
宮城県仙台市太白区秋保町馬場滝原。県道62号仙台山寺線沿い。福聚山慈眼寺。

馬場についてです。名取川上流域に位置。地名の由来は伊達氏に仕え、仙台と山形を結ぶ二口街道の要地、今の馬場の地に居館した城主馬場氏の姓に因むと考えられていますが、実は逆であり、馬場氏はこの馬場に因むものであり、馬場は中世以来の馬場によるものと推定。戦国期の馬場邑は名取郡秋保郷のうち。秋保家文書(秋保町史資料編)年次欠(天正16、17年頃)10月25日付の秋保弾正直盛宛留守上野介政景書状に「急度(きつと)啓せしめ候。仍って頃日(けいじつ)馬場へ事切れ候由、努々(ゆめゆめ)存ぜず候て、御床しき由申さず候。口惜しく存じ候」とあります。この「馬場」は秋保氏宛のものであることから秋保郷馬場に当たることはいうまでもありませんが、更に確かな形で「伊達治家記録」慶長4年8月19日条には「名取郡秋保郷の内に采地ある輩の百姓等、秋保摂津定重下知次第に馬場邑の城に心を相附け、自然事ある時は、此の城へ馳せ集るべき」旨、伊達政宗黒印状が出されています。これによって戦国期の秋保郷内の1村として馬場邑があったことを知ることができます。

江戸期以降の馬場村は名取郡のうち。古くから秋保五村の支配者秋保氏の所領。藩政期は他の秋保五村とともに仙台藩に属します。伊達治家記録・伊達世臣家譜によりますと、秋保郷馬場領主秋保摂津守定重は秋保氏の支族でしたが、伊達政宗の命を受けて出羽最上氏に対し境界の警固に当たりました。享保4年撰の奥羽観蹟聞老志の中に「豊後館、馬場村にあり。是亦右衛門孫秋保摂津永禄中築く所也」と見えます。慶長8年刈田郡円田村(現蔵王町)へ所替えとなるまでの知行高は570石余。寛永19年の惣検地の村高は不詳ですが、最高の高持は3貫983文。初代肝煎は寛永の頃から正保2年にかけて助左衛門。封内風土記によりますと明和年間の戸口およそ71。邑内野尻に駅があり、歩卒22口、男女凡そ172・馬20。邑の西部羽州と接する二口には奥州番所が置かれていました。天保5年の村高576石余。「秋保瀑布馬場村にあり」(奥羽観蹟聞老志)とあるように秋保大滝・磐神岩などの景勝地があります。明治9年の戸数84・人数650・牛馬98。明治元年新仙台藩、仙台県を経て、同5年宮城県名取郡に所属。同22年秋保村の大字となります。昭和42年秋保町、同63年からは仙台市の大字となり秋保町を冠称。
1300年の歴史を持つ吉野・金峯山寺開創以来2人目となる大峯千日回峰行を満行した塩沼亮潤大阿闍梨(1300年間に2人のみが成し遂げた最難関の荒行「大峯千日回峰行」満行者・1999年)が開山。年間4ヶ月を行の期間と定め、標高差1355mの険しい山道を1日48km、千日間歩き続ける修行。1度行に入ると途中で絶対にやめることができない厳しい掟があり、万が一途中で断念する場合には、短刀で腹をきらなければならいそうです。1991~1999年の9年間で満行。四無行2000年満行…「断食、断水、不眠、不臥」。9日間にわたり食べず、呑まず、寝ず、横にならずを続ける修行。ただ座っているだけではなく、行の間は20万遍の真言をとなえ続けなければいけなく、生きて成就する確率は50%ともいわれ、命を賭けた行とされるため「浄斎の儀」という生き葬式を行い、縁のある人達と別れを告げてから行に入るそうです。
本堂は本尊蔵王大権現が祀られている修験堂。毎月2回(第1第3日曜日13時~)の護摩祈祷と法話や、鬼を迎え入れる節分会(2月3日。全国から追い払われた鬼を集めて蔵王大権現の法力により改心させるため「福は内!鬼も内!」と称えます。)が有名です。修験道の御本尊である蔵王大権現は、今から凡そ1300年前、修験道発祥の地、奈良県大峯山上にて役行者により感得された金剛蔵王大権現。蔵王大権現の「権現」とは・仮のお姿で現れる・という意味で過去世をお救い下さる釈迦如来、 現世をお救い下さる千手観音菩薩、未来世をお救い下さる弥勒菩薩がひとつになり民衆を救うために現れたお姿。

本堂の横には茶室・札所・観音堂があります。裏手には重曹入母屋造りの護摩堂(御本尊不動明王)。

※私の記憶では…ほぼ撮影禁止でしたので写真はあまりございません。以下の写真はパンフレットより。





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