岩手県花巻市湯口古堂。豊沢川の西、友喜商会向かい。

社号標「村社太神宮」(昭和14年6月16日建之)

「当國三十三所観世音」(昭和18年8月朔日)

伊勢参宮石燈籠寄進(明治26年6月16日)

石灯籠一対。


石碑群と石灯籠一対(弘化4丁未年6月16日)
一部紹介。

庚申塔。


湯殿山(文化11年9月8日)

尾﨑大明神。

湯殿山供養塔(文政12年12月)

馬頭観音。

太神宮鎮座千二百年式年祭記念碑(御祭神、例祭日省略。平成19年7月吉日)

案内板「年間祭典行事」より…『元旦祭1月1日・どんと祭1月14日・祈念祭2月17日・薬師社4月8日・例大祭旧暦6月16日・新穀感謝祭11月23日・山神年越祭12月12日』※橋本旅行会九州旅行記念奉納(※氏名省略)昭和61年4月代表菊池幸一

石碑。

山神(文政7甲申年8月12日)

庚申塔(大正14年10月17日)

山神。

湯口は奥羽山脈の東斜面、北上川支流豊沢川流域に位置。西部は奥羽山脈の支脈が起伏して志戸平・大沢などの温泉が湧出しており、東部は北上川沖積地帯に属する平坦地。地名の由来は、天文年間に稗貫氏の臣湯口大蔵丞が治めていたことによるといいますが、氏名が地名に因むものと考えられ、温泉に因む地名とするのが自然。戦国期の湯口村は稗貫郡のうち。年欠(天正18年か)8月20日浅野弾正長吉判物(万丁目通湯口村喜伊右衛門所持文書/宝翰類聚)によりますと、北奥仕置のため鳥谷ケ崎城に駐留中の長吉は、戦火を避けて逃散した百姓・地下人らを還住させ、「耕作・商買以下もとの通りにつかまつるべし、いささかも非分の儀あるべからず」と命じました。命令の宛先は「ゆくち村百姓中」となっています。また、天文24年稗貫大和守義時が上洛した時の随員に湯口大蔵丞の名が見えます。湯口氏は当村の領主。郡主稗貫氏の一族。稗貫家臣中でも相当な地位にあったことが知られています。なお、湯口の白山神社大日如来胎内銘には「大旦那大畑之禅門前出羽守時義」と、稗貫氏の当主と思われる人名が記されており(建武年間に活躍した中条=稗貫出羽前司時長の子孫か)、寿慶3年の年紀があります(寿慶3年は私年号で南北朝期の嘉慶3年か)。豊沢川の北岸の鐘撞森と呼ぶ小丘の西側に、空濠に囲まれた約40間四方の館跡があり、湯口氏の居館跡と推定。
江戸期以降の湯口村は稗貫郡のうち。盛岡藩領。享保20年から万丁目通に属します。村高は「正保郷村帳」118石余(田87石余・畑30石余)、「貞享高辻帳」139石余、「邦内郷村志」644石余(うち給地17石余)、「天保郷帳」644石余、天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」644石余(うち御蔵高626石余・御免地高6石余・給所高11石余)、「安政高辻帳」516石余、「旧高旧領」725石余、明治8年804石余。「貞享高辻帳」から「邦内郷村志」の間に石高が増えているのは藩主南部行信が新田開発を命じ、当村に住んでいた煤孫治兵衛盛忠が新田穴堰を開削したほか、花巻城勤番の藩士伊藤久慶も正徳末年穴堰開削工事に着手して元文初年に竣工し、豊沢川から灌漑用水を引き水田を開墾したことによります。また「安政高辻帳」での石高減少は天保3年以来の連続した凶作によります。この飢饉の中、当地方の農民も天保8年仙台藩に訴えて解決を図ろうと数千人が鍋倉村に結集し、中央道を避けて西山根通りを南進、仙台藩の立会で訴えの一部は達せられましたが、上根子村喜四郎ら首謀者は打首となっています。寛政9年の家数115、集落別内訳は湯口73・青山8・志戸平11・日影坂6・大沢17、馬数333。神社としては伊勢神明宮が見えます。「本枝村付並位付」によりますと、位付は上の中、家数103、集落別内訳は橋本10・中野13・上河原7・古堂5・新田16・根岸5・二ツ関4・青山8・志戸平9・日影沢8・大沢18。温泉は豊沢川沿いに志戸平温泉と大沢温泉があります。延享元年の産物は干蕨、壁の上塗用の白土。文政4年の産物は木地類・白土・干蕨・紫蕨・粒かたくり。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同9年の村の幅員は東西約33町・南北約1里13町、税地は田94町余・畑115町余など計264町余、戸数127・人口753(男383・女370)、馬109。