宮城県大崎市鳴子温泉川渡。
温泉石神社(ゆのいし神社)
由緒…『温泉石神社は、約壱千百年前に作られた「延喜式神明帳」に玉造郡三座の一つとして登載されている延喜式内神社である。承和四年(837年)この地に大噴火が起こり雷響き振え昼夜止まず周囲二十余尺の大石の根元より温泉河に流れてその色水晶の如しと。依ってこの石を温泉石として祀り鳥居だけがあった。その石上に、承和十年神社を建立し、大汝貴命、少彦名命を祀り、土地の人達はこの状を具して朝廷に奏し明治七年大口村の鎮守神として村社に列せられる。民生の安定、五穀豊穣祈願、天然の温泉の神恵を感謝して毎年祭典が執り行われている。歳旦祭一月一日、どんと祭一月十五日、例祭九月十五日、七五三祭十一月十五日』
晩翠之碑。

参道。
鳥居。
土井晩翠の碑「千年の歴史をほこる川渡のいでゆの夕なく杜鵑」


裏面碑文「土井晩翠」…『詩人。本名は林吉、姓は一般的に土井(どい)と呼んでいる。仙台市北鍛冶町に生れ、東京帝国大学英文科卒業後、旧制第二高等学校教授となる。詩集「天地有情」「暁鐘」等を発表し、島崎藤村と共に「日本詩壇の双璧」といわれた。滝廉太郎作曲の「荒城の月」の作詩者として有名である。表面の歌詩は、大正十一年四月、川渡の藤島旅館に入湯の折、請われて色紙に残したものである。平成六年十一月鳴子町長髙橋周一郎、製作小島石材工業』

川渡温泉は玉造郡鳴子町の東域にある温泉名。横山(306.5m)山麓、江合川畔に位置。国道47号に沿い、国鉄川渡駅から2kmの地で玉造の湯の玄関口。那須火山帯栗駒火山群鳴子火山に属します。古くから湯治場として発展。宝暦・明和の頃に仙台藩御用の湯となり、天保11年には12代藩主伊達斉邦が入湯しています。往時の街道(羽前海道または最上海道)は江合川対岸で、鍛冶谷沢宿より川を渡ったので川渡の地名が起こります。温度43~62℃。泉質は重曹・単純・単純硫化水素泉等。源泉18か所。旅館12・保養寮2・収容客数870人。栗駒国定公園地域内にあり国民保養温泉指定地域でもあります。式内社と伝える温泉石神社の所在地となっています。

馬櫪神(嘉永7年3月17日)

下の二基の碑は紙垂でよく見えなかったので省略。


川渡は江合川(荒雄川)上流部に位置。川渡とは古街道が荒雄川を渡った地であることに因むと推定。古来温泉として著名であり、江戸期には大口村内の小名でした。大口は式内社と伝える温泉石神社の鎮座地。前方後円墳石ノ梅古墳があり、山地帯でありながら古くから開発された地でした。地名の由来については源義経が出羽より当地を通って陸奥へ入ったことによると伝えます。戦国期には大崎氏の支配下にあり、名生定村とともに大崎家中湯山駿河の知行地でした。中世館跡として大西館跡・小屋館跡があります。

江戸期以降の大口村は玉造郡のうち。寛永17年検地が実施され、同年の検地帳全4冊のうち1冊が現存。同帳によりますと、検地役人は四釜四兵衛・新藤善兵衛・石田但馬,算用人井上清十郎・五十嵐九兵衛、肝煎勝八。百姓数15。耕地面積37町余。持高29貫余、うち屋敷491文・茶畑19文。この検地直後、仙台藩は家中一同に改めて知行目録を与えましたが、寛永21年8月14日付の伊達弾正知行目録では大口村は一円岩出山領、高97貫余となっています。元禄郷帳の村高は814石余、天保郷帳では1,163石余。安永風土記によりますと一円給所で村高は田代97貫余・畑代18貫余の計116貫余、人頭85・家数118・人数665・馬269・江合川渡舟1。神社19・仏閣5。修験は本山派大宝院・羽黒派大滝山行蔵院・羽黒派善教房。御林11ヶ所。産物は木地挽物・足駄・ワラビ・ウド・ヤマノイモ・ユリ。村内江合川左岸の鍛冶屋沢は宿駅でした。また、村内には河渡出湯・目之湯・鷲巣出湯・赤湯の4温泉があり、河渡・湯神森・湯ノ上の3ヶ所に湯神社が祀られていました。明治元年新仙台藩、以後、仙台県・一関県・水沢県・宮城県・磐井県を経て同9年宮城県所属。同22年玉造郡温泉村の大字となります。大正10年からは川渡村の大字。昭和29年、現行の鳴子町大口となります。古くからの温泉地帯ですが、近年中野・石の梅・上川原・赤這の温泉群が新たに掘削されています。地内鍛冶屋沢には明治8年二歳駒市場を開設(当時県内市場は20ヶ所)、同12年には県産馬組合仙台事務所移設。同年陸軍軍馬育成所創設、同17年陸軍省軍馬補充部鍛冶屋沢出張所となります。また、明治7年鍛冶屋沢郵便局(同31年川渡に移転)、同8年大口村小学校(昭和10年川渡に移転)、同16年鍛冶屋沢養蚕伝習所、同38年農商務省山林局林業試験場鍛冶屋沢木工場(大正13年廃業)、大正3年鍛冶屋沢小林局、同13年川渡営林署などが開設。第二次大戦後旧陸軍馬補充部の出張所は終戦処理により廃され、昭和22年東北大学農学部川渡農場となっています。


