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秋田県秋田市河辺大張野道ノ下。行った際には気付きませんでしたが、すぐ近くにも「鬼子母神」の額が掲げた小さな社があるようです。
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拓魂之碑。秋田県知事小畑勇二郎書。
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『終戰時満洲開拓青年義勇隊に在り 翌年大張野に入植宮前農事実行組合結成長年に亘り開拓の鍬を把り進取の気概に富む地元の石塚三治郎を初代組合長とし四十数名生活を共にせるも十数名離農 二十三年大張野開拓農業協同組合と改め引揚者等入植し理想郷建設に専念途上二代組合長黒澤武夫外数名開拓の礎となれり 前途多難なるも稲穂の波寄せ乳の流るる郷となりし二十周年を迎へ茲に開拓魂を結集して初志の貫徹を誓い此の碑を建てる』
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『大張野開拓二十周年記念 曽我達男 橋場昭二 手倉森茂 三浦末吉 山村喜代松 泉三郎 畑山久人 小田島與四郎 沼山勝二 金沢勲 石塚金之助 車春松 石塚重二郎 田端直藏 竹井芳太郎 工藤豊 佐藤義雄 山田國太郎 大南弘 髙橋與三郎 畑中千松 菊地金次郎 尾下孝三郎 今野久治郎 滝田勘吉 石田俊吉 中川原広治 篭谷源次郎 田中金六 黒澤猛 昭和四十年九月二十日建立』
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市指定有形文化財「明治天皇行在所跡」(昭和54年5月17日指定)。明治14年に明治天皇が東北巡幸をした際に休憩された場所の一つ。明治維新後に仕事を失った士族たちは羽生氏熟を中心として大張野の開拓にあたりました。明治天皇はその開拓の努力を励ますためにお立ち寄りになられました。
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史跡「大張野行在所跡」…『明治天皇は、明治14年(1881年)秋田山形両県を主に東北御巡幸をされたとき、この処に行在所が設けられた。9月18日、秋田市をお発ちになられた天皇は戸島で鮎の鵜縄漁を御覧になられ、和田では佐々木家で小休息をされ、11時55分大張野へお着きになった。ここでは馬産、牧馬の状況や、秋成社の開墾事業を御覧になられた。当日は、河辺、南秋両郡の町村から馬三千余頭が集められ、それぞれ町村の旗が、秋の広野にひらめく状(さま)は、まことに見事であった。』
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明治天皇聖蹟(昭和10年9月18日 御臨幸五十五年記念)
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参道。
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大張野は岩見川の中流東岸部にあり、高位(60~90m)、中位(55~70m)、低位(30~40m)の三段からなる河岸段丘上に位置。地名の由来は広大な原野に因みます。縄文時代の土器が出土。「和名抄」の出羽国秋田郡成相郷の一部助川村と推定されますが定かではありません。
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江戸期の大張野村は出羽国河辺郡(寛文4年まで豊島郡)のうち。秋田藩領。式田宮崎村の寄郷。享保黒印高帳では村高36石余・当高22石余(うち本田並16・新田6)。享保15年の戸数5軒。寛政村附帳では給分高18石余、天保郷帳では高22石余。農業用水は堤に頼ります。いたって水の少ない所でした。肝煎は寛政期は権三郎、享和期に彦十郎が当たっています。明治6年式田宮崎村は和田村と改称。明治12年10月に禄から離れた士族たちが羽生氏熟を中心にして、授産事業を起こそうとして秋成社を結成し開墾に着手、45町歩余を開墾。桑・芦・粟・陸稲・大豆・馬鈴薯・カブ・麦などを植えました。移住戸数52戸・人口218人・農学校生徒30人・私立大張野学校生徒28人、農牛10頭・農馬13頭。開墾にかかる諸経費約1万5000円。明治14年に天皇が行幸。同17年曹洞宗宝沢寺を牛島(秋田市)宝袋院末寺として創建、明治末期に廃寺となっています。明治22年戸数32・人口175、田地6町歩余・畑地8町歩余。同22年河辺郡和田村の大字となります。昭和13年からは和田町、同30年からは河辺町の大字。明治36年国鉄奥羽本線が開通し、昭和8年に大張野信号所ができ、同25年に大張野駅となります。
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社殿。氏神様として昔から地元の方たちに親しまれてきました。子授け、安産、子育て、盗難除けの神として信仰されています。なお、横道の庚申堂の隣に鬼子母神が祀られており、元は荒川鉱山にあったもので、信者の手によって移転されたものであり、元木で作られたという理由から大張野の姉であるとのことです。
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社殿内。
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明治天皇東北巡幸に同行していた岩倉具視の歌碑…『「八束穂の今実らん秋乃田の身を尽くしても開くちからに 具視」明治十四年七月祝大張野開墾賜羽生氏熟』
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境内には矢穴石らしき石がたくさんありました。
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駐蹕碑…『王政復古士人歸田墾荒興廢稼穡維専我大張野馬耕占先 明治辛巳九月有年 鳳輦茲駐 叡覽炊煙 龍頭喜麗仁澤如天北羽民庶萬歳歡然樹碑仰瞻聖徳長傳 臣橘氏熟謹建之』
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明治天皇玉歩之聖趾。
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士魂城之碑(内大臣正二位大勲位侯爵松方正義篆額、大正8年春3月、秋田羽生橘氏熟識)※碑文省略(読み取れる状態です)
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