職業別戸数は農業124、物産は馬・米・粟・稗・大麦・小麦・大豆・小豆・蕎麦・蘿蔔・藍・荏油・太布・薪・製茶・白粘土。明治8年第8大区第6番扱所を当村に置き、中根子・上根子・円満寺・膝立・鍋倉・西晴山・湯口・下シ沢・鉛・豊沢の各村を管轄。安永8年に開削された道路で里川口村から南万丁目・中根子・上根子・円満寺・湯口・下シ沢・豊沢の各村を通り、和賀郡川舟村に通ずる沢内街道(沢内往還・沢内往来・中山街道ともいう)が通りました。地内に天保7年創業、明治7年許可の耐火粘土を産出する松倉山鉱山があります。同22年湯口村の大字。豊沢・鉛・下シ沢・湯口・西晴山・上根子・中根子・鍋倉・膝立・円満寺の10か村が合併して成立。旧村名を継承した10大字を編成。役場を円万寺に設置。当村は郡内2番目の大村で、江戸期に開削された鍋倉新田穴堰などによって平坦部は水利の便が良く、水稲栽培を主とした農業を営みました。戸数・人口は、明治22年616・4,139、同42年623・5,165。世帯数・人口は、大正9年777・5,596、昭和10年938・6,507、同22年1,198・7,556、同29年1,318・8,069。戦死病没者数は日清戦争4、日露戦争8。明治34年に大沢郵便局開設。同42年東宮殿下(大正天皇)行啓記念として、西晴山の豊沢川左岸から鍋倉の湯本村界まで延長2,609間の村道、上根子字和田から字川端までの延長781間の村道及び中根子字滝沢から豊沢川を渡り、花巻町境の不動に至る延長625間の村道の主要3路線を改修整備。明治26~28年花巻町を起点として志戸平・大沢・鉛の各温泉場を経て豊沢から和賀郡沢内村川舟に至る中山街道が完成し当村の重要道路となりました。同街道は大正12年花巻~鉛間、昭和20年鉛~川舟間が県道に編入。また、同街道の路面上のうち花巻町の西公園~西鉛間(駅名)に大正4~14年にかけて花巻電鉄が鉛線として電車軌道を敷設し、電車を運行して乗客及び物資の輸送を行っています。大正5年の田794町余・畑438町余・宅地104町余・山林805町余・原野175町余、職業別戸数は農業637・養蚕業1・鉱業1・商業23・自由業1、産物は米・粟・大豆・麦・稗・小豆・蕎麦・胡麻・馬鈴薯・大根・茄子・葱・胡瓜・甘藍・大麻、家畜頭数は牛5・馬553・家禽390、果樹類は梅・柿・榧・梨。昭和10年の統計によりますと、全戸数905のうち農家が763戸で、その他温泉旅館とこれに伴う商家が目立ち、珍しい産物としては獣皮・羽毛と狩猟による獲物があります。大正7年の自・小作状況は、田797町余のうち自作地27%・小作地73%、畑437町余のうち自作地36%・小作地64%、農家戸数638のうち自作121・自作兼小作427・小作90。昭和20年の農地面積1,231町余、うち自作地710町余・小作地521町余。同21年からの農地改革により、農地を買収された地主戸数379(うち個人在村地主195・同不在地主162・法人団体在村地主11・同不在地主11)、同25年8月1日現在までの売渡農地面積509町余(うち村内で売渡しを受けた面積436町余,村外から売渡しを受けた面積73町余)、売渡しを受けた戸数910(うち村内にある農地の売渡しを受けた戸数881、他村にある農地だけの売渡しを受けた戸数29)。同26年の産業別世帯数は農林業970・鉱業32・工業53・商業36・交通業29・公務および自由業79・その他50。昭和22年湯口小学校内に湯口中学校併設、同時に前田小学校学区内に湯口中学校前田分教室を設置。同25~27年にかけて湯口中学校は円万寺堰田に新築移転。昭和24年湯口小学校内に県立花巻高校定時制湯口分校設置、入学生徒数32。昭和29年花巻市の一部となり村制時の10大字は同市の大字に継承。戸数・人口は明治22年124・821、大正6年135・1,361。世帯数・人口は、昭和25年276・1,120、同28年362・1,742、同40年353・1,903。花巻電鉄鉛線は昭和30年代後半からの自家用自動車の普及に伴い、電車の利用者が激減したため、昭和44年9月に電車の運行を廃止。昭和42年字松原の地に松倉温泉が掘り当てられ、翠松園が温泉旅館として開業されましたが同48年から水松園として営業。