手水舎。

玉造柵について…『奈良期~平安期に見える城柵名。玉作柵とも書きます。玉造塞と同じ。玉造軍団はその平時編成形式。「続日本紀」神亀5年4月11日条に「丹取軍団を改めて玉作軍団と為す」とあるのが初見。その軍団の置かれた城柵施設が玉造柵ないし玉造塞。多賀城の北を守る第一線の辺城として、色麻・牡鹿・新田諸柵とともに置かれました。天平五柵の1つ。同天平9年4月14日条には、大野東人が陸奥・出羽の連絡路を打開するに当たり、非常の事に備えて「四百五十九人を玉造等五柵に分配す」とあり、更に「副使従五位上坂本朝臣宇頭麻佐を遣し玉造柵を鎮めしむ」とあり多賀以北で最も重視された要衝。同書延暦8年6月9日条によりますと、胆沢地区の軍事行動では、輜重の輸送は玉造塞を基地としていたことがわかります。そのため北方との連絡が重視され、延暦15年11月2日には、玉造塞の北に置かれた伊治城との間35里の中間には特に1駅を置いています。「類聚三代格」弘仁6年8月23日の官符は、陸奥国の軍団兵の定数を定めていますが、改廃のあった中で、玉造軍団は一貫して存続して兵数1,000人、常時300人番上(交代勤務)の体制をとっていたことがわかります。城柵の軍政が民政に移行して玉造郡となると、城柵が郡衙となり、その一郭に郡衙団という形で軍団が付設されていたと考えられます。「続日本後紀」承和4年4月16日条には「玉造塞温泉石神」が怪異を現わしたので、これをいわいしずめたとありますが、温泉石神社は式内社であり、恐らく玉造柵の柵神とされていたものであると考えられます。なお、この「玉造塞温泉石神」は「玉造柵管下の温泉石神」の意味。玉造柵比定地については説が多く、まず鳴子町川渡玉ノ木説。軍団も塞も同一施設とすれば玉ノ木は玉造軍団跡でもあります。次に古川市東大崎の俯見城址説があり、更に岩出山町真山の高波々城址説もあります。第二次大戦後の研究としては加美郡中新田町城生の古代城柵址が擬定されています。しかしながら中新田町城生遺跡は玉造軍団跡ではなく、加美郡の郡家跡と考える説が調査に基づいて出されており、それによって玉造柵跡は岩出山町木戸から古川市名生に至る地域に比定するのが妥当といわれるようになっています。なお城生遺跡は色麻柵をうけて郡衙に移行したものと考えられます。』

