岩手県北上市新平2地割。江釣子多目的研修センター・日平花木園付近。新平丘陵上に位置。
えづりこ散策マップより…『元和元年(1615年)頃に伊勢皇大神宮より、伊勢信仰を広めるために東北地方を巡幸した際、行在所になったところに五穀豊穣、家内安全を祈願し、堂宇を建立したのがはじめであり、明治維新後、この社を新平部落の鎮守として今日に至ります。明治21年(1888年)堂宇焼失により文献等の記録は極めて少ない。』

二之鳥居と参道。
狛犬一対(昭和52年9月)
邦内郷村志によりますと新平はかつて日平もしくは仁平とも書きました。北上盆地のほぼ中央部、和賀川左岸の段丘のうち中位の村崎野段丘面の鳥居長根を南西限とし、同じく村崎野を北限として、その間に南東部に緩やかに低く傾斜する平坦地に位置。長根の北東すそを北上川支流黒沢川に合流する新平川(和賀川土地改良区中央幹線排水路)が流れます。地名の由来はアイヌ語説がありますが不明。鳥居長根に新平遺跡があり、岩崎街道(上街道)をはさむ両側の建物の遺構は古代駅家(うまや)跡と推定。

鎌倉期に見える日戸郷は和賀郡のうち。「鬼柳文書」の和賀氏系図に、和賀義行の子景行の譲得所帯が記されており、その中に桜岳野馬・須々孫野馬とともに日戸郷が見えます。日戸郷は牧とワンセットで与えられており、糠部の一戸~九戸の牧と同様に「にっぺ」と呼ばれていたと推測。永禄元年和賀領検地目録には新平村と書かれており、戦国末期以降に「にっぺい」と呼んだと推測。戦国期の新平の地は北西から南東に伸びる舌状台地を指したと思われます。この台地に新平遺跡があり、昭和32年から七次にわたる発掘調査がなされています。その調査概報は、濠と土塁により区画されたほぼ方形の四周湟と、その内部にある掘立柱の厩らしき建物跡、それらの南方にある多数の鉄滓を出土した鍛冶場の建物跡・竪穴住居址、須恵器・土師器などを根拠に平安期の駅家跡と推定。しかしながらこの地が南部九牧と同様の「戸」という呼称を持ち、かつ「牧ぶくろ」に酷似する地形であることからも、この遺跡は和賀氏系図にある日戸牧と理解すべきところです。牧に鍛冶施設が付随することも最近の研究で指摘されています。更に調査概報で紹介されている「マッコのセバ」という新平丘陵全体の呼称は、恐らく馬の洗場であり、牧馬の飼育と関係があるのではないかと推測。他に付近に残る糠塚・下糠塚という地名も日戸牧との関連を伺わせます。
江戸期の新平村は和賀郡のうち。盛岡藩領。寛文年間~天和2年は笹間通に属し、後に笹間は二子通と改称、ついで享保年間頃までに黒沢尻通に所管換えとなります。天正19年~慶長18年は花巻郡代北信愛(松斎)父子の統治下、ついで寛永元年までは花巻城代南部政直の支配下。慶長8年の高38石余、他に上糠塚85石余。村高は邦内郷村志139石余(うち給地7石余)、旧高旧領326石余。正保郷村帳・貞享高辻帳・元禄郷帳・天保郷帳・安政高辻帳には当村名が記されておらず、仮名付帳では滑田村の枝村として見えます。江戸前期の新田開発により村高は増加。享保13年当村に知行地のある給人は野田金太夫7石余の1氏、この時の奥寺古八左衛門の取立新田は78石余。邦内郷村志によりますと家数21、うち新平1・糠塚15・芦ケ沢4・大沢口1、馬数33。本枝村付並位付によりますと位付は上の中、家数23、集落別内訳は本村7・糠塚16。天保8年の御蔵給所惣高書上帳では御蔵高131石余(うち不仕付高3石余)・給所高7石余。弘化2年名寄帳によりますと反別は田27町余・畑5町余、家数23。畑は痩地で大半が下級畑とされ田作を中心としました。また、馬産も行われていました。南北に岩崎街道が通ります。同街道は慶長9年黒沢尻を経由する奥州街道が定まるまでの本街道であり、花巻南城から飯豊・門屋・新平・滑田・御免町を経て岩崎に至っています。黒沢尻通では延享元年の新田開発反対一揆など百姓一揆が頻発していますが、当村は知行地分が少なく比較的平穏でした。当村の草分けは「新平(伊藤家)糠塚(高橋家)萩前田(笹間分)、一つ小鍋の三軒屋」と称されたといいます。伊藤家は天保15年以来金方士分で、万延身帯帳に鬼柳黒沢尻通給人70石余とあります。また、高橋家はまいりの仏(孝養太子木像)を祀ります。鎮守天照大神宮は元和元年巡行中の天照大神の神輿が留まった縁で祀ったと伝えます。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年東和賀郡に属します。明治11年の村の幅員は東西25町・南北11町、税地は田37町余・畑30町余・宅地3町余・荒地1町余など計72町余、戸数27・人口178(男88・女90)、馬40、神社1、職業別戸数は農業26、物産は馬・米・大豆・小豆・小麦・蕎麦・粟・稗・蘿菔・麻布・麻糸。同22年江釣子村の大字となります。平成3年からは北上市の大字。世帯数・人口は大正12年36・243、昭和23年51・325、同48年50・304。農業が中心で農業構造改善事業が進展し、昭和42年に道ノ上長根地区にパイネトロン方式による開田が完成,米を基幹作物としています。民謡さんさ節を伝承。同45年花巻市南笹間との間に境界変更を実施。
鳥居奉納碑(昭和7年10月12日)

