青森市合浦。平成6年に開園100周年を迎えた合浦公園は青森市中心部を流れる堤川の東部に位置しており、陸奥湾に面した白い砂浜と旧奥州街道を偲ばせる老松がよく調和した公園。中でも公園中央部にある三誉の松は樹齢470余年を数え、歴代津軽藩主が巡視の折、野宴を催して自ら酒を献上したと伝えます。青森県内で最も古い公園であると同時に青森市を代表する総合公園であり、多目的広場、野球場、庭球場、遊具広場、小動物舎等々を備えた市民の憩いの場となっています。園内には640本を超える桜があり、桜の名勝として春まつりが行われ、夏には海水浴場が開設、秋は紅葉、冬は歩くスキーなど四季折々の変化を楽しめます。

合浦は堤川・赤川の間に位置し、北は青森湾に面します。戦国末期から近世初期と推定される年月日未詳の熊野奥州旦那場名表抄には「一、つがる一円 一、そとのはま一円 一、かつほ一円」と見えます。天正18年に大浦為信は豊臣秀吉から津軽三郡と合浦一円を安堵されて津軽氏を名乗りました。この三郡とは田舎・平賀・鼻和の三郡と考えられるため、合浦とはこの三郡の郡域以外の外浜と北浜にあたると考えられます。天文年間の津軽郡中名字では、外浜の地域は東卒都浜・北浜に二分されています。この地域のうち、北浜にあたる地域が上磯、東卒都浜にあたる地域が下磯とも称され、その接合点が合浦と呼ばれました。合浦は狭義にはこの接合点、現在の青森市合浦付近を指しますが、広義には外浜・北浜一帯、現在の青森市と東津軽郡一帯を指します。なお、合浦の地名は各地に見られており、本県でも津軽の西海岸地方を指す西浜に上磯・下磯、その接合点にあたる鰺ケ沢は西浜合浦でした。昭和41年以降は現在の青森市の町名で、1~2丁目があり、元は青森市造道の一部。

造道は、江戸期には作道と書くことが多かったようで、青森平野の東北部に位置し、北は青森湾に面しています。北流して湾内に注ぐ堤川の河口右岸から、東部は赤川を越える地域まで、東西にほぼ長方形をなします。地名の由来は開拓の際の作水、また作場道に因むものと考えられます。江戸期以降の造道村は津軽郡田舎庄のうちで、はじめ下浜館村とも称したといいます。江戸期は主に作道村と書かれましたが明治以降は造道村と書きました。弘前藩領。村高は正保高帳13石余、貞享郷村帳8石余、貞享4年検地水帳572石余(田499石余・畑屋敷72石余)、寛保高辻帳8石余、天保郷帳437石余(うち弘前本では天明8年改出新田293石・寛政8年改出新田136石)、旧高旧領714石余。貞享元年の書上絵図によりますと下浜館村の家数29で、うち本村14・枝村15であったといいます。貞享4年検地水帳では作道村と見えており、小字に磯野・沢田・浪打・橋本があり、反別は田70町6反余・畑屋敷43町2反余(うち郷蔵屋敷を含めて屋敷地7反余)、見取場(畑)2反余、開発可能地(田畑)6町8反余、漆木3本・芝野6ヶ所・10町4反余、沼2ヶ所・3反余、河原地6反余、浜地7町9反余、空地4町6反余、永荒地(田畑)7町9反、諏訪社地、稲荷社地が見えます。また、田は上田から下々田まで、畑は上畑から下々畑まで設定されていました。元禄3年には横内組に属しており村位は下。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳でも村位は下。当村は田畑耕作のほか、漁業も営む農漁村でした。堤川を隔てて湊町青森に接し、奥州街道が東西に通っており、のち堤川渡船場に茶屋が並び、江戸後期には茶屋町として分けて把握されることもありました。嘉永3年の松浦武四郎の東奥沿海日誌には、「作道村、人家二十軒斗、小商人一、二軒有」と見えます。神社は地内浪打に貞享年間創建という稲荷社があります。同社の由緒書によりますと草創年月不詳ですが、寛永元年青森開港当時には既に稲荷大明神が建立されていたといいます。稲荷社の地は稲荷林と呼ばれ、そばには諏訪林がありました。ここには寛永8年まで諏訪社がありました。同社は青森開港にあたり、御廻船の海上安全を祈願するため、開港奉行森山弥七郎の発願で堤川沿いの中洲に移されています。江戸期には青森五社の一つと数えられていた諏訪社は、後の明治5年の火災で焼失し、堤橋東畔(栄町1丁目)に再遷座されました。明治4年弘前県を経て青森県に所属。同11年東津軽郡に属します。明治3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し、これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われ、当村の浪打にも士族の移住が進み、農商の移民も相次ぎました。明治初年の戸数100、うち支村茶屋町80、村況は「南北二区に住し、南を岡造道と云家数三軒、この北一丁を隔てゝ家数十七軒あり、之を単に造道と呼ふ、土地中、田多し、北は海臨み漁網の利あり」といいます(国誌)。この頃当村は、浜側の造道と南側の岡造道、及び西部の茶屋町(後の栄町も含む)に分かれ、支村である茶屋町に家数が集中していたことがわかります。明治7年の県管内村名簿でも、当村枝村として茶屋町村が見えています。明治9年天皇御巡幸に際し、新道(後の国道4号)が奥州街道の南側に開通し、元の裏道が表通りとなり、のち徐々に表通り(浪打新町)へ中心が移っていきました。明治10年頃の陸奥国津軽郡村誌によりますと戸数142・人口768(男389・女379)、職業は「全村農を専らとす、而してその茶屋町に住する者、或は雇夫となり、或は茶店を路傍に開き行旅の休憩に供するあり」といいます。明治10年に造道小学開校。開校時の生徒数男91・女7、教員1。明治12年の共武政表によりますと戸数192・人口1,070(男528・女542)、馬76、人力車3、学校1、物産は米・大根。同13年に当村浪打に青森区裁判所の仮庁舎が設置されました。同年もとの奥州街道沿いに残る松並木を中心に、水原衛作によって合浦公園が創設され、のち弟姉崎巳十郎に受け継がれて完成。同14年青森寺町正覚寺円蓮社竜弁和尚が浄土宗一光山摂取院阿弥陀寺を開基、のち同19年に寺号を許されています。新道沿いの浪打新町が発達し、明治16年栄町と改称し、当村から分立。なお、それまで栄町は新茶屋町とも呼ばれており、これに対してもとの茶屋町が古茶屋町と称することもありました。青森港が発達し博労町が繁華街となると、馬市が茶屋町・栄町へ移りました。秋の馬市には両町が繁昌し、馬市はのち明治34年頃まであったといいます。明治22年造道村の大字となり、字浪打は青森町の大字造道となりました。造道村は作道(造道)・小柳・戸山・沢山・駒籠(駒込)・古館・松森・浜館・田屋敷・八重田の10ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した10大字を編成。役場を中部の浜館字見取に置きました。明治24年の戸数367・人口2,430、厩140、学校1、水車1。村域は青森湾岸から深沢平野(青森平野の一部)を合わせ、八甲田山の北麓にまで及ぶ広域となり、米穀・蔬菜・薪炭・魚介類を産出。明治10年開校の造道小学、同18年開校の浜館小学があり、大正13年には浜館尋常小学校沢山分教場を開設。明治8年に施設された歩兵第五連隊の練兵場が造道からその西隣の松森にかけて存在しましたが、昭和3年に浜館村駒込・戸山地内に移転。明治24年に日本鉄道(国鉄東北本線)が中央部を東西に横断して開通。大正元年の戸数595・人口3,500。以後の世帯数・人口は大正9年663・3,744(うち職業別人口は農業2,592、水産業223、鉱業6、工業253、商業96、交通業93、公務・自由業108、その他の有業355・無職業18)、昭和元年715・4,353。昭和2年4月造道・八重田が青森市に編入。同年5月浜館村と改称して8大字は同村の大字に継承。

