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秋田県秋田市太平山谷野田。野田町内公民館隣。山谷番楽の発祥の社。
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山谷はかつて山屋とも書き、河辺郡境の太平山麓に位置。戦国期の山谷村は出羽国秋田郡のうち。慶長6年秋田家分限帳には鎌田旦右衛門代官所のうちに「太平郷之内山屋村」176石余とあります。古城址が多く大江氏遺構と伝えます。江戸期の山谷村は出羽国秋田郡のうち。秋田藩領。慶長8年の村高251石余と推定。正保国絵図では本田当高264石。元禄7郡絵図では261石余。享保黒印高帳では村高345石余・当高389石余(うち本田251・本田並50・新田88)。享保郡邑記では80軒(うち枝郷皿見内・土佐ノ台・野田・貝野沢・屋山5ヶ村分計63)。枝郷のうち野田は正保年中百姓2軒で開村という太平地区最奥の村落。なだらかな峠で河辺郡に境するところ。近世を通じ太平山の表参道登山口であり、久保田城より東5里、野田より山頂まで3里とされました。寛政村附帳では親郷目長崎村の寄郷として当高417石余(うち蔵分264・給分153)。秋田風土記では373石・69軒、用水は太平川。枝郷は5ヶ村のほか、もと中村という1村があったと記録。太平山権現の登り口で、頂上まで3里、2里の地に女人堂があります。木蛭という山蛭が多いといいます。藤倉に至る地に観音堂(当国第23番札所)があります。鎮守神明堂・勝手明神鎮座。勝手明神は黒沢との境にあり、戸村家の氏神で、御神体は甲冑像17体。中世の太平領主永井氏の家臣末流鎌田新兵衛が居住。夜は狼が多く独行を禁じる記述があります。天保郷帳389石余。この頃の人口345・馬50。鎌田氏の館跡を館越といいます。明治の郡区町村制下、目長崎・八田・中関・寺庭・黒沢の諸村と連合。戸長役場は目長崎村に置きました。明治22年南秋田郡太平村の大字となります。昭和29年からは太平を冠称、秋田市の大字となります。
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3.5
生面大神。
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山谷番楽(秋田市無形民俗文化財)は、生面神社の御神体とされる15体の面(内13体が秋田市の有形文化財)を用いて舞われる神事芸能。その面には、室町時代の「一透」、安土桃山時代の「イセキ」や「是閑」など一流の面打師の刻銘が見られ、これらの面をつけて番楽を舞うことにより、悪疫除去、五穀豊穣を祈願したと伝えられています。太平山信仰とも関わりがあり、中世末から近世初頭に修験衆徒らが奉じてきたともいわれています。
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文化遺産オンライン「山谷番楽面」より一部抜粋…『本面は、生面神社の社殿が明治22年(1889)に建てられた際、15面まとまって納められたといわれる。山谷番楽は秋田市太平山谷に伝わる民俗芸能で、山谷生面番楽とも呼ばれた。この地域が太平山への登山口の一つであったことから、太平山信仰にかかわる修験者が伝えたものといわれている。番楽は、生面神社で行われた初午の祭典などの際に舞われていたほか、旧暦の7月7日の幕開きから11月1日の幕納めまでの期間は近郷近在を巡行して舞って歩いたもので、門付けの要素もみられた。また面は、番楽だけでなく、年明けとともにこの地域の家々を廻って家内安全や無病息災を祈る春祈祷にも用いられていた。本面は、県内に残る番楽面の中では古い時代のものも含まれており、地域に伝承されている芸能や信仰と一体となって永く伝えられてきたものであることから貴重である。』
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拝殿向拝神額「生面神社」(平成元年参月拾壱日※鳥居寄進者名・発起人名省略)
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拝殿向拝神額「生面神社」(平成10年2月吉日、野田町内会一同奉納)
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