手水舎。

社殿前参道。
幟立て・狛犬・石灯籠各一対。
社殿。

御祭神は天照皇大御神。


例祭日9月16日(※神社庁)

拝殿内。

由緒(神社庁より)…『徳川幕府は、慶長18年(1613)、今から三百七十年前にキリスト教を禁止し、信者でない証拠として寺の信徒であるという宗門帳(信徒の名前を書いた帳面)を提出させキリスト教の絶滅を計り、当時亜細亜諸国が植民地とされるなかで我が国をよく守った。また、元和元年(1615)頃に伊勢皇太神宮より、伊勢信仰を広めるために東北地方を巡幸した際、行在所になったところに五穀豊穣、家内安全を祈願し、堂宇を建立したのが当社の初めである。』
現地案内板「天照大神宮」より…『【祭神】天照皇太神【祭日】3月18日・9月15日【由緒】元和元年(1615年)伊勢皇太神宮の分霊が東北地方のキリシタン廃滅のため巡幸した際に行在所とした所に堂宇を建てたものといわれている。明治維新後に旧新平村の鎮守となっている。明治20年に堂宇が焼失し由緒等は不明である。現在社殿内には焼仏一体、神像二体が安置されている。境内には保食神を祭神とする稲神社がある。』

石塔群。

當國三十三所観世音(大正3年8月7日)

金毘羅(明治27年9月10日)

當國三十三所観世音(明治37年7月27日)

當國三十三所観世音(紀年銘等読み取れず)

こちらは不明。由緒に「境内には保食神を祭神とする稲神社がある」とあるので、稲神社(或いは稲荷神社?)に関連するものかも知れません。

神社の脇に道が続いています。


このようなやや鬱蒼とした道。

何となく道なりに日平花木園・日平グラウンド方面へと歩いていくと墓所があり、そこに新平遺跡の案内板があります。

つまり今歩いてきたところ一帯が新平遺跡だったんですね。全然わかりませんでした。

新平(いっぺい)遺跡(岩手県指定史跡・昭和38(1963)年12月24日指定・北上市教育委員会)…『新平遺跡は、縄文時代から中世にまで及ぶ複合遺跡です。昭和32(1957)・33(1958)年に発掘調査が行われました。この結果、周囲を空堀がめぐること、西北の部分では空堀が二重となることが確認されています。空堀の内側と外側では建物の跡も確認され、古代の駅家(うまや・情報伝達のための施設)跡とも推定されています。』
















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