秋田県北秋田市阿仁銀山下新町。一心山圓信院専念寺。
(浄土宗)一心山圓信院専念寺…『京都知恩院末寺であり、もと真木沢銅山お台所付近にあったといわれ、元和2年(1616)現在地に再興された寺所有の土地は現在の阿仁合駅付近までの広大なものであったが、これを秋田藩主に上納し、その代償として五本骨違い輪の定紋を拝領し、以後当寺の定紋となった。山門は、椙野庄左衛門という人が大阪から来て京都知恩院の山門を形取って元禄6年(1693)建立した。〇専念寺山門(町指定文化財)〇大坂屋彦兵衛の墓石(町指定文化財)この墓石は北前船で阿仁から大阪へ金銀銅を運んだもどり船で運ばれたもので、大阪御影石が使われ建立は、元禄2年(1689)とある。阿仁町観光協会』

パンフレットより…『浄土宗のお寺で、元和2年に現在の場所に再興され、宝暦3年に浄土宗総本山である京都の知恩院から山号と寺号の額を拝領しました。【山門(市指定文化財)】元禄6年(1693年)に京都の知恩院(国宝)の山門の形をとって建立された山門です。 』
パンフレットより…『【専念寺】開山年不明。もとは真木沢鉱山お台所付近(ガソリンスタンドの奥)にありましたが、1616年に現在の場所に再興されました。浄土宗の寺院です。総本山は知恩院(京都府)。【山門】1693年に浄土宗総本山である京都の知恩院の三門(国宝、知恩院では山ではなく三を使います)の形をとって建立され、市指定文化財となっています。山門の前に踏切があるため、「山門とすれすれで通過する秋田内陸線」が撮れるということで、写真好きの人が訪れる撮影スポットにもなっています。山門にある家紋は秋田藩を統治していた佐竹家から拝領したもので、専念寺の裏~阿仁合駅の間で阿仁川に面した土地を佐竹家に上納したときのものです。※ただし、まったく同じ家紋(五本骨扇に月丸)にはできないので、丸が2つになっています。【大坂屋彦兵衛の墓石】有力な山師であった大坂屋彦兵衛の墓石で、北前船で大阪から運ばれた瀬戸内海原産の赤御影石が使われています。建立は1689年で、市指定文化財になっています。御影石は大阪へ金銀銅を運んだ船が日本海を北上して戻るとき、船を重たくしてバランスをとるために積んだものといわれており、財力がある者の墓によく使われました。【巨大龍天井絵】畳9畳分になる巨大な龍の絵です。第24代住職の珠井証志氏が平和への願いを込めて自ら描きました。【振り向き如来像】とても珍しい振向いたような姿の如来像で、左足を一歩前に出し顔は右を向けて極端に前傾しています。このように正面を向いていない仏様は全国でもとても少なく、その中でも有名なものとして永観堂(京都府)の「みかえり阿弥陀像(国重要文化財)」があります。永観堂の「みかえり阿弥陀像」は「左向き」「直立姿勢」です。専念寺の「振り向き如来像」は「右向き」「前傾姿勢」です。』