合浦公園…『青森市街地東部にある公園。弘前藩の庭園師水原衛作により創設。明治14年造園工事を開始しましたが、資金難のために自ら樹木を植え石を運んだといいます。しかしながら完成を見ることなく明治18年病死。この遺志を実弟姉崎巳十郎が継ぎ、多くの苦難を克服して明治27年に完成させて青森市に寄付。園内には記念碑が建立されています。また、石川啄木の「船に酔ひてやさしくなれる妹の眼見ゆ津軽の海をおもへば」のほか多くの文学碑があります。旧街道の名残をとどめる松並木と名木、500本を超すソメイヨシノがみごとに調和し、南方に八甲田連峰、北方に下北半島を望む風光明媚な公園です。大正7年頃に合浦公園保勝会が設立され観桜会を開催したといわれます。第二次大戦直後に米駐留軍に接収されましたが昭和29年青森市に返還。市では桜の補植や休憩舎・小動物園の設置など公園施設の整備と管理に当たっています。市営球場や陸上競技場も隣接しており、海岸は海水浴場となり年間を通して市民に利用されています。昭和57年までは市営競輪場も開設されていました。』

青森市HPより…『青森市を代表する公園です。公園北側は海浜になっていて、夏は海水浴客で賑わいます。また、桜の名所としても知られており、毎年多くの花見客が訪れます。池沼の周辺は日本庭園の様式を取り入れています。「日本の都市公園100選」にも選ばれています。公園内には市営球場、市営庭球場、茶室「合浦亭」、屋外ステージ、多目的広場21,000平方メートル、蒸気機関車、石碑31基、藤棚5箇所、動物舎7棟、東屋7棟、トイレ6棟等の設備があります。また、公園中央部には、市指定天然記念物”三誉の松”があります。』

