秋田県北秋田市阿仁銀山下新町。駅前看板及びパンフレットだけを頼りに阿仁合駅から付近を散歩。ちなみにパンフレットは寺院めぐりが中心だったので、寺院等については別記事にしております。

阿仁合駅は数字の「4」を背中合わせにした独特な形状をしており、これは「北緯40度」を表したとも「幸せ(4合わせ)の駅」を表したとも言われています。
阿仁鉱山の種類(阿仁鉱山には6つの大きい鉱山と向山銀山があります)…『【三枚鉱山】794~864~1916年(小渕の奥)【真木沢鉱山】1260~1917年(ガソリンスタンドの奥)※街から見える【向山銀山】1387~1897年(河川公園の向こう岸の山)※街から見える【二ノ又鉱山】1666~1893年(一ノ又鉱山の右側で、小沢鉱山の奥)【小沢鉱山】1670~1979年(阿仁スキー場方面に入っていったところ)【萱草鉱山】1678~1931年【一ノ又鉱山】1710~1898年(三枚鉱山のさらに奥)』

パンフレットより一部抜粋…『【鉱山のはじまりは?】轟山(三枚鉱山のあたり)で794~864年頃に慈覚大師円仁(最期の遣唐使)が金を発見したことが伝承されています。文献では1387年に湯口内の向山で金銀鉱が発見されたときの記録が残っています。文献では約700年もの歴史がありますが、伝承では約1,200年という長い歴史があります。【阿仁鉱山が全国的に有名になったのはいつ?】1614年(慶長19年)に七十枚金山の開発が始まり、銀山町が造られたことが阿仁地方を激変させました。高額な金山の出現に湧いた銀山町には、1万人規模(2018年6月末現在の阿仁地区の人口は2,727名)の入植者が集まりました。そして1637年(寛永14年)に小沢鉱山が開発された頃から、阿仁鉱山が全国的に有名になっていきます。街歩きコースの中に含まれている善勝寺には小沢鉱山を発見した高岡八右衛門のお墓も残されています。【阿仁鉱山の銅産出量が日本一に!】江戸時代に入り、徳川家康が鉱山開発を推し進めたことで、阿仁鉱山も開発が進みました。鉱山には全国から労働者が集まり、阿仁の人口も爆発的に増えました。また、1668年(寛文8年)に幕府は銀の輸出を禁止し、銀から銅へ輸出品を変換するため、銅の開発を奨励しました。1700年代に二ノ又鉱山、一ノ又鉱山が次々と開発され、1716年(享保元年)に阿仁鉱山の銅の産出量が日本一になりました。幕府が鉱山開発をすすめた結果、全国から収入のいい仕事を求めて坑夫が集まり、それに合わせて色々な宗派の寺院も建立されたため、この地域には宗派の異なる寺院が5つも存在しています。【阿仁鉱山に外国人技師が来日】明治時代には、日本政府が国を豊かにするために西洋の技術や学問を取り入れ、殖産興業に力を入れていきます。そのため、海外から産業・法律・医学など幅広い分野で多くの外国人有識者を招聘しました。阿仁鉱山には1880年(明治13年)にドイツ人技師メッケルらが来山し、その時に建てられた官舎の一棟が国の重要文化財に指定されています。【阿仁鉱山の衰退から閉山まで】1893年(明治26年)の二ノ又鉱山の閉山を皮切りに次々と鉱山が閉山していいきました。1933年(昭和8年)に金山が発見され、阿仁鉱山は一時的に賑わいを取り戻しました。しかし、銅の産出が主力であることは変わらず、時代が進むにつれ世界的に銅の産出量が飛躍的に増加し、銅の価格低下が進んでいきました。そして1978年(昭和53年)に阿仁鉱山は閉山することとなりました。』
こちらは秋田内陸線の阿仁合駅の駅舎内です。観光駅であり構内には本格洋食が味わえるレストランこぐま亭や各種お土産、内陸線グッズを販売しています。森吉山ウェルカムステーションであり森吉山阿仁ゴンドラを訪れるお客様をご案内しています。

