
宮城県大崎市岩出山上川原町。国指定史跡・名称「旧有備館および庭園」。裏門が入口となります。

案内板より…『仙台藩祖伊達政宗(1567~1636)は天正19(1591)年9月23日、米沢から岩手沢に居城を移し、岩手沢を岩出山に改めました。慶長8(1603)年には、仙台城に移り、岩出山は四男宗泰を初代とする岩出山伊達家が代々伊達一門として治めました。現存する有備館「御改所(主屋)」は、二代宗敏の隠居所として延宝5(1677)年に建てられた可能性が高い建物で、下屋敷としても使用され「対影楼」と呼ばれました。文化・文政期(1804~1829)の記録には岩出山伊達家の儒学稽古場として「有備館」の名称を確認することができますが、郷学(学問所)として開校されたのは嘉永3(1850)年頃、十代邦直が当主となった頃と考えられます。「庭園」は、正徳5(1715)年に四代村泰によって整備されたと伝えられます。岩出山城の断崖を借景として、池の中に御中島、鶴ヶ島、亀子中島、兜島の四つの島を配した回遊式池泉庭園で、御中島には茶亭があり、島に渡る橋が架けられています。明治維新後の明治2(1869)年には、有備館の御改所(主屋)と附属屋は岩出山伊達家の居宅となり、庭園とともに守り伝えられてきました。昭和45(1970)年4月1日に岩出山伊達家の御厚意により岩出山町(現大崎市)が譲り受け、一般に公開されるようになりました。』
有備館…『江合川南岸平野部の岩出山町の中央部で、上川原町6番地にある郷学(藩校)。有備館とその庭園は史跡及び名勝として国指定を受けている。伊達氏の一門であった岩出山要害館主第二代伊達宗敏が、寛文3年に二の丸が焼失した際、二の丸の一隅に仮居館を造り、翌4年に本館が完成し、仮居館は隠居所として使用された。この仮居館を元禄4年に三代館主敏親が改築して春学館と称し、寺子屋での教育を修了した藩士子弟のための学問所とした。翌5年には伊達氏の下屋敷であった現在地に移転改築し、名称も有備館と改めた。当時志田郡に仮寓中の佐久間洞巌も招かれて講義をした。初代学頭には鵙目喜之助が就いたが二代目以降は不明。有備館の名称の由来については書経の「備え有れば憂無し」の言葉からとも、史記の「文事ある者は、必ず武備あり」からともいいます。有備館は儒学を中心にした学問だけの指導を目的とし、武術については二の構に講武所を設けて指導。有備館は平屋建てでコの字型に配置された木造寄棟萱葺きの書院造りである。館主の間・御改め所・教官室・学生寮等10間から成る。御改め所の正面床の間の上にある「対影楼」の三文字のあるケヤキの掲額は、仙台藩の儒学者佐久間洞巌が賓師として滞在した際に書いたものという。建物の構造手法は簡素であるが、現存する藩学としては日本最古の建物である。有備館の南及び東側には1.3haの回遊式池泉庭園が広がる。有備館をこの地に移す前は、伊達氏の下屋敷としての小規模な庭園があったが、正徳5年に仙台の石州流茶道の大家清水道竿によって大庭園に造り替えられた。岩出山城本丸跡の50m余の断崖を背景とし、0.5haの池を中心にした庭園で、江合川をせき止めて引水した内川の水を引き込み、池には茶島・鶴島・亀島・甲島など、出島と称する半島を配している。茶島には朱塗りの橋が架けられ、島の中央には茶室がある。池の周囲には主要苑路が設けられ、これに沿って一つ一つまとまりのある茶庭及び路地や築山が配置されて大名型庭園の旧態を伝えている。庭園内には1,200本の各種の樹木が植えられているが、特に茶やツバキ・カヤのように実用性に富むものが多い。明治維新後、有備館及び庭園は岩出山要害の館を返上した伊達氏の邸となった。明治43年と昭和22・23年に江合川の洪水で池が埋まったり木が倒れたりしたが、町民の奉仕作業でその都度修復。昭和8年有備館及び庭園が国指定史跡および名勝となる。昭和45年伊達氏より岩出山町に所管替えになり、昭和46年に橋、同47年に池、同48~49年に有備館の屋根と床、同50年に茶室と水路、同51年に正門、同52年に生垣と通用門、同53年に庭園全体の修復工事が行われた。有備館内には江戸期に館内で使用された書物や地図・什器類のほか、岩出山町内出土の土器・石器類及び刀剣等が展示され、小博物館の役目も果たしている。』