Wikipedia「合浦公園」より一部抜粋…『合浦公園(がっぽこうえん)は、青森県青森市中心部から東部に位置する青森市立の都市公園(総合公園)。青森県で最も古い公園である。園内には青森市営野球場がある。【概要】青森市を代表する総合公園で、多目的広場、野球場、庭球場、遊具広場、小動物舎などがある。公園中央部の「三譽の松」は歴代津軽藩主が領内を巡視する際に野宴を催し酒を献上した場所と伝えられている。陸奥湾に面しており、夏には海水浴場が開設される。また秋の紅葉でも知られる。積雪期は青森市歩くスキーコースが開設され、用具の無料貸し出しも行っている。・敷地面積17ヘクタール・桜の本数 648本(ソメイヨシノ585本、シダレザクラ25本、オオヤマザクラ1本、その他の桜37本)・松の本数 731本(クロマツ654本、アカマツ77本)・このほか公園内には約30の石碑がある(啄木歌碑、工藤卓爾君之頌徳之碑など)。【沿革】1880年:旧弘前藩の庭師、水原衛作(旧姓・柿崎)が公園の造成を計画する。1881年:青森県令・山田秀典らの援助により公園造成に着手。1882年:青森県令・山田秀典が急死し、造園資金の募金が滞ったため、水原家が園地に移住して荒地を切り開く。1885年:衛作、公園建設の過労がもとで死去。弟の柿崎巳十郎が引き継ぐ。1894年:公園が完成し、青森町(現在の青森市)に寄付される。1924年1月:付近に浪打駅開業。1945年:青森大空襲により近くにあった青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)が焼失。戦後敷地を編入する。敗戦後しばらくの間は駐留軍に一部が接収された。1948年:旧青森中学校跡地を合浦公園の一部として都市計画が決定される。1950年:青森市営球場開場。青森競輪場開場。1954年12月9日:米軍から公園返還。1968年7月:東北本線ルート変更により浪打駅廃止。1977年9月3日:国民体育大会出席のために来県した昭和天皇が競輪場に行幸。1982年:青森競輪場移設。跡地は広場になる。1989年7月28日:日本の都市公園100選に選出される。1994年:公園の完成百周年を記念し、水原衛作、柿崎巳十郎兄弟の像が設立される。【合浦公園海水浴場】砂浜は夏に一般に開放され、多くの海水浴客で賑わっている。昔は自然に公園周辺に美しい砂浜が続いていたが、戦後になると周辺の水質汚濁や利用客の増加などのためか、砂浜にはだんだんと泥がたまるようになっていった。砂浜の保全のため、過去二度にわたり海岸環境整備事業を実施しているが、砂浜が保全されているのは公園の部分の、それも海岸に近い部分のみに限定されている(周辺の海岸はコンクリートで固められている)。2005年の遊泳期間は7月22日から8月23日であった。【三譽の松】樹齢460年以上と言われる傘型の黒松で、市文化財として天然記念物に指定されている。現在の公園敷地の中央部に位置し、公園を東西に貫く歩道(旧奥州街道)の脇にある。歴代の弘前藩主が地方巡見の際にこの松の下で酒宴を催し、藩主自ら酒を献上したと言われている。1991年の台風19号(りんご台風)により、大枝を損傷し切除したため、かつてに比べると容姿は損なわれているとも言われるが、今なお公園を代表する老松であることに変わりはない。』

合浦公園総合案内(Gappo Park General Information)…『合浦公園は青森市の東部に位置し、市街地の公園としては全国でも珍しい海に面した公園であり、旧奥州街道を偲ばせる老松と海岸の砂浜がよく調和しています。明治27年水原衛作、柿崎巳十郎兄弟の手で造園されたものであり、今でも本市を代表する総合公園となっています。園内には多目的広場、野球場、テニスコート、遊具広場、小動物舎等の施設があり、市民の憩いの場となっています。春には600本を越す桜の木の下で春まつりが行われ、多くの市民が訪れ賑わいます。また、夏には海水浴場、秋には紅葉、冬には歩くスキーなどと、四季折々の変化を楽しむ人々の姿が絶えず、平成元年には「日本の都市公園100選」に選ばれています。合浦公園は青森県では一番古い公園であり、平成6年に開園100周年を記念し、創設者水原衛作・柿崎巳十郎兄弟の胸像と青森市営野球場で日本プロ野球史上初の完全試合を達成した巨人軍の藤本英雄投手の偉業を讃え石碑を建立しました。Gappo Park that was build in 1894 by Eisaku-Mizuhara and Mijuro-Kakizaki,they are brothers,is the oldest park in Aomori Prefecture.』

石碑位置図。

石碑がたくさんありますね。広い公園なのですべてを紹介するわけではありませんが、当記事では適当に散歩して見つけた石碑のみ紹介しております(※碑文には自信ありません)。また、案内図の№と関係なく順不同で紹介しております。

合浦公園総合案内図。


合浦公園の由来…『合浦公園は、全国的にも珍しい"海浜公園"である。春5月の花見、夏は海水浴、冬は雪祭りと市民にとって最も身近な憩い、運動、娯楽の場として親しまれている。公園は藩政当時「お成り街道」で、廃藩後、現在の国道が開かれるまでは、浅虫方面へ通ずる要路であった。着工されたのは、明治15年(1882)、弘前藩のお抱え庭園師、柿崎朝次郎の長男衛作(後、水原)の提唱によって行われた。衛作は幼少の頃から築庭の技に秀で家業を継ぐため修業した。また、戊辰戦争に参加。さらに明治7年(1874)再び渡道、外国人から庭石園法を学び、合浦公園創設への意欲・基礎を培った。県令山田秀典や木村荘助、三橋三吾等の協力を得て、公園築造工事を"浪打五本松"を中心に、母、妻と園地の小屋へ移り、私財を投じ寝食を忘れて励んだため過労で倒れ、その完成を見ることなく明治18年(1885)無念の生涯を閉じた。その後、弟の巳十郎が母の願いによって偉業を継いだ。艱難辛苦の末、明治27年(1894)一応整ったため、同年8月後援者と相談の上、青森町に公園の一切を寄付した。その後、大正14年(1925)、退職するまで園丁として30余年間、合浦公園とともに歩んだ。その後、公園は、招魂祭、市内各学校の運動会、消防団の観閲式等広く市民に利用された。戦後、進駐軍に一部接収されたり、競輪場が一時期設置されたりしたが、「白砂青松」と表現された海岸風景は、年々かえってきている。なお、歌碑や頌徳碑、胸像等が老樹をバックに数多く建立されているのも、合浦公園の特色の一つである。』