パンフレット「産銅日本一を誇った阿仁鉱山 阿仁の街歩き完全ガイド」より一部抜粋…『阿仁合駅は秋田内陸線の拠点駅です。駅舎内では北秋田名物の「バターもち」をはじめ各種お土産や内陸線グッズを販売しています。【レストランこぐま亭】駅舎内のレストランで、阿仁合名物の馬肉を本格的な洋食にアレンジした「馬肉シチュー」が絶品。』

稲庭醤油らーめんと担々麺。稲庭ラーメンは初めて食べましたが…麺うまっ!うどんもそうめんも中華そばもおいしいのね。


『阿仁合町についてです。明治30年~昭和30年の北秋田郡の自治体名。明治22年4月1日、町村制施行により北秋田郡阿仁銀山町・小様村・小淵村・水無村・吉田村と、一ノ又鉱山・二ノ又鉱山・三枚鉱山・小沢鉱山・萱草鉱山が合併して阿仁銅山村が発足。明治29年に北秋田郡荒瀬村の一部を編入。明治30年1月21日、町制施行し名称を阿仁合町に改称。昭和12年4月1日に荒瀬村より荒瀬本郷・鍵ノ滝地区を編入。昭和30年4月1日、北秋田郡大阿仁村と合併し阿仁町を設置して消滅。明治39年の戸数1,400・人口8,900。大正6年の人口1万1,300、不況期の同12年4,928人と鉱山の消長はそのまま町の消長でした。昭和11年国鉄阿仁合線が全通し阿仁合駅が開業。同30年大阿仁村と合併、阿仁町成立、大字は同町の大字に継承。』・『水無についてです。「みつなし」ともいい、三梨とも書きました。阿仁川沿いの台地上に位置。銀山・真木沢鉱山が東側にあります。江戸期の水無村は出羽国秋田郡阿仁小猿部のうち。秋田藩領。村高は「正保国絵図」本田当高66石余、「享保黒印高帳」村高82石余・当高49石余(うち本田34・新田15)、「寛政村附帳」当高71石余(うち蔵分71)、「天保郷帳」49石余。天文年中に梅村市兵衛が開拓したといわれますが村高は少なく変化も少ないです。戸数は享保年中130軒、寛政年中200軒。枝郷は湯口内村・露熊村で、元は合わせて一村であったといいます。当村は銀山町と連続し、鉱山町といっていい村です。消長は鉱山の経営状態に大きく影響され、「水無村之義古来より、家業者商売又は御物成米宿其外小商駄賃等渡世ニ仕罷有」とあり、鉱山外の運送に従事する者と、鉱山労働者・銅山方を相手とする諸商売の者が多かったようで酒屋が14軒あったといいます。また、宝暦14年には村民が農民をも含めて銀山町に大きく移動しました。鎮守は伊勢・観音・天神の三社。明治初期小淵村ほか4ヶ村と連合。明治22年北秋田郡阿仁銅山村の大字となります。明治30年からは阿仁合町、昭和30年からは阿仁町の大字。』・『小様についてです。小猟とも書きました。阿仁川の支流小様川に沿い、小淵の東隣に位置。地名は川名に因ります。江戸期の小様村は出羽国秋田郡阿仁小猿部のうち。秋田藩領。開発は天正年間からといわれますが、明和年中以前は小淵村の支配下にありました。「享保黒印高帳」村高75石余・当高49石余(うち本田41・新田8)、「寛政村附帳」当高60石余(うち蔵分60)、「天保郷帳」49石余。寛政年中の戸数20軒。向林村の名が枝郷として見られます。近隣の村々と同様、阿仁銀山の麓村としてすべて蔵入地になり、山林は木山方に属しやはり鉱山用として切り出されました。鎮守は皇城神。明治初期水無村ほか4ヶ村と連合。明治22年北秋田郡阿仁銅山村の大字となります。明治30年からは阿仁合町、昭和30年からは阿仁町の大字。』・『小淵村についてです。阿仁川右岸の低湿地に位置。江戸期の小淵村は出羽国秋田郡阿仁小猿部のうち。