社務所。

神楽殿。

境内案内板「太神宮由緒(通称神明社)」より…『【鎮座地】花巻市湯口字古堂九番地【御祭神】天照皇太神、大穴牟遅命、少名毘古那命【例祭日】旧暦6月16日【由緒】第五十代桓武天皇の御代、延暦20年(783)当地方に夷族の王「悪路王」衆賊を卒い悪事を起す、朝廷坂上田村麻呂征夷大将軍に勅して夷族討伐せしめ、当地にて力戦すること数年、遂に討伐の功を奏したるは神霊の助に依ることを信じ、守護神として大同2年(807)亥歳3月16日創立せらる。永禄2年3月(1559)回禄の災に罹り造営なかりしに、利直公の沙汰により元和3年3月(1618)再営、元禄3年6月16日(1691)改造す。天和3年癸歳(1682)南部家二十九代重信公、内幣を支出して稗貫郡万十目通り鍋倉新田、二枚橋新田を開墾す。新田穴堰の大工事に取組み、約五百二十間の坑道を各五十人宛三百人が一昼夜交替で難工事にあたり永い歳月を経ても流水せざるに依り一同苦慮し担当吏割腹して不覚の罪を謝す外なしと思い悩む、作夜霊夢なることを信じ一同共に昼夜参籠し神明に祈願せるに七日目に不思議にも今まで一滴の水も流れなかった新田堰は凄まじい音を立てて溢れるばかりの水が流れ出たと言う。この難工事を無事完成し神明様の御加護を祈念して、元禄3年6月16日壮大なる社殿を造営して、太神宮に奉寛したるものである。時の担当定煤孫治兵工盛忠と言う。尚花巻藩士久慶氏、猫塚藤次郎氏の説もある。享保5年(1720)に伊藤氏より太神宮の額一面奉納あり、祭典ごと伊藤家より奉幣する非れば祭典を行なわざる慣例ありと、元禄3年改造の棟札に記載あり、明治維新後その例を廃せり。時は天正7年頃(1580)盲人と躄(イザリ)が伊勢参宮を志せしが不可能なりと桜の一枝を折り社に差木し千日の願をかけ、九百九十九日目に二人偶然神社で出合った二人の心が通じてか差木が根づき花を咲かせ不思議にも盲人が目を開き楚の足が立ち二人共大神の御神徳により治癒したと言う。尚現在本殿裏に繁っているのは二代目である。峯の温泉神社(通称藥師堂)は大同2年に勧請にして以来病気治しの神様として信仰厚く崇敬せられ明治42年太神宮に合祀する。例祭日四月八日。右太神等の御徳に依り当地方の美田に流水(うるおし)、繁栄をもたらし、一家の健康の守護神として尊崇の念が篤いお宮である。昭和58年4月26日、岩手県神社庁、三級社に認定。創立一千百八十年記念して建立する。昭和六十二年旧暦六月十六日社務所』※ちょっと読み辛かったので間違っているかも知れません
手水石。

社殿。
本殿。

神社庁より…『御祭神…天照皇大神、大穴牟遅命、少名毘古那命。例祭日…旧6月16日。由緒…創立大同二丁亥年(807)、夷族の首魁魔王麿衆賊率いて事を起すに依り、朝廷坂上田村麻呂に勅して之を伐しむ。遂に奥州に入り当地に力戦すること数年、遂に討伐の功を奏したるは神霊の冥助に依ることたるを信じ、守護神として本社を創立せらる。昔盲人と躄が伊勢参宮を志せしが不能なりの桜の一枝を折り差木と為す。二人の心神に通じ成木となり病神徳により治癒した。二代目の桜の老木あり。開田に就いても霊助厚く、志戸平よりの坑道中、蟹沢以東流水せざるに依り一同憂慮し、担当史大いに狼狽割腹して不覚の罪を謝す外なく、一同と共に懸命に参籠し神明に祈願せるに、七日目に通水した。此の担当史は煤孫治兵衛盛忠と云い元禄三年(1690)改造の棟札に記載あり。峯の温泉神社の祭神大穴牟遅命少名毘古那命大同二年(807)の勧請にして以来療養病国土鎮護神として崇敬せられ、明治四十二年(1909)太神宮に合祀する。』
拝殿向拝蟇股(裏)・手鋏・海老虹梁・神額。
拝殿内。

薬師堂。


堂内。

横にあった石碑(安政3丙辰年6月16日)

御神木。

拝殿横の石碑(文化元甲子年8月15日、當村社中、久保田氏建之)

「八幡樹」とあります(當村社中、文化元甲子年8月15日久保田氏建之)。

更にその裏の碑。

本殿横になります。
う~ん…彌栄…読めません。
こちらは注連縄&状態で読めません。

太神命?

山神堂。

馬頭観音堂。

















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