8月7日小牛田機関区配属、陸羽東線を走行~1973年1月17日廃車、3月13日岩出山へ回送、3月14日城山公園へ搬送~2020年老朽化により解体方針発表、SL存続運動が起こる~2023年8月30日SL存続へ転進~2024年10月・11月ボランティア修繕実施』
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C58形蒸気機関車のしくみ。
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「力強さと軽快さを備えた万能のSL、それがC58「シゴハチ」…『C58形蒸気機関車(愛称:シゴハチ)は、地方線区の輸送力増強を目的として客貨両用機として作られた中型のSLで、貨物機の力強さと旅客機の軽快さを共存させた車体です。1938年(昭和13年)に誕生し、10年間で427両が製造され、輸送距離の長いローカル線用として全国各地で活躍しました。とくに陸羽東線で活躍したC58は、奥羽山脈の峠を越えるために蒸気機関車を2両連結する「重連運転」の迫力ある雄姿が有名となり、全国の鉄道ファンから今日に至るまで親しまれています。●SLとは?…蒸気機関車の呼び名を日本では、Steam Locomotiveの頭文字をとってSLと呼びます。石炭などを燃やした熱で水を蒸気エネルギーに変えて走行します。』
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蒸気機関車「シゴハチさん」と人々の想い…『動態から静態、そして城址・岩出山城へ。昭和48年(1973年)3月に岩出山城山公園に静態保存された蒸気機関車C58形114号機は、地域の方々に盛大に歓迎されながら城下の街並みと岩出山駅を望む方向にて設置されました。今も昔も変わらず人々の暮らしを見守るようにしてこの城山公園に鎮座しています。』・今を生きる私たちで未来に送り届けよう、過去からの大切な贈り物…『令和6年(2024年)に実施したクラウドファンディング「陸羽東線シゴハチ復興プロジェクト」にて岩出山地域や大崎市内・全国や海外の皆さまあkら修繕費用をご支援いただきボランティア修繕を実施しました。』
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園部秀雄先生顕彰碑。園部秀雄先生の偉業を称え、直心影流薙刀術秀徳会が中心となって建立した顕彰碑(昭和42年8月20日建立・平成元年4月23日修復工事)。大正、昭和の時代には、東京の女学校や道場などで薙刀の指導を行い、秀雄の教えを受けた者は3,000人とも言われています。大崎市三本木出身の二階堂トクヨが開校した東京の体操塾(現日本女子体育大学)でも薙刀の指導をされていました。秀雄は薙刀の普及、発展にも大きく貢献しました。
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碑文…『必勝不敗の女性剣士として名声全国にあまねく、百練千磨神技の修得にその一生をさゝぐ。真心影流正統なぎなた第十五代園部ひでを範士は、旧仙台藩士日下陽三郎の六女として、明治三年三月十八日、政宗卿ゆかりの地岩出山町上野目に呱々の声をあぐ。剣道範士園部正利の妻となり、家政を整え、子女を養育し、斯道の普及に貢献す。まことに婦人の鑑というべし。昭和三十八年九月二十九日、九十有四歳の天寿を全うし、東京世田ヶ谷宗源寺の土に還る。範士の偉業仰いでたかく、功績紫綬褒章の栄に輝く。また郷党の誇りなり、こゝに顕彰碑を刻して不朽の剣名を後世に伝う。昭和四十二年八月二十日宮城県知事髙橋進太郎題字、岩出山町長千葉啓一撰文』
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薙刀名人位園部ひでを女像。
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ちょっと登って見下ろした「シゴハチさん」
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眺望。
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岩出山城は、室町時代には岩手沢城といわれ、大崎氏の監視役であった氏家氏が代々の居城としたところです。岩手沢城は、大崎葛西一揆のときに廃荒した城を伊達政宗のために徳川家康が諸法山実相寺に40日の間止宿し修復しました。政宗は天正19年に岩手沢を岩出山に、城も岩出山城と改め、慶長8年に治府を仙台に移すまで12年の間、居城としました。その後第4子宗泰を要害岩出山1万5千石の領主とし、宗泰当時の遺構として、平坦や土塁、空堀などがあります。
