
宮城県大崎市鳴子温泉赤湯。江合川沿い。

温泉村は明治22年~大正10年の玉造郡の自治体名。鳴子・大口・名生定の3ヶ村が合併して成立。大字は旧村名を継承、3大字を編成。村名は古来温泉郷であることに由来。地内鳴子・大口には川渡・田中・赤梅(赤湯)・旧車・新車・鳴子・河原・中山の8温泉があり、俗に「温泉村の八湯」と称されました。明治23年、村のほぼ中央を東流する荒雄川(江合川)と西域を流下する大谷川に並行して羽前街道(最上街道)が新道として開掘されて温泉村八湯は繁昌しました。湯治客は山形・岩手県からは馬や馬車で、また近郷近在は歩いて来湯、当時は三廻り湯治と称して21日間の入湯が普通とされていましたが、中には30~40日も滞在するなど極めてのんびりした湯治風習でした。宿は湯守の家族営業であったため、湯治客同士が手料理を分け合って楽しんでいました。土用の丑の日は「丑湯治」と称し、日帰り湯治客で八湯の町は格別賑わいました。また正月2日には「湯治初め」と称し馬でどっとくり込み、大変な混雑を呈しました。どの宿にも馬小屋があり、常に5~10頭の馬が繋がれていたと伝えられます。これほど栄えた温泉村も明治43年県東北全域にわたって発生した水害によって大災害を被ります。当時温泉村441戸中、崩壊破損流失家屋は399戸に達し、温泉村壊滅と当時の新聞は報じています。死者110名・行方不明28名(ほとんど湯治客)。赤湯(現東鳴子温泉)に開湯の仙台藩御用の湯の「御殿湯」という建物もこの水害により崩壊・流失しました。大正2年には初めて電灯がともり、同3年には陸羽東線川渡駅、同4年鳴子駅、同6年中山平駅が営業開始、温泉村は3駅により遠隔の地よりの来湯客を迎えて近代温泉郷へと発展。湯治客も同5年20万人、同6年23万人、同7年34万人、同8年47万人の記録が残ります。大正10年分村、鳴子は単独で町制を施行、鳴子町となり、大口・名生定は川渡村を形成。温泉村の村名は解消。

東鳴子温泉は田中温泉、新田中温泉、赤湯温泉、新赤湯温泉の総称であり、それぞれ源泉が異なる為に泉質や効能が違います。東鳴子温泉の開湯には諸説あり、8世紀から10世紀まで蝦夷に対抗する為、陸奥国で結成された玉作軍団が天平19年(747)にこの地を訪れた時には既に存在していたとも、仁治元年(1240)、壇ノ浦の戦いで敗れた平家縁の家臣がこの地まで逃れ源泉を発見したとも云われています。江戸時代に入ると、仙台藩主伊達家が設けた領内2箇所(もう1つは青根温泉:川崎町)の御殿湯の1つが設置され、岩出山要害領主(岩出山伊達家)の療養地(温泉地)としても名を馳せました。江戸時代末期には伊達慶邦が夫人を伴い湯治に訪れています。


参道の途中で陸羽東線(奥の細道湯けむりライン)の線路下を潜ります。

ちょうど電車が来たけど、あまりにタイミング良く、逆に写真を撮ることはできませんでした。

参道石段。

苔が豊富でした。


東鳴子温泉案内HPより一部抜粋…『宮城県東鳴子温泉は江戸時代中期に開湯した歴史ある湯治場です。当時は鷲ノ巣、田中、赤湯、目の湯と呼ばれ、その湯の良さで世に知られてきました。東鳴子温泉は美肌効果の高い重曹泉を中心に多彩な泉質に恵まれ、湯治や長期療養滞在などを目的に伊達藩世紀には御殿湯も置かれた由緒ある保養温泉地です。御殿湯(ごてんゆ)の由来は、仙台藩及び岩出山城主の御湯として造られ、特に、楽山公(仙台藩主・伊達慶邦)は、子どものないのを憂い、(孝子)婦人と伴い、赤湯に遊湯して、二子をもうけたと云われています。その多くはこじんまりとした湯宿で、湯治から滞在、1泊型など幅広い保養のニーズにお応えいたしております。』・『東鳴子温泉神社付近に、仙台藩や、岩出山城主の遊楽地として御殿が造られた。遊湯したのは、岩出山城主9代義監(よしのり、1809~1846、36才で死去)と、仙台藩主伊達慶邦(楽山公)で特に楽山公は文久3年8月、子供のないのを憂い、夫人(孝子)と共に赤湯に湯治し、宗基(仙台藩初代知事)、邦宗の二子をもうけたことから記念の松の樹を植えた。名付けて「手招きの松」という。御殿の湯は、明治43年8月の水害で崩壊した。明治24年発行の「温泉村八湯誌」によると、泉主片倉常治は、伊達弾正の建築した処に二階造りの新館を建築し、御殿と称したと記している。』・『東鳴子温泉は、奥州三名湯の一つにあげられる鳴子温泉の入口に位置し、古くから湯治の里として栄えました。鳴子温泉の歴史は古く、「続日本後紀」によると承和二年(835年)潟山が大爆発し、熱湯が轟音をあげて噴出した時に始まり、村人が鳴郷の湯と名付けたことからこの名が付いたと言われています。鳴子温泉郷エリアは、374本の源泉が湧く出湯は国内第一を有する多彩な泉質と効能豊かな名湯ぞろいです。同じく、東鳴子温泉街の歴史も古く、由来は壇の浦の合戦に敗れた平家の家臣がこの地に逃れ、仁治元年に温泉を発見したと伝えられますが、一説には、天平19年(747年)玉造軍団がこの地に設置された頃からあったともいわれております。明治43年8月にこの一帯に山崩れが起こり温泉はことごとく埋没しましたが、その後復興して現在にいたっております。昭和27年から昭和45年にかけて新しく発掘された温泉もあります。』

鳥居の跡かな。


社殿。
御祭神は大己貴命、少彦名命。

石灯籠一対。


稲荷の石殿。


眺望。

参道で潜ってきた線路。




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