青森市総合案内より…『全国でも珍しい白砂青松の海浜公園である合浦公園は、旧奥州街道に面した「三譽の松」の周辺を水原衛作が明治15年(1882年)造園に着手し、その遺志を継いだ弟の柿崎己十郎が明治27年(1894年)にこれを完成し、当時の青森町に寄付した。その後、町(市)が整備を続け現在に至っている。公園内には、600本余の桜があり、開花時の春まつりなど四季折々の催しを通じて市民の憩いの場として親しまれている。また、平成元年には、「日本の都市公園100選」に選定された。』

この日は令和7年度秋季第139回青森市部展日本犬展覧会(主催:日本犬保存会青森支部)が開催されていました。




合浦公園ジョギングコース案内板。

合浦公園(明治35年7月寄附 青森市 太田善助 石工奈良八十吉 正四位勲三等巖谷修書)※巖谷修=明治の三筆と呼ばれる巌谷一六が青森市を訪れた際に揮毫


公園内には市営球場、市営庭球場、茶室「合浦亭」、屋外ステージ、多目的広場21,000㎡、蒸気機関車、石碑31基、藤棚5箇所、動物舎6棟、東屋8棟、トイレ6棟等の設備があります。


葛西音彌先生碑(昭和5年6月、従二位勲一等功二級一戸兵衛謹書、文堂高山如禅静敬書)。

碑文は読み取れますが、内容が難しい上に、旧字多くて厄介そうだったので省略。


裏面碑文。


工藤卓爾君頌徳之碑(大正15年7月)…『卓爾工藤君は津軽藩士中田新の次男にして萬延元年三月二十五日弘前代官町の邸に生る後同藩士工藤廣吉の養子となり青森に住せり君幼にして頴悟夙に青森縣師範學校及青森縣立専門學校に學び業卒へて町立青森小學校に長たり後辭して東京に遊ひ更に明治法律學校に學ぶ 明治二十一年市町村制の實施せらるゝや君選れて青森安方町會議員と為り翌二十二年青森全市街聯合會議員に列せり二十六年出てゝ江差新聞社に入り一時操觚の業に從ひしか二十九年迎へられて青森町長に就任し三十一年第一次青森市長に推され初期の市政を燮理し爾來任を襲ねること數次治績大に見るへきものあり其間に於て市會議員縣會議員に當選し又商業會議所特別議員教育會長農會長の職を兼ね更に衆議院議員に推されて國政に參與するに至りしも君は常に當市の福利を以て念とし拮据經營嘗て倦むことを知らさりき大正十三年十一月不幸にして病に犯され其職を辭し翌十四年七月十九日溘然として逝く享年六十六君一男あり卓二郎といふ其後を紹く 君資性温厚恭謙長者の風あり加ふるに志操高邁識博く學達し辯舌亦暢快なり其職に膺るや勵精恪勤嘗て私心を挾ます明治四十三年全市灰燼に歸し君その善後策を講じ狂奔寝食を廢し熱誠時人を動かし時の武田知事と同じく闕下に伏奏するに及んで天下の同情翕然として麕集し克く時艱を拯ふを得たるか如きは實に市民の牢記して永く志ろし能はさる所とす故に今其功績を悠久に傳へ後世感孚の資に供せんか為め此碑を建立すと云ふ 從二位勲一等功二級一戸兵衛篆額并撰 大正十五年七月伊藤明瑞書』

篠原善次郎翁。

『篠原善次郎翁は安永二年鹿児島に生れ長じて農學を修められたが明治四年開拓使長官黒田清隆の命を受け北海道に職を奉ずること多年同十五年職を辞して青森に移り實業に志し刻苦勉勵よく本州と北海道との交易に従事し本市産業界に重きをなしたまた翁は公徳の志厚く大正十五年乗合自動車六輌と運營資金壹萬五千圓を添え翁の經營する全運送事業を本市に寄贈されもって市營バス事業の創設に寄與された昭和六年九月北山市長はその功績を讃えこれを録して彰徳記念像を建立したが同十八年戦力資材として翁の像もまた献納されることになった本年市營バス創業三十周年を迎えるに當りその遺徳をしのびここに再び翁の像を刻して功績を永世に傳える。昭和三十一年三月六日青森市長横山實撰書』


升六句碑。

裏面碑文。


ダイシンベースボールスタジアム改修工事中。

日本プロ野球初の完全試合達成記念碑(合浦公園開園百周年記念、平成6年9月、青森市長佐々木誠造)