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明治元年(1868)、岩出山伊達氏は北海道に移住し、知行は本藩に返上したため岩出山城は廃城となり、その後、城内の建造物はほとんど民間の所有となりましたが、明治9年の大火によって大部分が焼失。
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山田清太郎翁之像…『観光開発の先駆者。私財を投じて、その業に献身、町これを継いで整備完成し、城山公園の姿影を今日に残す。翁一栗に生る。刻苦ついに功を成す。己を信じ公に奉ず。錦秋翁の老躯を包み、夕陽今映ゆ。「かたみとて何か残さん春は花 山ほとゝぎす秋はもみじば」川端文豪の遺詠を呈して、翁の功績を後世に伝える。昭和四十七年十一月三日 題字宮城県知事山本壮一郎 撰文岩出山町長千葉啓一』
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「岩出山城政宗ここに十二年」岩出山城跡…『応永年間(室町初期)大崎氏の家臣氏家弾正が築城し、天正十九年(1591)豊臣秀吉の命をうけた徳川家康が伊達政宗のために榊原康政に縄張りさせ改築した。その時縄張りに用いた器具類を城中の一角に埋め、その上に米沢から成島八幡の分身を遷座して一祠を建立した。八幡平と称し、今に残されている。城郭は外堀をめぐらし、急峻な崖の上には土塁と内堀を備え本丸、二の丸、三の丸も深い堀切で区画され、東西約八百米、南北七百米の大規模なものであった。政宗が慶長八年(1603)仙台の青葉城に移るまで、十二年間居城した。その後第四子宗泰い一万五千石を与え領主とした。今は城山公園及び学校用地として整備され、四季の花が咲きほこり、町民のみならず、広く県民憩の場となっている。』
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岩出山城跡・城山公園史跡案内図。
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内門跡。
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大崎市HP「岩出山城址(城山公園)」より一部抜粋…『天正19年、豊臣秀吉の奥州仕置きにより山形県から城を移した伊達政宗は、岩手沢を岩出山と改めここを居城としました。現在は公園として整備され、訪れる人々の憩いの場となっています。【青年政宗居城の地】岩出山城は、室町時代には岩手沢城といわれ、大崎氏の監視役であった氏家氏が代々の居城としたところです。岩手沢城は、大崎葛西一揆のときに廃荒した城を伊達政宗のために徳川家康が諸法山実相寺に40日の間止宿し修復しました。政宗は天正19年に岩手沢を岩出山に、城も岩出山城と改め、慶長8年に治府を仙台に移すまで12年の間、居城としました。その後第4子宗泰を要害岩出山1万5千石の領主とし、宗泰当時の遺構として、平坦や土塁、空堀などがあります。』
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Wikipedia「岩出山城」より一部抜粋…『岩出山城(いわでやまじょう)は、陸奥国(のち陸前国)玉造郡(現・宮城県大崎市)にあった日本の城(一国一城令ののち要害)。伊達氏以前は「岩手沢城」と呼ばれており、古くは足利氏一門で奥州探題であった大崎氏の家臣氏家氏の居城であった。【別名】臥牛城、岩手沢城、岩出山要害【城郭構造】山城【築城主】氏家直益【築城年】応永年間(1394年-1428年)【主な改修者】徳川家康【主な城主】氏家氏、萩田氏、伊達氏【廃城年】1868年【遺構】土塁、空堀、堀切、石垣、虎口、曲輪【歴史・沿革】1590年(天正18年)小田原城攻略後の豊臣秀吉は、奥州仕置を行う。 これにより旧葛西・大崎領12郡は木村吉清・清久父子の領となるが、検地・刀狩りなどへの不満から一揆が発生する(葛西大崎一揆)。 この一揆への関与を疑われた伊達政宗は秀吉により無罪とされるものの、翌1591年(天正19年)に、米沢から葛西・大崎旧領に移封されることとなる。 移封に先立ち、当時奥州の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城に約40日滞在し、その間に城の縄張りや改修修築を行った後に伊達政宗への引渡しを行ったと言われる。 尚この時に「岩手沢」から「岩出山」へと改められた。 以後仙台城築城までの12年間伊達政宗の居城となる(この時期、伊達政宗は「大崎少将」を名乗った)。