参道から見上げた社殿。
山神。

嘉永七甲寅歳…

手水舎。

手水石。

昭和51年9月吉日かな

Wikipedia「川渡温泉」より一部抜粋…『川渡温泉(かわたびおんせん)は、宮城県大崎市(旧国陸奥国、明治以降は陸前国)にある温泉。荒雄川(江合川)の河畔にあり鳴子温泉郷で最も早く開湯した温泉地とされる。国民保養温泉地。【泉質】・含硫黄-ナトリウム-炭酸水素泉・単純硫黄泉・単純温泉。脚気によく効くとされ、古くから「脚気川渡」と言われた。【地質】地層の基盤は、花崗閃緑岩類ほか蛇紋岩類。これらの上に、緑色凝灰岩類が発達している。その上位に、不整合関係をもって、礫岩、亜炭、白色凝灰岩等を有する上部新第三系の発達があり、これらの上に火山砕屑物と鳴子湖沼堆積物とにより構成される新期堆積物が累積している。【源泉】温泉は鳴子火山群を熱源とする熱水が、鳴子湖成層中の温泉帯水層から湧出すると考えられる。いずれの源泉も掘削当初は自噴していた。断層により、川渡温泉街、築沢川以西の要害・石の梅地区、荒雄川北岸地区の三地区に分割される。泉温はほとんどが34℃〜56℃以内の範囲であり一般に温度は低い。pH値は中性から微アルカリ性。源泉の多くが二価の鉄分を含有するのが特徴的。温泉の生成機構は、Cl-HBO2型温泉源水に対して、第二次的に生成されるHCO3-SO4型の水が混入していると推定される。第二次水は、深所に由来すると考えられる高温、高圧のガス体のうち、Cl型と分離して行動する炭酸ガスおよび硫化水素が地上に上昇する際、通路にあたる岩石と接触反応を起こし、地下水に溶けこんでHCO3-SO4型の水を生成すると考えられる。湯治およびリハビリ等の温泉療法の観点から、泉温が低い川渡温泉は非常におだやかで最適の温泉群といえる。【温泉街】川渡温泉街は荒雄川(江合川)南岸の川渡大橋を渡った先に位置している。温泉街のほか、築沢川以西の要害・石の梅地区、荒雄川北岸にも温泉宿が点在する。昔ながらの自炊可能な湯治宿や家庭的な温泉宿、大型旅館まで、7軒の温泉旅館と1軒の共同浴場がある。毎年9月に温泉石神社で献湯式が行われる。献湯式では源泉の所有者が持参した湯を神社に奉納し、自然の恵みへの感謝と川渡温泉の繁栄を祈願する。・社寺-温泉石神社、祥雲寺・景勝地-小黒崎、美豆の小島、白糸の滝、石割りの梅、湯沢川の桜並木、川渡の菜の花畑・その他-まちの各所に「豆こけし」が隠れている。【歴史】古くから「玉造の湯(たまつくりのゆ)」として知られ、開湯は1000年以上前とされる。≪古代≫石の梅古墳(蘭場古墳)が築かれる。・837年(承和4年)4月:続日本後紀に温泉石神からの報告として、温泉湧出の記載がある。・927年(延長5年):延喜式に「温泉石(ゆのいしの)神社」が記載される。≪中世≫13世紀に順徳上皇が著した『八雲御抄』には陸奥の名湯として名取湯、佐波湖湯、玉造湯の三湯があげられている。「小黒崎」「美豆の小島」が歌枕の地として都に知られ、四条天皇、順徳天皇らが歌を詠んだ。正嘉正元の頃、鎌倉幕府の執権北条時頼が石割の梅を訪れた伝説を残す。北条氏滅亡後、湯山氏が近隣の領主となる。永正年間、湯山正推の代に荒雄川南岸に湯山城を築き居城した。・1508年(永正5年):小身に祥雲寺が開山。≪近世≫玉造郡大口村に属し、仙台藩の岩出山伊達家の知行地であった。村内の鍛冶谷沢宿は、仙台と酒田を結ぶ街道(出羽仙台街道)上の宿駅であったが、温泉自体は街道からやや離れた位置にあった。村内には川渡のほか、赤湯などの温泉があり、鳴子、鬼首荒湯といった当時の仙台藩領内を代表する温泉ともそれほど遠くない位置関係にあった。代々藤島氏が「大湯」「真癒湯(まゆのゆ)」の湯守と、「温泉石神社」の祭主を兼務した。「真癒湯」は伊達斉邦の御下名。湯守は、温泉の傍らで宿屋を営業し、温泉を管理して入湯客の利用の便を図ると同時に、彼らから「湯銭」(入湯料)を徴収してその一部を「御役代」(運上金)として藩に上納することを主な任務とした。18世紀末期(寛政年代)には、「川渡の義は御国一の名湯」(仙台藩郡奉行本郷伊右衛門申渡書)といわれ、玉造八湯で最も賑わった。湯守吉郎右衛門の報告によれば年間の浴客はおよそ2,000人とあった(役人の見積では7,000〜8,000人)。温泉番付では、東前頭にランクされていた。川渡を含む玉造一円は名馬の産地として知られ、馬市が開かれていた。・1689年(元禄2年)5月14日:平泉から岩出山を経て出羽三山を目指す松尾芭蕉と弟子の曾良が通過している。「…小黒崎、みづの小島を過ぎて、…」とおくのほそ道に記されている。・1791年(寛政3年):林子平が滞在。・1827年(文政10年):水戸藩士小宮山楓軒が滞在。浴陸奥温泉記に文政年間のまちの様子の記載がある。・1840年(天保11年):仙台藩十二代藩主伊達斉邦が滞在。・1853年(安政6年):大口村、鳴子村の湯守が共同で湯税の変更を嘆願する。≪近代・現代≫川渡には軍馬湯治場があった。長さ二間半、幅二間、深さ四尺のコンクリートの浴槽に、負傷や捻挫した軍馬4, 5頭を40分ほど入浴させて湯治をした。・1873年(明治6年):大口小学校(現:川渡小学校)開校。・1884年(明治17年):陸軍調馬隊設置に伴い、鍛冶谷沢軍馬育成場(後の軍馬補充部鍛冶谷沢支部)を設置。・1907年(明治40年):鍛冶谷沢と鬼首の馬市を合併し、川渡に二歳駒市場を設置。・1910年(明治43年):大洪水。・1914年(大正3年)4月19日:陸羽東線川渡駅(かわたびえき)開業。・1925年(大正11年):土井晩翠が滞在。「千年の歴史をほこる川渡のいでゆの夕なく杜鵑(ほととぎす)」・1934年(昭和9年):川渡の大火。・1944年(昭和19年):東京都浅草区内国民学校児童集団疎開。・1946年(昭和21年):「上原」「向山」の開拓がはじまる。・1947年(昭和22年):向山分校開設。(1945年:本校に統合)・1949年(昭和24年):上原分校開設。(1999年:閉校)・旧軍馬補充部に東北帝国大学附属川渡農場(現:川渡フィールドセンター)を設置。・1959年(昭和35年)10月1日:「奥鳴子・川渡温泉郷」として、中山平温泉、鬼首温泉とともに国民保養温泉地に指定。・1972年(昭和47年):宮城県により「温泉源基盤整備調査」が行われる。・2016年(平成28年)5月20日:「鳴子温泉郷」として、鳴子温泉、東鳴子温泉を加えて国民保養温泉地に指定。』
石灯籠一対。