碑文…『昭和25年6月28日に、ここ青森市営野球場において、第2試合の巨人対西日本戦で巨人の藤本英雄投手(現姓中上)が日本プロ野球史上初の完全試合を達成した。岩手・一ノ関から始まる東北・北海道の遠征は、松竹、広島、西日本、巨人の4チームが1日ごとに組み合わせを変えてのダブルヘッダーで行われた。この年はセ・パ2リーグ制になった記念すべき年でもある。』

試合経過。

日清戰役忠魂碑(昭和11丙子年4月14日)

陸軍大将菱刈隆書。

裏面碑文省略。※青森市民図書館歴史資料室メールマガジンより一部抜粋…この碑について、公園内の碑を紹介した本『合浦の碑』(昭和39年青森市教育委員会)には碑文が載っているだけでとくに解説はなく、これまであまり気に留めずにいました。ところが先日、昭和11年1月13日付の『東奥日報』に「未完成の日清役戦没者忠魂碑 合浦公園に建設計画」という記事を見つけました。そこには、合浦公園の海岸に70余名の名前を刻んだ大石(約3.3m×2.4m)と近くにもうひとつの大石(約3m×1.5m)が埋もれているのが発見され、これが日清戦争戦没者の忠魂碑と判明したので市民に寄附を募って建設すると書かれています。さらに記事を追うと、同年4月14日に地鎮祭を、5月20日には除幕式が挙行されています。除幕式には歩兵第五連隊将校をはじめ官公庁関係者、東奥日報社社長、学校関係者、中等学校生徒など約300人が参列し、盛大に行なわれました。しかし、なぜ日清戦争(1894-95)から40年あまりも経って建立されたのか。未完成で海岸に埋っていたとはどういうことか。どうにも不思議に思っていましたら、その事情を書いた記事をみつけました。もともとこの碑を計画したのは、建立者のひとり市内大町の西田久助でした。日清戦争から帰還した西田は、明治30年(1897)に10人ほどの仲間と忠魂碑建立の計画を立てます。それは、生還したものがあれば忠魂碑を建てるという出征の際に戦友たちとかわした約束を果たすためでした。彼らは関係者に寄附を募り、また渡辺佐助、樋口喜輔、吹田銓三郎、淡谷清蔵といった市内の有力者の賛助も受けましたが、公園に石を運び入れ工事に取りかかったにもかかわらず、資金の問題などで計画が頓挫し石は海岸に放置されてしまったというのです。その後、戦没者遺族のひとりがこの石のことを知り、兄弟の名が刻まれた未完成の石碑を何とかしたいと、西田ほか有志らと協力して再び建立のために寄附金を募集し、ようやく完成をみたのでした。合浦公園の海岸に、戦没者名が刻まれた大石が40年も埋もれていたという話はちょっと信じがたい気もします。でも、何気なく見ていた公園の石碑に、意外な経歴があったことに驚きました。



凱旋紀念(明治29年5月)



不二亭祇山句碑。

弘化4丁未仲秋・社中建之。


蒸気機関車C11型167号機関車。
C11型167号機関車の沿革…『この形式の蒸気機関車は、3動輪をもつタンク機関車で昭和7年に第1号車が誕生した。その後全国で381両が製造され、その内の167番目の機関車であります。昭和15年10月16日汽車会社で製造され大湊機関区に配属となり昭和49年7月廃車になるまでに野辺地~大湊~大畑間を旅客車及び貨車を連結して延べ1,286,206キロメートルを走り地球を約32回まわりつづけたことになります。長さ12.65メートル、巾2.94メートル、高さ3.90メートル、重量55トン、出力783馬力です。このC11型167号機の偉大な業績を顕彰し、併せて東北本線全通90周年を記念し国鉄から貸与されたものです。昭和56年9月1日青森市』

故本間覃山翁之碑・小山内暉山翁之碑。書家の小山内暉山と本間覃山は師弟関係にあったことから隣接して設置されています。小山内の碑の文字は弟子の本間によるものです。一方、本間の碑の文字は弘前市出身の斎藤主が揮毫。斎藤は明治39年、弘前市に図書館(旧弘前市立図書館)を寄附した篤志家の一人で、土木会社を経営していました。本間の碑には友人として斎藤の名前が刻まれていますが、斎藤は本間の葬儀の際に「暉山先生門人総代」として弔詞を読んでおり、小山内のもとで書を学んだ仲間という関係だったそうです。