正門。昭和51年に復元整備されたもので、三間一戸薬医門、銅板葺で袖塀9m、当時は質素な造りで屋根も木端によるこけら葺であったと伝わっています。
塀重御門。
御改所・附属屋。
公式HP「旧有備館および庭園」より一部抜粋…『【有備館の歴史】「有備館」は、江戸時代の仙台藩家臣である岩出山伊達家が開設した郷学(学問所)です。開校は十代邦直が当主の嘉永3(1850)年頃と考えられ、岩出山城北側の隠居所・下屋敷の敷地内に開設されました。現存する有備館の「御改所(主屋)」は、二代宗敏の隠居所として延宝5(1677)年に建てられた可能性が高い建物で、下屋敷としても利用され「対影楼」と呼ばれました。明治維新後の明治2(1869)年には,有備館の御改所と附属屋は岩出山伊達家の居宅となり、庭園とともに守り伝えられてきました。昭和8(1933)年2月28日、居宅と庭園は「旧有備館および庭園」として国の史跡及び名勝に指定され、昭和45(1970)年に岩出山伊達家のご厚意により岩出山町(現大崎市)に移管され、一般に公開されるようになりました。【御改所】郷学「有備館」で当主が講義を聞いたり、学生に口頭試問を行ったと伝わる建物です。郷学として利用される前の隠居所や下屋敷では、藩主や当主専用の「書院」と呼ばれた建物と考えられます。書院は藩主御成りの時は饗応所・御成り座敷として用いられ、そこでは能などが行われました。お上の間の床の落し掛けにはこの建物の美称と伝わる「対影楼」の扁額がかけられています。また、建物の西側には当主専用の便所が置かれた附属建物が存在したことが十代邦直が描いた「有備館絵図」から分かります。御改所からは、庭園の四季折々の美しい景色を見ることができます。【附属屋】家臣の控えの間などに使われた建物です。有備館での名称は不明で、郷学として利用される前の隠居所や下屋敷では「広間」と呼ばれた建物にあたるものと考えられます。式台は藩主や当主専用の出入口で、駕籠の乗り降りに適した高さに造られています。十帖と板の間には暖をとるための炉があり、板の間は畳敷きであった可能性が考えられます。十帖と板の間には、「旧有備館および庭園」の歴史などを紹介する映像・展示コーナーを設置しています。【庭園】享保元(1716)年7月22日、五代藩主伊達吉村が岩出山の居館に一泊し、二代宗敏の隠居所(有備館)に寄ったと記録があり、正徳5(1715)年に四代村泰が吉村をもてなすために整備したと考えられます。作庭は仙台藩の茶道頭清水道竿(1662~1737)と伝わり、岩出山城の断崖を借景として、池の中に御中島、鶴ヶ島、亀子中島、兜島の四つの島を配した回遊式池泉庭園で、御中島には茶亭があり島に渡る橋が架けられています。【茶亭】御中島にある茶亭は「松花庵」と呼ばれ,四畳半一重宝形造こけら葺,南東が庇付で下は縁淵を回しています。水屋は、小二畳敷一部簀子張となっています。【伊達政宗と岩出山】伊達政宗は永禄10(1567)年に米沢城で生まれ、天正19(1591)年に豊臣秀吉の奥州再仕置により米沢から岩手沢(岩出山)に本拠を移すことになり、秀吉の命により東北に来ていた徳川家康によって修復された岩手沢城を政宗が居城としました。政宗は岩手沢に入るとこの地を「岩出山」と改め、仙台城に移る慶長8(1603)年までの12年間本拠としました。この時期は、朝鮮出兵や京都での暮らしが長く岩出山で政務を行ったのはわずかな期間でしたが、その後の仙台藩へと続く基礎固めがされた時期でもありました。関ヶ原の戦いの後、家康より新たな領地を与えられ仙台に城を築き、岩出山城は四男宗泰(家格一門、知行高1万4600石余)に与えられ岩出山伊達家が誕生しました。』
中へ。
御改所…隠居所や下屋敷では、藩主や当主専用の「書院」と呼ばれた建物です。郷学「有備館」で当主が講義を聞いたり、学生に口頭試問を行ったと伝わる建物です。
「対影楼」の扁額
「秋陰孤狸之図」菱田春草筆
佐佐木美穂子氏寄贈。
庭園を望む。
借景。
附属屋…隠居所や下屋敷では「広間」と呼ばれ家臣の控えの間などに使われた建物で、有備館での名称は不明です。
詳細は省略いたしますが、色々と展示してあります。