岩出山は奥大道の経路から外れており、1601年(慶長5年)より政宗は仙台城を築き、移った。その後、岩出山城は政宗の四男の宗泰を初代とする岩出山伊達家が居住する要害になり、明治維新までつづいた。なお、岩出山城には仙台藩の藩校のひとつである有備館が置かれ、庭園とともに史跡に指定されている。有備館の建物は現存する最古の藩校とされる。現在、城跡には有備館のほかに曲輪跡の平坦や土塁、大空堀、堀切、石垣を伴う虎口、が残るが、公園として手が加えられ過ぎている反面、城跡としての説明版などの整備は欠けている。また、城山公園、宮城県岩出山高等学校と大崎市立岩出山小学校として利用されている。城山公園には伊達政宗のコンクリート像(平和像)がある。これはもともと第2次世界大戦における金属類回収令で銅像を失った仙台城跡に置かれていたものだが、1962年に移設されたものである。仙台城の騎馬像に対して、岩出山城の平和像は起立した形で、1954年に柳原義達が製作し、小野田セメントが材料を無償で提供した。』
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23.2
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城山公園(岩出山城跡)~城山遊歩道~旧有備館及び庭園(階段下り右折徒歩15分)
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岩出山城址。
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宮城県知事三浦義男書。
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有備館開設三百年祭記念・昭和38年10月25日建立・岩出山町。
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西の腰郭跡にある伊達政宗公平和像へ。
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伊達政宗公之像。
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想像していたより大きい。
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コンクリート像です。第2次世界大戦における金属類回収令で銅像を失った仙台城跡に置かれていたものを1962年に移設。仙台城の騎馬像に対し、岩出山城の平和像は起立した形で、1954年に柳原義達が製作、小野田セメントが材料を無償で提供。
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『藩祖伊達政宗卿居城の地岩出山町城山を卜し卿の偉業を後世に顕彰するためここに建立する。昭和39年9月23日岩出山町長千葉啓一』
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政宗公立像について…『政宗公立像は、もと仙台市青葉城址にあったもので昭和三十九年九月仙台市から岩出山へ、寄贈されたものです。戦後空になった台座に、小野田セメント会社が彫刻家柳原義達氏に託し製作し仙台市に寄贈されたもので平服を着ているところから平和像と呼んでいます。岩出山は政宗公が天正十九年(1591)九月二十三日山形県米沢から移り慶長八年(1603)八月まで、十二年の間城を構えたところです。二十五才から三十八才までの充実した年代で、その間文禄の役関ヶ原の戦等に出陣しました。この像の建立を記念し毎年九月の第二土曜日と日曜日に、政宗公まつりを催しています。』
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旧有備館パンフレット「伊達政宗と岩出山」より…『伊達政宗は、天正19(1591)年豊臣秀吉の奥州再仕置により本拠を米沢から岩出山に移すことになりました。それまで岩手沢城と呼ばれていた城は、秀吉の命により東北に来ていた徳川家康によって修復され、政宗の新しい居城とすることが決められたといわれています。岩手沢城を居城とした政宗は、岩手沢を岩出山と改め、ここを十年余本拠としました。関ヶ原の戦いの後、家康から新たな領地を与えられ仙台に城を築き、慶長8(1603)年に四男宗泰を岩出山の城主(家格一門、知行高1万4600石余)としました。』
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