秋田藩領。村高は「正保国絵図」本田当高136石余、「享保黒印高帳」村高66石余・当高55石余(うち本田54・新田1)、「寛政村附帳」当高74石余(うち蔵分74)、「天保郷帳」55石余。享保年中も寛政年中も戸数は19軒で変化はありません。村高はほんのわずかずつ増加しますが阿仁銀山の周辺村としてすべて蔵入地にされ、山林もまた同様でした。鎮守は稲荷。明治初期水無村ほか4ヶ村と連合。明治22年北秋田郡阿仁銅山村の大字となります。明治30年からは阿仁合町、昭和30年からは阿仁町の大字。』・『吉田村についてです。阿仁川の右岸台地上に位置。対岸は小淵。風張村ともいいました。風張城の松橋刑部の祖が播州吉田の出であるといいます。江戸期の吉田村は出羽国秋田郡阿仁小猿部のうち。秋田藩領。元禄7年の検地。村高は「正保国絵図」では風張村として本田当高180石余。その後、元禄7年に吉田村と改称。「享保黒印高帳」村高197石余・当高162石余(うち本田151・新田11)、「寛政村附帳」当高174石余(うち蔵分174)、「天保郷帳」162石余。享保期の家数は30軒、寛政期に34軒とあまり変化はありません。天保12年吉田堤、同14年阿仁川の水利を図っての開田などに力が注がれました。枝郷には折渡(織渡)村があり、湯口内・長之町両村も支村であったようです。阿仁銀山の麓村としてすべて蔵入地にされ、文化年間木山方の管轄となり、銅山の留木薪炭の供給地でした。鎮守は八幡。明治9年折渡村は分離、吉田村(上小阿仁村)に属します。明治初期水無村ほか4ヶ村と連合。明治22年北秋田郡阿仁銅山村の大字となります。明治30年からは阿仁合町、昭和30年からは阿仁町の大字。』

阿仁鉱山…『北秋田郡阿仁町阿仁川中流にある歴史的鉱山。鉱区は阿仁町の北半。鉱山事務所は国鉄阿仁合線の阿仁合駅近く、銀山にあります。鉱床は典型的脈型、鉱石は黄銅鉱・赤鉄鉱・自然金・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・斑銅鉱・黄鉄鉱・重晶石・方解石・石英などで、主に金・銀・銅を産しました。鉱山名は地域名に由来。開発は天正3年、西対岸の向山銀山に始まります。慶長年間には糠内沢の支流板木沢の金銀、九両沢の一部七十枚などの金で栄え、元和3年には三枚・三両間歩も開坑。寛永・寛文の頃には、既に麓に銀山町が発達、人口は1万に達しましたが、鉱床の上部は掘り尽くされていました。寛文10年に至り、大坂の商人北国屋の手代高岡八右衛門が比内・阿仁地方を探鉱し、極印沢の近くに小沢鉱床を発見して以来、銅山としてにわかに発展、その後、延享元年までに真木・大沢・萱草・天狗平・三枚・二の又・一の又を加えて発展を続けました。大坂の北国屋の経営下にあった小沢鉱山は元禄15年秋田藩の直営となり発展、大坂廻銅は140万斤にも達し、輸出銅の主流を占めました。天明4年の凶作で一時休山しましたが寛政2年に復活。明治維新後、県営を経て、明治8年工部省の直営となり、同13年ドイツ人メッケル、ライヘル両氏来山、同15年新式製錬所を開設、同18年古河市兵衛に払い下げられました。古河市兵衛は経営の合理化を進め、下部の採掘、運搬・動力の施設、選鉱場の改善などを行い、鉱山事業は進捗し、阿仁町は活気を呈しました。しかし、昭和6年鉱量尽き休山。同8年廿四孝の山頂近くで緑泥石赤鉄鉱脈を発見、阿仁金山として復活。第二次大戦中は再び銅山として継続されました。戦後一時採掘を中止しましたが、廿四孝の下部のほか、芝森方面の引割坑奥に銅鉱脈を発見し、小沢に選鉱場を設け、銅精鉱・硫化精鉱を産出しましたが、近年鉱況振わず休山中。なお、鉱山事務所隣りにある異人館、事務所所蔵のメッケル報告書(写)などは貴重な鉱山資料となっています。』