国指定史跡及び名勝「旧有備館および庭園」…『「有備館」は、江戸時代の仙台藩家臣である岩出山伊達家が開設した郷学(学問所)です。開校は十代邦直が当主の嘉永3(1850)年頃と考えられ、岩出山城北側の隠居所・下屋敷の敷地内に開設されました。現存する有備館の「御改所(主屋)」は、二代宗敏の隠居所として延宝5(1677)年に建てられた可能性が高い建物で、下屋敷としても利用され「対影楼」と呼ばれました。「庭園」は、正徳5(1715)年に四代村泰によって整備されたと伝えられます。岩出山城の断崖を借景として、池の中に御中島、鶴ヶ島、亀子中島、兜島の四つの島を配した回遊式池泉庭園で、御中島には茶亭があり島に渡る橋が架けられています。明治維新の居宅となり、庭園とともに守り伝えられてきました。昭和8(1933)年2月28日、居宅と庭園は「旧有備館および庭園」として国の史跡及び名勝に指定され、昭和45(1970)年に岩出山伊達家のご厚意により岩出山町(現大崎市)に移管されました。』

御改所(主屋)…『「御改所(主屋)」は、郷学「有備館」で当主が講義を聞いたり、学生に口頭試問を行ったと伝わる建物です。郷学として利用される前の隠居所や下屋敷では藩主や当主専用の「書院」と呼ばれた建物と考えられます。書院は藩主御成りの時は饗応所・御成り座敷として用いられ、そこでは能などが行われました。お上の間の床の落し掛けには、この建物の美称と伝わる「対影楼」の扁額がかけられています。また、建物の西側には当主専用の便所が置かれた附属建物が存在したことが「有備館絵図」から分かります。「御改所(主屋)からは、庭園の四季折々の美しい景色を見ることができます。』

附属屋…『「附属屋」は、家臣の控えの間などに使われた建物です。有備館での名称は不明で、郷学として利用される前の隠居所や下屋敷では「広間」と呼ばれた建物にあたるものと考えられます。式台は藩主や当主専用の出入口で、駕籠の乗り降りに適した高さに造られています。十帖と板の間には暖をとるための炉があり、板の間は畳敷きであった可能性が考えられます。十帖と板の間には、「旧有備館および庭園」の歴史などを紹介する映像・展示コーナーを設置しています。』

館内案内図。

「白河結城家文書」書写資料…『江戸時代の始まり頃、旧領白河の地を離れて仙台領にやって来た白河義親・義名の兄弟は、先祖由来の貴重な古文書を携えて移り住み、大切に保管してきました。「白河結城家文書」として知られるその中世文書群は、当時から大きな関心が寄せられ、書写して蒐集しようとする動きがありました。真山白河家には、松平定信からの依頼によって作成された書写資料の控が、長い間同家で保管されてきました。今回の企画展では、会場スペースの都合上、実物はあまり展示することができませんが、できるだけ多くの資料を写真で掲示します。楽しんでご覧ください。なお、書写資料の全容はファイルにして館内に配置していますので、興味のある方は館内にてご自由にご覧ください。』