玉造郡三座の一つとして登載されている延喜式内神社。承和4年(837)大噴火が起こり、周囲二十余尺の大石の根本から温泉が流れ出し、この石を温泉石神社として祀ったのが始まりとされています。
参道を振り返るの図。

社殿。
狛犬一対(昭和51年11月吉日、施主:藤島嘉孝兄弟姉妹一同)
神社庁より…『【主祭神】大己貴神、少彦名神【例祭日】9月15日。昔は旧3月22日、7月22日と聞いている。【由緒】温泉石神社は約壱千百年前に作られた「延喜式明神明帳」に、玉造三座の一社として、登載されている延喜式内神社であす。承和4年(837年)この地に大噴火が起り、雷響き振へ昼夜止まず、周囲二十余尺の大石の根元より温泉河に流れ、その色水漿の如しと依って、この石を温泉石神として祀り鳥居だけがあった。其の石上に承和10年神社を建立し、大己貴神、少彦名神を祀り、土地の人等この状を具して朝廷に奏し、明治7年大口村の鎮守神として村社に列せられる。』

拝殿内。

冒頭の案内板とほぼ内容は一緒ですが「由緒」…『温泉石神社は約壱千百年前に作られた「延喜式神明帳」に玉造郡三座の一として登載されている延喜式内神社である。承和四年(837年)この地に大噴火が起り雷響き振へ晝夜止まず、周囲二十余尺の大石の根元より温泉河に流れ其の色水漿の如しと依ってこの石を温泉石神として祀り鳥居だけがあった。其の石上に承和十年神社を建立し大汝貴命少彦名命を祀り土人状を具して朝廷に奏し明治七年七月大口村の鎮守神として村社に列せらる。民生の安定五穀豊穣祈願天然の温泉の神恵を感謝して毎年旧七月二十二日が例祭日となっている。昭和五十六年九月吉日温泉石神社宮司髙橋久俊謹書』














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