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五所川原市上平井町。立佞武多の館有料駐車場の片隅にひっそりと玄光寺跡の碑がありました。
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実は立佞武多の館に行きましたら、何と令和7年4月1日から令和8年6月30日(予定)までリニューアル工事のため休館中。ちなみにこの大型改修工事に伴って、新作大型立佞武多制作も今年は見送られ、2026年に立佞武多の館リニューアルオープン&新作大型立佞武多登場となるそうです。はい、道に迷った時以外はほとんどインターネットも見ない情報弱者でございます。
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玄光寺(真宗大谷派光徳山玄光寺)は現在五所川原市末広町にあります。本尊阿弥陀如来。元真教寺(弘前市)末。元禄3年(1690)玄西が五所川原村に創立した念仏道場が起源と伝えます。正徳6年(1716)寺号を公称。なお、下記の江戸期の平井村の説明と碑文も参照ください。
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江戸期以降の平井村についてです。津軽郡田舎庄のうち。津軽平野北部、岩木川右岸の河岸平地に位置。古くは中泉村と称し、ともに泉水に関連する村名。地名については天和年間の書上帳添付の図に「頭無し」という沼が見えることから、これに由来するものとも考えられるそうです(五所川原町誌)。弘前藩領。当村は寛文5年に開拓がはじまり、延宝4年に一応完成する五所川原新田15ヶ村のうちの1村。はじめ川端村(喰川村)の枝村でしたが享保11年同村から分村して独立した村となります。平山日記では、寛文・延宝年間に五所川原村が成立し「其後鎌屋・川端・大曲り・尻無派申候、是皆川端村ニ而、今喰川、平井、柏原と成る」とあり、この頃は既に平井村とも称したと考えられますが、貞享4年以降は平井村とのみ称されており中泉村とは呼ばれなくなります。当村の草分は鳴海伊右衛門と伝えられ、一説には猪口清兵衛といいます。村高は貞享4年検地水帳では喰川村の枝村とあり476石余(田359石余・畑108石余・屋敷8石余)、天保郷帳弘前本では463石余(うち天明8年改出新田181石余・寛政10年改出新田102石・文化9年改出新田180石)、旧高旧領533石余。貞享元年の家数32、うち御蔵16・水呑13・給地3。同2年五所川原村にあった藩の御蔵を当村に移転。なお、同御蔵は五所川原御蔵と称することもありました。御蔵屋敷の敷地規模は30間・22間。貞享4年検地水帳によりますと、小字に「幾世もり」があり、枝村平井村分の反別は田40町8反余・畑21町7反余・屋敷1町余(うち郷蔵屋敷20歩)。同4年当村に在宅して手作していた者として、半甲大袋助兵衛と諸手足軽木村清兵衛が見えます。用水は元禄年間に開削された五所川原堰を利用。元禄3年には広田組に属し、村位は下、家数28、うち庄屋1・百姓15・水呑12。喰川・平井・柏原・五所川原の4ヶ村をあわせて単に五所川原と呼ばれることがあり、江戸中期以降は4ヶ村にわたって町場が形成。元禄7年の諸職諸家業覚では居鯖4、質屋1、染屋1があります。後の明和2年には酒造業が見え、寛政8年には医者3・針医1がいました。寛政12年には御役家業として造酒1・質屋1・魚売2・酒小売1・染屋1・荒物1・桶屋2・室屋(麹屋)1など、御役職業として上大工1・中大工1・下木挽1、無役・新家業として木綿4・荒物3・干肴3・飴1などがそれぞれ見え、喰川・五所川原村とともに比較的大きな町場を形成していたことがわかります。天明7年の凶作による年貢米不足に対し、当村の宇右衛門をはじめ4人が調達米を献納。寛政6年には在宅(農村に居住)与力工藤源八が、質屋・木綿業原庄右衛門の伯父庄八を切り殺すという事件が起きています。尻無渡は十川の対岸の太刀打村枝村尻無との間を結ぶ渡で、安永8年には馬船1艘がありました。寺院は当村の玄斎(玄西)が元禄6年当村水呑久五郎跡屋敷に庵を建て、はじめ玄西庵と称し、後の正徳6年に寺号を許された浄土真宗光徳山玄光寺があります。なお、浄土真宗一派縁起には、元禄3年玄西が五所川原村念仏道場として創立したと見えます。明治4年弘前県を経て青森県所属。明治2年の戸数140・人口775、馬56。同3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し、これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われましたが、同年の広田組村々士卒帳によりますと、当村に帰農を割り当てられた在宅士族は俵子100俵1人、80俵3人、60俵1人、40俵2人、15俵1人でした。明治初年の戸数136、うち通町8・東大通町67・横通13・在通町11・平井派28・舟場9、村況は「喰川村の北に続き…西に市店ありて喰川村に斉しく、東北の方は農家のみなり」(国誌)。この頃、五所川原・喰川・平井・柏原の4ヶ村に形成された町場の中には、五所川原のうちの1町として見える町もあり、当村では大通町(通町)・東大通町・横通・在通町などがそのような町でした。明治9年五所川原村の一部となります。