外へ。
橋。
木が何か凄い。

御中島。

茶亭。
茶亭「松花庵」と呼ばれ、四畳半一重宝形造こけら葺、南東が庇付で下は縁淵を回しています。春と秋にはお茶会を開催しています。
兜島・鶴ヶ島・亀子中島。
庭園を一周しております。
パンフレット「旧有備館および庭園」より一部抜粋…『【御改所(主屋)】郷学「有備館」で当主が講義を開いたり、学生に口頭試問を行ったと伝わる建物です。郷学として利用される前の隠居所や下屋敷では、当主専用の「書院」と呼ばれた建物と考えられ、お上の間の床の落し掛けには、この建物の美称と伝わる「対影楼」の扁額が掲げられています。【附属屋】家臣などの控えの間などに使われた建物です。このような建物は、隠居所や下屋敷では「広間」と呼ばれた建物と考えられます。「式台」は、当主専用の出入口で駕籠の乗り降りに適した高さに造られています。十帖と板の間には暖をとるための炉があり、「板の間」は畳敷きであった可能性が考えられます。』
パンフレット「旧有備館および庭園」より一部抜粋…『「有備館」は、江戸時代の仙台藩家臣である岩出山伊達家が開設した郷学(学問所)です。開校は十代邦直が当主の嘉永3(1850)年頃と考えられ、岩出山城北側の隠居所・下屋敷の敷地内に開設されました。現存する有備館の「御改所(主屋)」は、二代宗敏の隠居所として延宝5(1677)年に建てられた可能性が高い建物で、下屋敷としても利用され「対影楼」と呼ばれました。「庭園」は、正徳5(1715)年に四代村泰によって整備されたと伝えられます。岩出山城の断崖を借景として、池の中に御中島、鶴ヶ島、亀子中島、兜島の四つの島を配した回遊式池泉庭園で、御中島には茶亭があり島に渡る橋が架けられています。昭和8(1933)年2月28日、建物と庭園は「旧有備館および庭園」として国の史跡及び名勝に指定され、昭和45(1970)年に岩出山伊達家から岩出山町(現大崎町)に譲渡されました。【旧有備館の規模】・総面積13,874.88㎡・池の面積5,223㎡・借景の面積9,981.01㎡・建物の面積(御改所、附属屋、茶亭)200.27㎡・樹木の総数約450本【有備館の歴史】天正19年(1591)-伊達政宗、米沢城より岩手沢城に移り、岩手沢を岩出山と改める。・慶長6年(1601)-仙台城普請が始まる。・慶長7年(1602)-京都伏見屋敷において、伊達政宗四男愛松丸誕生(後の岩出山伊達家初代宗泰)・慶長8年(1603)-11月、政宗、愛松丸に岩出山城を授ける。・寛文2年(1662)-二代宗敏、本丸より新造の二の丸居館に移る。・延宝3年(1675)-三代宗親、冷泉為清の息女と婚姻。・延宝5年(1677)-二代宗敏の隠居所が、岩出山城の北側に造営。・宝永2年(1705)-8月17日、主馬(後の四代村泰)、冷泉為綱の息女と婚姻。・正徳5年(1715)-仙台藩の茶道頭清水道竿により、庭園が作庭。・享保5年~享保7年頃(1720~22)-この頃、佐久間洞巌が岩出山を訪れ、講義などを行う。・文化年間~文政2年頃(1804~19)-儒学稽古場としての有備館の存在がわかる。・嘉永3年(1850)-この頃、岩出山伊達家の隠居所に郷学有備館が開設される。・嘉永5年(1852)-伊藤東瞑が有備館督学に任命される。・明治2年(1869)-岩出山伊達家、居館及び仙台屋敷を引き払い、下屋敷に移る。・明治4年(1871)-第1回目の移住者が渡道する(第1次移住)。・明治5年(1872)-第2回目の移住者が渡道する(第2次移住)。・明治12年(1879)-第3回目の移住者が渡道する(第3次移住)。・昭和8年(1933)-「旧有備館および庭園」、国の史跡及び名勝に指定される。・昭和45年(1970)-岩出山伊達家より「旧有備館および庭園」が岩出山町(現大崎市)に譲渡される。・平成23年(2011)-東北地方太平洋沖地震「東日本大震災」により、御改所(主屋)などが被災する。・平成28年(2016)-御改所(主屋)附属屋等復旧工事完了【有備館の再生】平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、御改所(主屋)の倒壊など甚大な被害が認められました。平成25年11月より復旧工事が進められ、平成28年3月に全ての災害復旧工事が完了しました。』
パンフレット「宝の都・みやぎ大崎市」より…『岩出山伊達家の隠居所・下屋敷・家臣などを教育する学問所として使用された建物。池中に島を配した廻遊式池泉庭園。園内を彩る花々、樹齢300年になる古木も見事。』・パンフレット「大崎・鳴子温泉コース」より…『国指定史跡及び名称で、四季の移ろいを感じる。岩出山伊達家の隠居所・下屋敷・家臣子弟を教育する学問所として使用された建物。岩出山域の断崖を借景とし、池中に島を配した廻遊式池泉庭園。園内を彩る花々や紅葉、樹齢300年になる古木も見事。』
石殿一基かありました。