※以下碑文はどちらも自信無し
故本間覃山翁之碑…『覃山本間翁諱承淳舊弘前藩士葛西宇兵衛之三男也出養同藩士本間豊作幼好書明治四年入小山内暉山翁門學書道研磨十餘年焉能探究筆道之奥秘工為八體暉山翁門人數百人素多善書稱上堂七人入室九人而受正脈衣鉢者實覃山翁也翁初住弘前市明治十八年有故移家干青森市以来至門學書者年多一年翁身在劇務中而諄々指導明治三十四年奉職本縣師範學校擔任習字科傍又教校外之門生日夕勤勉熟誠不倦是以當時學翁者達數百人之多云明治四十一年際 皇太子殿下東北啓行之日本縣之奉書無大小蝟集煩翁翁以夜繼日孜々執筆能果其務盖勤勉出天性也惜哉皇天不假年明治四十二年四月罹病没焉享年五十三明治二十七年自暉山翁仙去以来翁獨能傳其遺法薰陶學生及學外生者茲二十餘年弟子藪百人實可謂一代之名家也而為人恭遜誠實殊為所人敬慕云今歳當翁大祥忌知已門生及汲其流法者不能忍其交誼與薫陶乎茲建設一大碑欲傳翁之功徳於無窮也使余撰其文夫追遠報恩之舉出人之至情民徳之篤者也余探感其志不辭拙而應囑云爾 明治四十四年九月小山内健三郎撰 齋藤主書 發起人 友人 伊藤友太郎 一戸岳逸 長谷川壽吉 高山靜 谷口富太郎 高橋吉治 山田迪 秋鹿見橘 齋藤主 須藤正實 門弟 瀧野澤彌一 三浦千代次郎 杉澤利助 門弟 石工 平澤第助 土工 齋藤惣之助』

小山内暉山翁之碑…『先生諱建善字俊淳号暉山津輕藩世禄之士御為書院番以先生明通武家典故擢為近侍備顧問數十年多所獻替性不喫酒茶煙菓唯圖書是好凢武門之道藝儀則及武器之製造用灋無書不渉獵為秘不探竆與之語雖専門武人多驚異之又嘗鑑裁新製甲冑發其有偽工人為失禄而無怨言其明識皆從該博来也最精於書道能為八體而論其筆法又善摸古今百家之字様而飛動成態尚日書不在字様在不失法失法則非字也不如無書也常好講説文説六書推及字書之訛謬分剖辨斥鑿々中竅聴者躍然如出於己意所著有運筆法傳統習字須知臨池筌日本筆道抄習字歌習字書法千字文等先生以文化八年生於弘前以明治廿七年歿焉享年八十四明眸晧歯不如老者為人不喜雑談好靜居抄録雖在劇務退而脱袴則對机至夜日以為常廢藩之際俄典職務乃顧誨弟子以自樂及門者無慮四百有餘人然多師其字法非師字様者也故受其衣鉢者較寡矣盖上堂七人入室九人先生云今皆欲建碑報本使余銘之 銘曰 八十四歳 壽不由藥 四百餘生 有聞欲躍 建碑報本 生死皆藥 何以護之 於戯天爵 明治廿九年十二月 水齋黒瀧儀任撰 門人 本間覃山謹書 石工亀岡良吉』

日本猿、クジャク、ニワトリ、セキセイインコ、アカミミガメ等々がおります。











司馬龍橋句碑。

「月雪のむかし語るや花の旅 司馬龍橋」


裏面碑文省略。明治16年7月11日建立。雪艇高修識并書。

合浦公園の沿革…『合浦公園は明治14年(1881年)に建設を始め同27年に完成したものである。当園の創設は明治13年津軽藩お抱えの庭園師であった水原衛作(旧姓柿崎)の計画によるもので、時の県令山田秀典の声援と木村荘助、三橋三吾、浅井辰五郎、永井傳蔵、村林勘六等の熱心な援助の下に、期間3ヶ年総予算1万円の構想をもって明治14年工事に着手した。青森から造道に通ずる並木街道に、津軽歴代の藩主が嘆賞を惜しまなかったという三誉の松、相生の松の老松がある。この松を中心とする一万一千五百余坪の狐狸のすむ原野が公園建設の予定地であった。山田県令の格別の計らいで、園地購入の寄附は着々と集まったが、明治15年1月県令の急死にあい、募金は停滞して造園に一大支障を来たした。責任感の強い水原は母や妻と共に町から園地の小屋に引き移り、一家をあげて終日荒地をひらき石を運び草木を植えて倦むことを知らなかった。ついには過労のために衛作は病床に臥したが、私財はことごとく造園の資に投じて今は治療の費用もなく、一家窮乏のうちに、明治18年4月14日、悲願の公園完成を見ることなく44歳を一期としてこの世を去った。母は事業なかばでたおれたわが子の霊を慰めるため自分の悲嘆も忘れて衛作の弟巳十郎の奮起を促した。巳十郎は母の真心と亡兄の悲願とに励まされて造園に専念すること十年、明治27年に至ってようやく公園を完成し、これをことごとく青森町に寄附した。合浦公園は実に水原一家の献身的な奉仕と血のにじむ努力とによって完成したものである。』


青森・函館ツインシティ提携10周年記念植樹、函館市の木おんこ(いちい)・函館市の花つつじ(やまつつじ)(平成11年11月11日、寄贈函館市)