駅前にある阿仁合まちあるきぶらぶらMAP。
小さな店まですべて網羅されているようなMAP。
方向音痴なので適当にエッホエッホしています。
旧宮越家。
かなり限定されたタバコの販売機。きっとこれで間に合っているのでしょう。
っていうか…鍵っ!!笑
明治~昭和にかけての『鉱山施設と阿仁合駅周辺』看板
眺望。
以下、【阿仁鉱山年表】
延暦13年~貞観6年(794-864)…轟(ドドロ)山(元三枚)で金の発見(慈覚大師円仁)(伝承)
文永の頃(1260)…板木沢金山が開山 (伝承)
嘉慶元年(1387)…湯口内の向山に金銀鉱(向銀山)を発見(佐々木重右衛門ほか15名)
文正元年(1466)…向銀山に山神社が創立
天文元年(1532)…松橋氏が風張城を築城。その二年後、風張(吉田)に福厳寺が創立(のち水無に移転)※戦国時代には、湯口内の銀山を支配する風張村の松橋氏と、阿仁川を挟んで、板木沢の金銀山を支配する小渕村の高田氏が、阿仁の地でせめぎあっていました。この2つの銀山が阿仁鉱山の発祥で、当時から隆盛していました。
天正元年(1573)…水無に神明社が創立。小渕に高田寺(のちの耕田寺)が創立(のち荒瀬、今は高屋渡に移転)初代高田城主右馬之丞が建立、高田城の築城もこの頃)
慶長元年(1596)…銀山町に善勝寺が開基
慶長7年(1602)…佐竹氏が秋田に入部。鉱山は山師(商家)の請負制
慶長19年(1614)…七十枚金山の開発(板木沢銀山の山師13名が中心)。板木沢銀山、湯口内銀山(のち向山銀山)を休山。土倉山(鉛)を直山とし、石かね奉行を置く。水無村を分割し、坑夫長屋の町割り(銀山町新町、1万人規模)をおこなう※慶長19年、七十枚金山の発見は、阿仁地方を激変させました。七十枚の語源は、30日間鉱山を掘るときの運上金(税金)が、大判70枚(700両)の契約と云う意味です。破格の金山の出現に湧いた阿仁では、水無村を分割して銀山町が造られ、ここに1万人規模の入植者が集まりました。
元和4年(1618)…七十枚山のわきあがり(盛り立て?)を開発
元和6年(1620)…三枚三両山(金)を開発
寛永2年(1625)…板木沢銀山を再開※70枚の運上金も1年も続かず、急激に金山は衰退し、山師も逃げていきました。そこで藩は、休止していた2つの銀山を再開させ、金山の開発と併存させました。
寛永5年(1628)…湯口内銀山を再開
寛永14年(1637)…小沢銅山(極印沢)を北国屋が開発※幕府は、国内流通用の銀を保つため、銀の輸出を禁止し、外国との交易品を銅(御用銅)としました。国内では、銅山の開発が進められ、阿仁にも関西の商人たちが、銅の開発に進出し、阿仁は銅山として繁栄してゆくことになりました。
寛文6年(1666)…大沢山(金)を越後惣助が開発
寛文7年(1667)…三枚銅山を大坂屋が開発
寛文8年(1668)…幕府が銀の輸出を禁止
寛文12年(1672…)萱草銅山を鴻池が開発
元禄14年~正徳5年(1701-1715)…幕府は大坂に銅座を設け御用銅を管理
元禄15年(1702)…阿仁の主な鉱山を藩の直営(直山)とする※幕府は各地の粗銅を大坂の銅座に集めて精錬し、長崎御用銅として外国との交易品にしました。秋田藩では、阿仁の各銅山の経営を商人の請負から、直営とし、管理を強化しました。その後、国内の銅生産が伸びないため、御用銅を廻銅として、大銅山を有する藩に出荷量を割り付けました。
宝永3年(1706)…真木沢銅山を泉屋が開発
