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宮城県大崎市鳴子温泉。
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鳴子温泉カラコロまっぷ2025を片手に、鳴子温泉郷をyuki散歩。昭和レトロな雰囲気がいい感じでした。
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特に説明はありません。写真も順不同。神社や坂等に関しては別記事にしております。
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湯の街通りにある鳴子観光ホテル
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古湯「滝の湯」(公衆浴場)。鳴子温泉神社の御神湯として千年の歴史を持つ古湯で、地域の人々から旅行者まで、たくさんの人から親しまれている公衆浴場。白濁したお湯と板張りの浴槽で、昔ながらの懐かしい雰囲気が漂っています。
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時々猫大佐とすれ違いますが、かなり人馴れしております。
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愛宕通り。
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愛宕通りから早稲田湯通りに繋がる階段。
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鳴子は江合川上流に位置し、那須火山帯栗駒火山群鳴子火山の地。鳴子温泉郷の名のあるとおり温泉の町。式内社にも温泉神社温泉石神社の温泉に因む神社が玉造郡には二社あり、ともに鳴子温泉の発祥にかかわるものです。「続日本後紀」承和4年4月16日条には、玉造塞(柵)配下の温泉石神が雷のごとく鳴り震動して、昼夜やむことなく、温泉が川に流れ、藍のようになり、山は焼け谷は埋まり、その地鳴りは雷のごとくで、奇怪はたとえようもないので、これをあつくいわいしずめる記事があります。このことから鳴子の由来として、火山の震動する音に基づいて鳴声(なるこえ)と呼んだのが鳴子となったとするのは或いは正しいかも知れません。即ち玉造温泉においては、この温泉石神の神異をいわいしずめることが温泉事始めになっていたと思われます。なお「義経記」には、山形県の亀割山で源義経の北の方が出産、弁慶がこれを笈に入れて東に向かったが赤児は泣かなかったとあり、伝説はその赤児がこの地で初めて泣いたので啼児(なきご)といい、それが鳴子となったとも伝えています。中世大崎氏がこの方面を領し、一族最上氏が山形に羽州探題として鎮するようになると、この鳴子越えは更に重要性を増していきます。
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戦国期の鳴子は玉造郡のうち。「奥羽永慶軍記」天正15年の「政宗大崎発向の事」に、はじめ氏家方として行動、伊達方に味方していた一栗城主一栗兵部は、政宗にそむいて最上氏に頼ることになった経過を述べ、「一つ栗を立ち退きて、鳴子・志登米(尿前)を打ち越え、小国・瓶割(亀割)の難所を過ぎ山形に入る」としています。この本は江戸期に入ってからのものですが、内容的には「伊達治家記録」を補う性質のものであり、戦国期鳴子の史料とすることができます。
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江戸期の鳴子村は玉造郡のうち。元和末年から寛永年間の頃、尿前(しとまえ)御境目守遊佐氏六代平八郎宣重が初代鳴子村肝煎を命じられ、仙台藩治下の村に組み入れられました。寛永検地の村高は31貫余、大部分は尿前遊佐家の持高(遊佐家蔵宝暦12年鳴子村高帳)。同21年の「伊達弾正知行目録」では蔵入地でしたが、延宝2年には伊達弾正知行分の給所となります。以後新田開発が進行、「元禄郷帳」の村高は263石余、「天保郷帳」では602石余。「安永風土記」によりますと村高は田代52貫余・畑代7貫余で計60貫余(うち蔵入地15貫余・給所44貫余)、人頭55・家数148・人数703・馬234・舟2(1艘は出羽亀田藩主岩城河内守通行の際の渡船、他は村の渡船)。神社8・仏閣5、寺は曹洞宗洞川院。御林7・用水2・堤7。温泉は滝の湯・姥湯。産物は鳴子の塗物・鳴子の箸楊子・鳴子の木地挽物、尿前の諸白・栗・ウド・ゼンマイ・地竹・六尺薪、他に銅・明礬(みようばん)も産しました。村内には尿前町34間・中山町1丁の町場があって出羽への駅継を行っていました。元禄2年「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉は、平泉を出て岩ケ崎・真坂・岩出山を経て5月15日にこの地にかかります。「小黒崎・みづの小嶋を過ぎてなるごの湯より尿前の関にかかりて出羽の国に越えんとす」とあります。なお、幕末の文久4年「鳴子村本地新田村高帳」によりますと、本地31貫余(うち畑2貫余・菜畑67文)。新田28貫余(うち畑2貫余)。持高計60貫余、蔵入地15貫余(本地427文・新田15貫余・菜畑67文)・給所伊達弾正分43貫余(本地30貫余・新田12貫余)・大肝煎役料637文となっています。明治元年新仙台藩、以後、仙台県・一関県・水沢県・宮城県・磐井県を経て、同9年宮城県所属。同22年玉造郡温泉村の大字となります。
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温泉村は明治22年~大正10年の玉造郡の自治体名。鳴子・大口・名生定(みようさだ)の3ヶ村が合併して成立。大字は旧村名を継承、3大字を編成。村名は古来温泉郷であることに由来。地内鳴子・大口には川渡・田中・赤梅(赤湯)・旧車・新車・鳴子・河原・中山の8温泉があり、俗に「温泉村の八湯」と称されました。明治23年に村のほぼ中央を東流する荒雄川(江合川)と西域を流下する大谷川に並行して羽前街道(最上街道)が新道として開掘されて温泉村八湯は繁昌しました。湯治客は山形・岩手県からは馬や馬車で、また近郷近在は歩いて来湯。当時は三廻り湯治と称して21日間の入湯が普通とされていましたが、中には30~40日も滞在するなど極めてのんびりとした湯治風習でした。宿は湯守の家族営業であったので、湯治客同士が手料理を分け合って楽しんでいました。土用の丑の日は「丑湯治」と称して、日帰り湯治客で八湯の町は格別賑わいました。また正月2日には「湯治初め」と称し、馬でどっとくり込み大変な混雑を呈しました。どの宿にも馬小屋があって、常に5~10頭の馬がつながれていたと伝えられています。これほど栄えた温泉村も明治43年県東北全域にわたって発生した水害により大災害を被ることになりました。当時温泉村441戸中、崩壊破損流失家屋は399戸に達しており、温泉村壊滅と当時の新聞が報じています。死者110名・行方不明28名(ほとんど湯治客)。赤湯(現東鳴子温泉)に開湯の仙台藩御用の湯の「御殿湯」という建物もこの水害により崩壊・流失。大正2年には初めて電灯がともり、同3年には陸羽東線川渡駅、同4年鳴子駅、同6年中山平駅が営業開始、温泉村は3駅により遠隔の地よりの来湯客を迎えて近代温泉郷へと発展。湯治客も同5年20万人、同6年23万人、同7年34万人、同8年47万人の記録が残されています。大正10年分村、鳴子は単独で町制を施行、鳴子町となり、大口・名生定は川渡村を形成。温泉村の村名は解消。昭和29年川渡・鬼首両村と合併して現在に至ります。
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湯めぐり駐車場。
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足湯(下地獄源泉)で休憩。
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東鳴子温泉馬場温泉付近にある芭蕉庵(大崎市鳴子温泉馬場)。
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買い忘れたものがあったので帰りに寄り道しました。
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