池。









水原衛作・柿崎巳十郎兄弟胸像。


水原衛作氏像(合浦公園創設者)。

柿崎巳十郎氏像。

水原衛作氏像裏面碑文「合浦公園創設者」…『合浦公園の創設は、明治十三年津軽藩のお抱えの庭師であった水原衛作(旧姓柿崎)の計画によるもので、時の県令山田秀典の声援と、木村荘助、三橋三吾、浅井辰五郎、永井傳蔵、村林勘六等の熱心な援助の下に期間三箇年、総予算一万円の構想で明治十五年工事に着手した。土地は、三誉の松を中心に、一万一千五百坪の狐狸の住む原野が公園建設の予定地であった。山田県令の計らいで用地購入の寄付は着々と進んだが、明治十五年一月県令の急死にあい、募金は思うようにのびず人夫賃にも事欠く状態であった。責任感の強い水原は、母、妻と共に園中の小屋に移り、一家をあげて終日荒地を開き石を運び樹木を植え人夫以上の労働をした。このため過労で病床に伏したが、既に私財は造園に投じてしまい治療の費用もなく、一家窮乏のうちに明治十八年五月十四日、悲願の完成を見ずして、四十四歳で無念の生涯を閉じた。母なかは、衛作が一生をかけた公園事業を放棄するには偲び難く、弟の柿崎巳十郎を説得して、弘前から移住させ兄の偉業を継がせることとした。巳十郎は、親類縁者の反対を押し切って、家財を売り払い青森に移住、園内の小屋に起居し、なれない造園事業に専念し、その精神、努力は兄と変わるところがなかった。そのため、私財も使い果たし、冬は狩りをして食糧にかえ、母と妻は内職して、その日その日を喰いつなぎつつ春を迎え、造園工事に専念すること十年、明治二十七年に公園の景観が整い面目一新し、後援者と協議して同年八月二十二日、青森町に寄付したものである。その後、巳十郎は園丁として管理にあたったが、大正十四年病気のため退職し、そして昭和九年七月二十七日七十八才の長寿を全うして逝った。合浦公園は、水原衛作、柿崎巳十郎兄弟と、母、妻などの献身的な奉仕と血のにじむ努力によって完成したのである。』

柿崎巳十郎氏像裏面碑文…『合浦公園開園百周年記念、平成六年九月十八日建立、青森市、揮毫:三原有船(青森市)、像制作:田村進(青森市)』

合浦亭。


合浦亭庭園。

昭和57年(1985)に竣工

青森市HPより…『茶道・華道・短歌・俳句などの文化芸術活動や各種研究集会に使用できる施設です。現在、市民の皆さんには文化芸術活動や地域コミュニティの活動等の場として、幅広くご利用いただいています。』

東屋。

青少年健全育成祈願碑(昭和38年9月16日建立)

「清く髙く美事に希望の大世界を進み抜く」詞:棟方志功


青森市民憲章(平成17年4月27日制定)

市の木(あおもりとどまつ)・市の花(はまなすの花)・市の鳥(ふくろう)・市の昆虫(ホタル)

陸奥湾。
合浦公園海水浴場。
故水原衛作君紀念之碑(青森縣知事従四位勲五等佐和正題字・青森縣書記官正七位松澤光憲書(碑文省略))

青森県史の窓(合浦公園通史~故水原衛作君紀念之碑~中園美穂(青森県史編さん調査研究員))より…『1891年(明治24)年、柿崎巳十郎や木村荘助など計6名が発起して、公園創設者である水原衛作の年回忌を理由に建立された。石碑は、旧奥州街道を挟み、公園創設の根拠となる「三誉の松」と相対するように設置されている。1886(明治19)年、水原衛作の実弟である柿崎巳十郎が、兄の遺志を継ぐため公園の看守人となった。木村荘助をはじめ、有志者とともに造園を始めるためである。柿崎は公園の完成を願った水原の遺志を継承して、公園の風致体裁を整備しようとした。だが、現実的には困難をきわめた。柿崎も水原と同様、有志者不足と資金難に悩まされ、造園の限界を感じたのである。そのため1890(明治23)年、柿崎たちは協議し、公園附属地(水原の所有地)を青森町(現青森市)へ寄附しようとした。そして柿崎自身は兄の遺志を継続できるよう、公園の永代看守人になることを願い出た。他方、青森町では同年、青森県に対して海岸側へ公園を拡大するよう上申していた。しかし柿崎や青森町の意向は、すぐには成就しなかった。興味深いのは、青森町当局が、すでに附属地を含む土地を町の公園とみなしていたことである。水原が造園した当初の公園は、東津軽郡造道村字浪打(根子堰以西)に位置していた。だが、1889(明治22)年の市制町村制の施行で青森町が誕生すると、公園は青森町の町域に含まれるようになった。1881(明治14)年に、水原が公園創設願を青森県へ提出した際には、1873(明治6)年の公園制度に見合う場所が「公園」に指定されたに過ぎなかった。しかし市制町村制をはじめ、1891(明治24)年には府県制・郡制が施行されて事情が変わった。全国的に府県管理の公園が市町村へ移管されるようになっていくからである。このことは1891(明治24)年に建立された水原の記念碑からも理解できる。記念碑は、漢学者の葛西音弥が文章をつくり、碑文の字体は青森県書記官の松沢光憲が担当。「故水原衛作君紀念之碑」の文字は佐和正県知事によるものだ。青森県当局が石碑の建立に関与しているのは、公園創設に県が深く関わっていた何よりの証拠であろう。水原が公園を創設する際にも、山田秀典県令が後押しをしていた。県が公園創設に尽力した公園が、町の管理となるにあたり、記念碑が建立されたことになろう。これに対し、柿崎らにとって石碑の建立は、水原に対し事業の大転換を決意することでもあった。個人の手による造園に限界を感じ、公園自体を青森町へ寄附することは、水原が手がけた公園事業を、表向き否定することになるからだ。しかし柿崎らは、水原の遺志を実現するため町へ公園を寄贈するのである。そして公園が青森町(後に青森市)の公園になるからこそ、公園の創設者が水原であることを後世に示したかったに違いない。』