宝永4年(1707)…二の又銅山を長井氏および中村氏が開発
宝永7年(1710)…一ノ又銅山を長井氏および中村氏が開発
享保元年(1716)…秋田藩は長崎御用銅(廻銅)として阿仁の170万斤の銅を割付。阿仁の鉱山の産出量が日本一となる
享保年間(1716-1735)…大覚野峠の開発(仙北から廻米)
寛保2年(1742)…九両山(金)を開発(3年間)
明和2~4年(1765-1767)…この時期の御山師5名(領内の商人)に全銅山を請負
安永4年(1775)…二ツ井に加護山製錬所(吹分所)を建設、運営は大坂屋の請負
寛政3年(1791)…倹約と規制強化を旨とする経営改革(寛政の銅山改革)※阿仁の銅の生産量が減少したため、藩では倹約的な経営を試みましたが、増産には結びつきませんでした。結局、これまで信頼関係にあった大坂屋に、阿仁の全山および加護山製錬所・太良鉱山等、銅生産の全てを請負わせることにし、経営は持ち直しました。しかし、明治以降は、大坂屋はすべての商売を廃業しました。
文化元年(1804)…阿仁の全ての鉱山を大坂屋の請負
文化7年(1810)…加護山製錬所を藩の直営
天保2年(1831)…ひ吹法の開発(床屋・吉田又三郎が真吹を必要としない省エネ法を発明)
明治8年(1875)…明治政府の官営となる
明治13~14年(1880-1881)…メッケルらドイツ人技師5名が来山※メッケルの行った鉱山改革は、三枚と真木沢の鉱石を小沢に集約させ、選鉱と製錬を一元化することでした。メッケルの計画は明治17年に完成し、三枚の天池坑から小沢を抜け、水無の製錬所に繋がる軌道が完成しました。この後、坑内で繋がった阿仁の各鉱山は、小沢鉱山に集約されていきました。
明治17年(1884)…水無製錬所の完成。三枚通洞(天池坑から小沢鉱山ゆり場脇坑まで)完成。三枚通洞から水無製錬所まで貨車軌道を敷設
明治18年(1885)…古河市兵衛に阿仁六ケ山と向山銀山を払い下げ
明治26年(1893)…二の又鉱山の閉山
明治30年(1897)…向山銀山の閉山
明治31年(1898)…一ノ又鉱山の閉山
明治35年(1902)奥羽本線(大館−秋田)が開通
大正3年(1914)…小沢選鉱場の建設(大正坑付近)※19世紀の終わりに、浮遊選鉱法が発明され、低品位の銅鉱床でも生産が可能となりました。その結果、アメリカ、南アフリカ、オーストラリア等の大規模鉱山が開発されていき、日本の銅は市場から押されていきました。
大正5年(1916)…三枚鉱山の閉山
大正6年(1917)…真木沢鉱山の閉山
昭和6年(1931)…小沢鉱山の休山
昭和8年(1933)…二十四孝鉱山(金)の開発および小沢鉱山の操業再開※小沢鉱山の休山後、古河林業の立石氏が独自に探鉱し、二十四孝山から金鉱を発見しました。この金山によって、阿仁鉱山は銅山としても復活しました。当時、秋田鉱山専門学校の渡辺萬次郎教授も、この金鉱床を調査したようです。
昭和10年頃(1935頃)…旧金銀山のカラミ採りが盛んに行われる
昭和11年(1936)…阿仁合線(阿仁合−鷹巣)が開通
昭和13年(1938)…(新)小沢選鉱場の建設(現在場所)
昭和45年(1970)…古河鉱業(株)阿仁鉱山を休山、のち阿仁鉱山(株)が設立※1960年代、世界の銅生産国は銅鉱山の国有化を始めたため、石油メジャーが銅鉱山の開発に乗り出し、世界の銅生産量は飛躍的に増大し価格が低下していきました。
昭和54年(1979)…阿仁鉱山(株)を閉山


















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