「御雷神」(昭和九甲戌年九月吉日、齋主建て廉子六十三才、涌谷日之天神社行者中教正森宮司五十一才)

池越しに見る旧有備館。
冷泉家の桜。



明神社。



社殿。

稲荷のようですね。棟札はよく見えませんでした。

石碑。

大五庚申(昭和11丙子年9月9日伊達宗夫四十六才、日之天神社行者中講義森宮司)

地金神(昭和6辛申9月吉日廉子五十九才、日之天神社行者森苐二郎)

三方金神(昭和40年5月吉日、伊達家)

双子鬼子母神(昭和40年5月吉日、伊達家)

ってことで一周してきました。
有備館庭園…『庭園様式には、極楽浄土を池や島・阿弥陀堂などで表現した浄土庭園や、水を用いずに石・砂・植栽などで表現する枯山水庭園、茶室にいたるまでの道として作庭される露地などがあります。有備館の庭園は、約13,000㎡の広さがあり、現在地から見える岩出山城の断崖を借景として庭園のデザインに取り込み、池を中心に園路を廻りながら景色を楽しみ、建物の中からの眺めも楽しむ回遊式池泉庭園です。正徳5(1715)年に岩出山伊達家四代村泰は庭園を整備し、享保元(1716)年に仙台藩五代藩主伊達吉村をもてなしたと伝えられています。現在の庭園内の島・池の護岸は、昭和23(1948)年のアイオン台風による被害の復旧工事により整備されました。これ以前の御改所南側の護岸は洲浜(緩い傾斜で玉石などを敷きならべた護岸)や荒磯(水際に岩や石をならべた石組)のような護岸で、石積へと造り替えられました。また、島・池の護岸はしがらみ(杭を打ちならべ、木の枝や竹を横に渡したもの)から杭列・丸太柵護岸へと替えられています。』