三譽(三誉・みよ)の松。
青森県環境指標植物(昭和56年2月18日指定)

案内板は状態があまり良くなかったのでスルー。

平成3年に台風19号によって損傷しています。
燈籠銘(明治16年5月23日、二代目渡辺佐助重応)

故青森縣令正五位山田秀典君碑(明治16年癸未4月)

一等侍講正五位勲三等元田永孚撰、土肥直康書※裏面碑文省略(読み取れます)


木村荘助頌徳之碑(明治39年9月20日、題額子爵津軽類橘、桂井慶七書)※碑文省略(読み取れます)

裏面碑文(発起人)…『芦川得一・平井重次郎・長谷川與兵衛・樋口喜輔・三橋三吾・村林勘六・川合勇司・瀧谷藤次郎・柿﨑巳十郎』

啄木歌碑「船に酔ひてやさしくなれる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思へば」


裏面碑文…『石川啄木が石をもて追われる如く故里を出て妹光子と共に津軽海峡を渡ったのは明治四十年五月四日であった。この歌碑は青森県啄木会が青森市その他の協力を得て青森県啄木歌碑建設委員会をつくり昭和三十一年五月四日に建てたものである。』

瓊江丸遭難紀念碑

裏面碑文…『明治二十四年七月十一日於渡嶋國白神岬沿海舩体沈没溺死者貮百五拾四名也 明治廿七年七月十一日北海滊舩會社外有志者一同』

チャターナイト記念(青森はまなすライオンズクラブ1979.4.22)

屋外ステージ。


横山實先生胸像。

『頌徳 元青森市長横山實先生は、明治三十六年十一月五日青森市大字浦町字橋本二四五番孫吉二男として生まれ、長じて青森県師範学校を卒業し、小学校に教鞭をとり、その後、県、市勢発展のため県、市会議員となり、次いで懇情により市助役に就任し、自治行政伸長に意を注いだのであります。特に先生は、大東亜戦争終焉後の青森市の殆んどが焦土と化し、死傷者一,七六三名、罹災者七二,四五八名を出し、人心動揺、卋情混迷その極にあるとき、愛市復興による市民の福祉と治安維持確立のため、昭和二十二年四月五日全市民の与望を担ひ、初の民選市長に選ばれ、爾来十六年間、昭和三十八年四月三十日の任期満了に至るまでの四期連続をひたすら復興に挺身されたのであります。しかも当時の市民は、極端なる窮乏生涯に呻吟苦悩をしていたときであり、その救済と復興事業の対策には被爆による妻子を失うという悲痛をうちにとめ、寝食を忘れ、熟慮断行の先生は、豊富高邁な識見と実践力をもってこれにあたり、復興の情熱はよくこの障害を打破し、大青森市の復興の基礎を実現されたのであります。実に長期苦闘の持続とその苦慮と困難は、まさに筆舌に尽し得ないものがあり、先生のこの難局に献身された崇高なる精神とその成果に対しては、全市民ひとしく敬仰してやまないところであります。ここに先生の輝かしい自治行政の偉業を讃え、その顕彰をするために、陸奥湾を一望する白砂青松の合浦公園に先生の像を刻み、その実績を後世に伝えるものであります。 昭和四十三年七月青森県知事竹内俊吉撰書』





合浦公園では、リードをつないだ状態であれば、ペットを連れての散歩が可能です。もちろん「フンは必ず持ち帰る」といったマナーを守る必要があります。


がっ!残念なことに結構フンだらけでした。しかも丁度フンをさせてそのまま去って行く人を見かけました。


義魂碑(青森縣知事山崎岩男書、昭和32年10月建之)。



この碑は殉職消防団員・消防職員を弔うため、青森県消防協会により建てられたものであり、正面と左側の碑には殉職消防団員の氏名、右側の碑には殉職消防職員の氏名が刻まれています。


青森縣殉難警察官忠魂碑。

大正12年5月建之、昭和59年9月改修。


根子堰がある東側入口。


清涼寺(造道・曹洞宗・御本尊釈迦牟尼佛)と青森双葉保育園があります。




鐘楼。

梵鐘。

公園内に戻りまして…


非常用貯水槽について。

合浦稲荷神社付近にある…

祇年句碑。明治27年9月9日有香社中。


芭蕉句碑「鎌倉を生きて出けんはつ松魚」

明治25年秋六世祇年(浅田(不二亭)祇年)・有香社建(浅田祇年)。

青中校舎跡地記念碑(昭和60年8月16日、青森県立青森中学校同窓会有志)

校歌が刻まれています。


『ここに我等の母校ありき 天に聳ゆる八甲田山 合浦ヶ浜の波の音 無限の象徴の徽章をかざし 誠実勤勉の教えを謳い ここに白堊の学び舎ありき 母校忘れがたし いま 青森中学校の 創立八十五周年にあたり 記念の碑を建て 母校に寄する 我等が永遠の思いを陳ぶ』

腹ごしらえ。「つじい」で中華そば(ねぎ多め)。

うまっ!











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