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秋田県北秋田市阿仁萱草。一之鳥居(萱草部落講中一同、昭和61年10月吉日)
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萱草七面山(七面社)の西方。私の古い地図では「三神神社」、カーナビでは「山神社」と表記。
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荒瀬は森吉山の南麓の一帯を占め、打当川が比立内川と合流して阿仁川となる両川のほぼ全域。江戸期の荒瀬村は出羽国秋田郡阿仁小猿部のうち。秋田藩領。村高は「正保国絵図」本田当高153石余、「享保黒印高帳」村高735石余・当高345石余(うち本田184・新田161)、「寛政村附帳」当高413石余(うち蔵分395・給分18石余)、「天保郷帳」345石余。元は荒瀬本村の東方で元屋布の名のある所に集落がありましたが、沼地であった現在地を田地として享保以前に移ったといいます。小淵村の枝郷でしたが、元禄11年より独立して肝煎を置いたといいます。寛政年中の戸数は荒瀬本村52軒、枝郷は櫃畑村7・萱草村24(山萱草と里萱草に分かれます)・左内(佐山)村6・笑辻内(笑内)村23・根子村24・伏影村10・ヲハ淵村3・比立内村50・岩野沢村7・太平村3・幸屋(幸野)村17・幸屋渡村16・羽立村16・長畑村6・鳥取内村100(トチノ木・野尻・鳥越・小倉の4ヶ村枝郷)・巣生(菅生)村4・下比立内村16・打当村(前山・トト戸)60、更に鉱山との関係で向岱・荒瀬川・鍵ノ滝の3ヶ村が見えます。すべての村々が銅山に関係して生活しており、多くの村はアワ・ヒエを常食とし、アワ・ソバで酒を作ったといいます。天保の飢饉では村内困窮し田地97町を他村に入質、後に復旧するという状況でした。これらの村々では猟をすることが業となり、特に熊を取りその他の動物も獲物としました。鎮守は荒瀬に薬師があり、枝郷ごとに伊勢社があったといいます。明治11年北秋田郡所属。同22年以降も単独村として存続。明治29年には荒瀬川と櫃畑地区を阿仁銅山村に編入。昭和12年役場を鳥坂に移転、同年荒瀬本郷・鍵ノ滝地区を阿仁合町に編入、同年村名を大阿仁村と改称。明治24年の戸数310・人口3,320。江戸期と同様阿仁銅山との関連のうちに村は発展。昭和12年からは大阿仁村、同30年からは阿仁町の大字。
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4.5
社殿。由緒等についてはわかりませんでした。
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5.4
5.6
5.8
「山神社」とありました。
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石灯籠一対(明治22年9月23日、願主:上杉松右衛門、石工:越前谷文吉)
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7.5
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