山門(平成4年3月31日町指定文化財・建造物)にある家紋。
パンフレットより…『【巨大龍天井絵完成までの歩み-夢に現れた「巨大龍を描く己の姿」-】畳9畳分にも及ぶ巨大な龍の天井絵。専念寺第24代住職である珠井証志氏が約3年間の構想期間を経て完成させました。なぜこのような巨大な龍の絵が描かれることになったのでしょうか。■龍は"火を防ぐ神獣"…龍はその昔から水神として各地で祀られており、「火を防ぐ神獣」として信仰されていました。また、国宝級の大きな寺院等には必ずと言っていいほど龍に関係した絵が飾られております。専念寺はその昔、寺を全焼するほどの大火に過去3度も見舞われております。そのため、「自分の寺にも、龍の絵を置けないものか」と珠井住職は日夜考えておりました。■夢に現れた自分の姿…龍の絵を購入するため、珠井住職は京都の絵師のもとへ相談に伺いました。しかしながら、あまりに高額であったため、ご檀家さんに迷惑をかける訳には行かないと考えた珠井住職は、絵の購入を断念しました。その日の夜、珠井住職は不思議な夢を見ました。本堂で自分が何かを描いている-。夢から覚めた珠井住職は、自分が龍の絵を書く運命にあることを悟りました。その後開催された専念寺役員会で、「自分が龍の絵を描いてよいか」と持ちかけたところ、役員の皆様に快諾をいただいたことから、自ら龍の絵を描くことを決心しました。■2頭の龍に込められた想い…2頭の龍に込められた想いは、火から寺を守りたいという想いだけではありません。龍の絵は基本「1頭」だけ描かれるのが一般的となっており、1枚の絵に2頭の龍が存在する絵は珍しいとされています。また、龍は日本だけではなく、中国やインド、ヨーロッパなど世界中で古くから伝えられてきた存在ですが、それぞれの国で伝えられている龍の代表的な特徴のひとつに「爪の数」があります。例えば日本式の龍の爪の数は「3本」ですが、中国・インド・ヨーロッパなどの国に伝えられている龍の爪の数は「4本」となっています。(※中国の皇室に伝えられている龍は、ごく稀に「5本」の爪を持っています。)専念寺の巨大龍天井絵の中に描かれた2頭の龍は、宝珠(いかなる願いも叶うとされる玉)を持つ龍の爪は日本式の「3本」、もう1頭の爪は「4本」となっています。珠井住職はこの絵に「日本と世界の国々が、この2頭の龍のように親密な関係になり、世界が平和になるように」という想いも込めました。日本式の3本爪お龍にあえて宝珠を持たせたのは、日本人(自分たち)から世界に平和を発信していきたいという意味なのかもしれませんね。』
パンフレットより…『【振り向き如来像】■振り向き如来像について…専念寺の山門とともに、元禄6年(1693年)に左甚五郎(※江戸時代初期の大工・彫刻師。播磨の人。徳川家の造営大工の棟梁と伝える。日光東照宮の眠り猫、上野東照宮の竜などを彫ったとされるが、伝説的人物と考えられ、その実態は不明。)によって彫られた作と言われている。左足を一歩前に出し、顔は右を向き、極端に前傾したその姿は、全国にも類を見ない。まるで振り向いているようなその姿から、専念寺ではこの如来像を「振り向き如来」と呼んでいる。■当時の時代背景について…振り向き如来像が造られた頃の日本は、江戸幕府による鉱山開発の盛んな時代であった。江戸幕府の設立当初、徳川家康は金銀の採掘量を増加させるため、慶長16年(1611年)に「山例五十三箇条」を制定し、坑夫たちが全国各地で自由に仕事が出来るよう配慮した(※山例五十三箇条が制定されたのは1573年、1588年、1611年の諸説あるが、1611年に正式に制定されたという説が有力となっている)。その結果、全国的に見ても採掘量が多い阿仁鉱山には全国各地から多数の「渡り坑夫」が訪れるようになった。■振り向き如来像に込められた想い…渡り坑夫の中には過去に過ちを犯した者や隠れキリシタンなど、何かしらの理由で故郷にいられなくなった者が数多く存在していたが、阿仁鉱山も例外ではなかった。「振り向き如来像」は極端に前傾姿勢を取っているが、実のところこれは「如来がつまづいた姿」を描写したものではないかと伝えられており、ご檀家さんの間では親しみを込めて「ズッコケ如来」とも言われている。「佛様でもつまづくことがあるのだから、一度や二度の失敗で深く心を病ませることはない。」左甚五郎20代前半の血気盛んな頃の作品と思われるゆえに、あえて佛をつまづかせる事ができたのであろう。彫師である左甚五郎の如来像に込めた想いは、300年という時間を越え、未だなお私たちに語りかけている。』
六地蔵等。

大坂屋彦兵衛の墓(町指定文化財・史跡)
参道。
本堂。
あっ!!












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