現在地。
明治末期頃、隣接する製糸工場の創立記念祝賀会と思われる写真。岩出山城の断崖(借景)を見ることができます。
鶴ヶ島の護岸は、しがらみであったことがわかります(明治期)
御改所南側の護岸は、荒く石組みされており、現在よりも建物寄りであったことがわかります(昭和7年頃)
往時の有備館…『岩出山伊達家十代邦直が、北海道当別に開拓移住後に故郷の有備館を懐かしみ描いたと伝わる「有備館絵図」には、御改所(主屋)、附属屋、正門、裏門、塀重御門、岩出山城の断崖(借景)、池の中の四つの島、御中島の茶亭と橋が現在と同様に描かれています。そのほか、御改所と附属屋の西側には、現在は存在しない複数の建物が描かれており、これらが有備館の学舎であり、教官舎であったと伝えられています。また、敷地の西側には大きな空き地が描かれており、現在の「有備館の森公園」までが範囲であったことが分かります。敷地の西側の空き地は馬場や射場として使われ文武の知識と技を磨いたと伝わっています。現在の西苑は、昭和53(1978)年に樹木の植栽や園路を設ける環境整備工事によって整備されました。』・西苑が整備される前の航空写真(昭和46年頃)
隣接する有備館の森公園。




岩出山工場では、伝統的に高い技術力を生かした高級生糸が生産され、欧米にも輸出されていました。生産量は昭和50年には年間約3,700俵(1俵60kg)を数え、従業員数も昭和38年には約250名を擁していました。

岩出山工場の歴史。
片倉工業株式会社岩出山工場全景(昭和25年4月当時)

越鳥南枝の碑。

『「身どもら不運にして、先祖の地を衛るあたはず、すなはち棄てて蝦夷地にはしる。されば、生命ある限り二度と再び立ち戻るを得ず、つつしんで永劫の袂別をまうす。」鎮守の社前にわかれを告げしより星霜百三十年たぐいまれなる苦闘を先祖の御旧恩と君臣の御情義によってのりこえ、当別開拓を成しとげしは、岩出山の士なり。郷里にとどまりし旧家中は、先祖累代の法燈をよく守り、維新激変により北と南に別れたとはいえ、互に古よりの郷を慕い、郷友の安否に惟いを寄せたるは、みちのく岩出山なり。いま、岩出山町・当別町が姉妹都市盟約を結ぶにあたり、相互に維新いらいの歴史を顕彰し、先祖の由緒功績を追慕して、この越鳥南枝の碑を建立し、以て先駆者の鎮魂をねがい、あわせて子子孫孫にいたるまでの親交をはからんとす。 平成十二年十月十二日 北海道当別町長伊達寿之 宮城県岩出山町長佐藤仁一』

世界かんがい施設遺産「内川」…『内川は、伊達政宗公の指示により岩出山城築造と同時期に掘られた人工の河川です。江合川に設けられた大堰頭首工(おおぜきとうしゅこう)から取水し、大崎市岩出山地域中心街を貫流したのち、大崎耕土約3,300haに用水を供給する農業用水路です。現在の内川は昭和62年から始まった国営大崎農業水利事業により改修されています。平成2年に内川改修計画プロジェクトチームが結成され、環境面など様々な面から検討を行い景観に配慮した石積護岸水路を造成、併せて川沿いには遊歩道や親水広場等が整備され、農業用水路以外に地域住民の交流の場や散策路としても活用されています。平成28年11月8日タイのチェンマイで開催された、国際かんがい排水委員会(ICID)・第67回国際執行理事会において「内川」が平成28年度世界かんがい施設遺産に登録され、平成29年12月12日には「内川」を含む「持続可能な水田農業を支える≪大崎耕土≫の伝統的水管理システム」が国連食糧農業機関(FAO)より世界農業遺産の認定を受けました。【世界かんがい施設の概要】かんがい施設遺産は、文明の発展に貢献した歴史的かんがい施設を保全し、歴史から持続可能なかんがいを学ぶこと、その存在を幅広く広報することを目的として、建設から100年以上経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの等、歴史的、技術的、社会的価値のあるかんがい施設を国際かんがい排水委員会(ICID)が登録・表彰する制度です。』

