1
秋田県仙北市田沢湖田沢寺下。
2
2.5
曹洞宗竜蔵山田沢寺(龍藏山田澤寺)。「タザワデラ」ではなく「デンタクジ」。
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二十三夜塔。
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六地蔵。
5
田沢村についてです。戦国期は出羽国山本郡のうち。史料上の初見は天正18年12月19日豊臣秀吉朱印安堵状写(戸沢文書)。田沢村324石余(うち田25町・畑2町)とあり、角館城主戸沢光盛の当知行地。同文書中に記載の相内畠村が生保内地区を含むので、田沢村のこの石高はほぼ近世の田沢村領域に一致。南北朝期に千葉一族が定住したとか、戦国末期に堀川一族が移住したなど、近世になって草分け百姓の由緒が記されます。鎧畑ダム口に位置する中山の通称寺屋敷地点からは、土師器や渡唐銭が出土しており中世の寺院存在を伝えます。
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江戸期以降の田沢村は仙北郡(寛文4年まで山本郡)のうち。秋田藩領。慶長8年の村高は436石余と推定。正保国絵図では本田当高416石。玉川沿いに生保内村、田沢湖北岸を経て下檜木内村へと二方に通ずる道路を記載。正神峠越え玉川村へ至る道は記載されず、幕末まで山越の難所といわれました。しかしながらこの難所を越えた尻高沢山中の自然石は作神・黒尊仏として信仰を集め、この地に建立の観音堂(明治17年に鳩峰神社と改称)は当国巡礼15番札所として参詣者で賑わいました。乳頭山温泉の鶴湯は、藩主や久保田給人も湯治し、湯役銀70目を賦課された有名湯であり、田沢湖も観光と国鱒・ウグイ(クキ)漁の地。周囲の豊富な山林原野では大半が御直山に指定されながら、正徳年中より御薪木1,000棚の上納を負担し、天保5年小和瀬野に藩の指導で肝煎堀川小太郎が管理する馬種改良の牧も設置されています。親郷広久内村(幕末には親郷は西明寺村)の寄郷として、枝郷に湯野又・小沢・見付田・張山(春山)・大谷地・上・張坂(羽坂)・先達の8ヵ村を擁します。享保黒印高帳の村高525石余・当高423石余(うち本田363・新田60)、寛政村附帳では当高468石余(うち蔵分443・給分25)、天保郷帳は423石余。戸数は享保郡邑記で93軒(うち枝郷分57)、秋田風土記で150軒。鉱山開発も盛んであり、享保4年から小黒沢見立銀山、延宝3年から田沢鉄山の稼業及び荒湯ノ又・大深沢で硫黄が採鉱されました。寛永頃に曹洞宗竜蔵山田沢寺(白岩村雲岩寺末寺)が開基。村鎮守は神明社。その他、修験惣行寺・元正院及び白山社など数社が見えます。明治2年の村勢は150軒・850人・馬608頭。明治14年玉川村を合併。成立時の戸数191・人口925、田150町・畑146町歩で、山林原野は6万8,587町歩(約70%が国有林)。村役場は生玉氏宅や田沢寺に置き、昭和11年田沢字寺下に新設。明治33年・大正15年など大洪水に遭っています。第二次大戦後、昭和23年に東北電力経営の先達発電所竣工、同28年公布の国土総合開発法の適用指定を受け、同31年県営鎧畑発電所竣工をはじめ電源開発が促進。田沢小学校は明治7年荷嶽学校として開校(大正2年現在地に新築)。玉川小学校は明治20年分校として設立、昭和28年独立校となり、田沢中学校は昭和22年開校。同31年神代・生保内2ヶ村と合併し田沢湖町成立。大字は田沢湖町の大字に継承。
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石灯籠一対(平成9年8月、為春光院)
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8.5
その他石灯籠二対。
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9.2
9.4
9.8
手水舎。
10
10.5
本堂。
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御本尊釈迦牟尼仏。寛永年間頃の創建と伝えます。忠臣蔵の吉良家家臣の慰霊塔があります。
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「龍藏山」(昭和60年5月)
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13.5
萬靈塔(※萬靈塔塔銘:昭和42年8月15日)
14
14.4
14.8
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