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碑文…『真宗大谷派玄光寺跡』・『縁起 元禄六癸酉年越前國勝授寺法弟玄西、玄西庵を結ぶ。正徳六癸酉年(1716年)六月、光徳山玄光寺建立。』・『十二世住職柿嶋智勇 昭和29年上平井町102番地より末広町39番地へ移轉する。玄光寺十三世住職柿嶋正哲 葛西造花店葛西穂 寺田石材店寺田武 建之』・『南無阿弥陀佛』
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立佞武多の館に隣接しているマルコーセンター(五所川原市大町)。お隣の麺屋長門は外まで人が並んでいました。
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ホタテとかウニとか天然真鯛のお刺身とかたくさん買ってきました。ホタテが安かったー!しかもサービスしてくれたー!立佞武多の館休館の悲しみを払拭してくれました。
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市場内にあった「生鮮市場マルコーセンター」の貼紙より一部抜粋…『(前略)マルコーセンターという大きな市場を訪れた。こちらには「のへ丼」なる物がある。青森駅前にも「のっけ丼」という、ご飯の盛られた丼を買って、市場で売っている刺身の切り身を自由に乗せて食べる丼があるが、こちらはその五所川原マルコーセンター版だ。ちなみに「のへ」というのは、「乗せる」という言葉を津軽弁で「のへる」と言うことから、それを頭に付けて「のへ丼」としているようだ。さあ、中々に広い場内を探索しながら、のへ丼を完成させよう。まずは「惣菜小山文(おさぶん)」という店で、のへ丼のライス200円を買った。こちらではご飯だけ買ったが、手羽先や串に刺して焼いてあるホタテが売っていて、かなり旨そうだった。次はのへ丼に乗せる海鮮の具を買う訳だが、場内にはのへ丼の具を売る店が3店舗あると聞いたので、せっかくなのですべての店から少しずつ具を買うことにした。最初は「瓜田鮮魚店」という店で、本マグロの中落ちにサーモン、えびを買った。ここでポイントだが、どの店でも「おまかせセット」のような、いろいろな魚介の具が入っていて、それを買って丼に乗せるだけで丼が完成してしまうセットが売っている。しかし私はすべての店から具を買うので、具を小分けにして少しずつ買って、丼に乗せてもらった。瓜田鮮魚店では親切な店員さんが手間を惜しまずに私の具を切り分けてくれた。次は(○魚)田村鮮魚店で、美味しそうな赤貝を買った。そして最後は後ろの秋田谷鮮魚店で、イクラをたっぷり乗せてもらった。ちなみに秋田谷鮮魚店の店員さんが私の丼を見て「赤い具ばっかりだね」と言われた。確かにすべての具が赤い。ホタテやブリやアジも乗せてもらえば良かった。のへ丼が完成して、お盆を持って場内をうろうろしていると、最初にご飯を買った「惣菜小山文」のかっこいい店員さんが、なんとアラ汁をプレゼントしてくれた。私はちょうど汁物がないかさまよっていたので、このお心遣いは大変嬉しかった。さあ、のへ丼の完成だ。席でさっそくのへ丼を堪能しよう。本マグロの中落ちはフワフワして旨い。大きなエビも甘い。赤貝も旨みが充分。イクラも味があってとろけて美味しい。いただいたアラ汁も出汁が効いている。これで締めて1050円だった。なかなかの安さと旨さに大満足だ。五所川原はどちらかと言えば海から遠いが、美味しい海鮮丼が頂けて幸せである。のへ丼のシステムがあるマルコーセンターさんには大感謝だ。五所川原を訪れたら、ぜひマルコーセンターの「のへ丼」を味わっていただきたい。』
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市場内に貼ってあった立佞武多のポスター。
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オンライン弘前ねぷたまつり観覧2025。
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