大崎市岩出山地区観光マップ。

有備館の森公園の向かいにある中鉢美術館。

日本刀の源流が東北にあったことを伝える美術館。かつて奥州では多くの刀鍛冶が活躍していたことを、日本刀の展示とともに紹介。

北の鉄文化探求の先駆者、佐藤矩康博士夫妻の像。

北の鉄文化…『不毛と云われた北の鉄文化に、在野の研究者・佐藤矩康博士(医学・工学)が医師の立場から非破壊によるエックス線CT法撮影で、出土刀の解明に初めて試まれ、東北・北海道からサハリン・シベリア・沿海地方、それに紀元前、西アジアから北方ユーラシアにかけて強大な遊牧民族国家を形勢していたスキタイへと道を拓いた事です。それは、再三、病に倒れながらの研鑽でした。その支えになったのは、先生が生まれ育った北の大地と先祖の故地(宮城県岩ヶ崎)への思いからです。そこは、その昔、蝦夷が朝廷と対峙した要衝で、意に反し服う身になった故郷の先人への哀感の情であり、敗者の側に立った歴史観からです。そして、いつも先生のそばに女医の和子夫人が付き添われていた事が、この研究を大成させたものと、私は思います。そして、この地に佐藤矩康博士夫妻の像を建立します。平成二十三年六月』

有備館駅へ。
東北の駅百選選定駅。

有備館駅の駅名由来…『岩出山城址の麓にある有備館は、岩出山伊達氏三代・敏親が、元禄五年(1692)子弟教育のために開設した学問所です。藩主が開設した学問所を「藩校」といいますが、有備館のように地方領主が開設した学問所を「郷学(郷校)」といいます。有備館は、仙台藩の藩校・郷学の中で最も早く開設されました。仙台城下の藩校「養賢堂」よりも四十五年も前に開校され、また、現存する唯一の遺構です。建物は平屋建ての茅葺屋根の書院造りで、現存する学問所としては全国で最古のものです。また、仙台藩茶道頭石州清水道竿作庭の回遊式の池泉庭園も見応えがあり、建物・庭園共に国の史跡・名勝に指定されています。有備館の名称は、「史記」にある「文事有れば必ず武備有り。武事有れば必ず文備有り」や「故事」の「備え有れば憂いなし」に由来すると伝わっています。この名の由来を受けて、平成八年(1996)三月十六日、陸羽東線の有備館駅が開業しました。』

伊達政宗公騎馬像。
伊達政宗公騎馬像…『【伊達政宗公(1567~1636)】戦国・安土桃山、江戸時代初期の武将。仙台藩主。幼名は梵天丸。18歳で家督を継ぎ米沢を根拠地として勢力を伸ばした。徳川政権成立までは戦国大名の姿そのもので、豊臣秀吉との攻防は有名である。江戸幕府成立後、居城を岩出山から仙台に移し、名実ともに仙台藩62万石の大名となり、70歳で没するまで終生藩主の座にあった。海外交易にも力を注ぎ、支倉常長をローマに派遣した。また、和歌・能・茶道に通じ、仙台に桃山文化を移植するなど文化面にも貢献した。幼少の頃右目を失明し「独眼竜」と称された。【宮城米と政宗】伊達藩の米の生産高は天下一と伝えられている。実高は100万石を確実に突破していたとされる。それは、政宗が大規模な新田開発と、運河や海路の整備をなした成果といえる。江戸の米の大半は仙台米が占め、江戸の米相場は仙台米を建米として米価を定め、またそれは本穀米(本石米)と呼ばれ、消費経済の基準ともされていた。』

伊達政宗公騎馬像について…『この伊達政宗公騎馬像は、平成元年よりJR仙台駅に設置され、多くの方々に愛され親しまれてきましたが、仙台・宮城デスティネーションキャンペーン開催に先立ち、東日本旅客鉄道株式会社仙台支社様のご厚意により、政宗公が青年期の十二年間を過ごした、ここ大崎市岩出山の新たなシンボルとして、学問所「有備館」に隣接し、岩出山城跡地を眺められるこの地に平成二十年三月十六日に設置されました。この騎馬像は、仙台市在住の美術家松尾ルミ子氏によってデザインされたものです。大崎市』



































































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