岩手県久慈市長内町第35地割。久慈湾の諏訪公園に鎮座しております。古文書によりますと文治5年(1189)、源義経追討の将畠山重忠公の創建と伝える社です。久慈みなと祭りは当神社を中心に行われるそうです。
社号標「諏訪神社 由緒 建久四年、南部光行公勧請 奉納平成十二年十二月吉日 枇杷辰蔵」

昭和八年津浪記念碑…『大津浪くゝりてめげぬ雄心もていざ追ひ進み参ゐ上らまし 英彦』

裏面碑文…『噫昭和八年三月三日午前二時半俄然激震と共に津浪の襲來に遇ひ全漁村乃被害甚大にして溺死者拾名負傷者五名損害額十二万円事畏くも叡聞に達し本村の邊陬に迄待従を御派遣慰恤あらせらる誠に感銘に堪へず又全國民乃同情歙然として集る茲に村民奮励努力以て災後の復興を誓ふ 朝日新聞の同情義捐金に因り建設 昭和十一年三月三日 長内村長 中野芳樹 小田天山書』

ちなみにここまでの写真は車も通れる北方の参道。以下、久慈港諏訪下防波堤灯台(久慈湾・太平洋側)からの東方の参道。


鳥居。
諏訪公園(通商産業省所管工業再配置促進費補助事業施設・昭和53年2月竣工)

久慈市指定文化財…『有形文化財 諏訪神社の絵馬 竜宮図 志度之海士図 諏訪神社に奉納されています。昭和60年8月1日指定 久慈市教育委員会』

伝説義経北方コース…『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189年)四月、平泉の高館において三十一歳を一期として自刀したが、短くも華麗だったその生涯を想い人々は"義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た"という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説の一つに"平泉を脱出した義経主従の追補を命じられたのが畠山重忠であったが、落ちゆく義経に同情した同人はわざと矢をはずし義経を助けた"と伝えられている。その時、松の木にあたった矢を神体として祠を建てたのがこの諏訪神社のはじまりであるという。久慈市』

諏訪神社…『平安時代の武将、源義経にゆかりのある神社です。諏訪神社では、畠山重忠が義経を射るために放った矢を奉納しています。矢は、義経を外れ、松の木に刺さったものと言い伝えられています。』

久慈港起工之碑(昭和31年7月17日、久慈市長山内堯文)

長内正太郎顕彰碑(岩手県知事千田正書)

階段。

長内は久慈湾の西部に位置。長内川下流の南部及び支流小屋畑川の流域を占め、東は久慈湾に接しています。水利の便がよく肥沃。昭和27年地内二子の工事現場で縄文晩期の遮光器土偶(30cm大)が完全な状態で出土(東北地方では2体目)。室町期に見えるおさな井は久慈郡のうち。「永正五年馬焼印図」(古今要覧稿)に「おさな井 印一遠雁并雀 雁の図別紙に有 引付ともいふ大なる大文字 次に耳しるしの事 右の耳身を副 三刀きり」とあります。室町期、長内の牧から京進された馬の焼印・耳標のことが知られます。長内(小山内)氏ははじめ南部氏の家臣にして異聞録に「右京亮光信を津軽に遣はす際、附従ふ」とあり、一統志には「元亀二年五月、南部高信自害しければ、為信公、此競に乗じて、小山内讃岐守を討取べし」とあります。讃岐の親を永春法師といいます。長内の蛭子神社には室町期文明13年の棟札があります。「奉造栄金峯山社壇一宇」として「大檀那南部信濃守嫡子右京助久信」の名が見えます。同じく薬師堂の元亀2年棟札にも「大檀那源朝臣南部内信濃守信長」「小檀那小山朝臣小山内六郎」の名が見えます。薬師堂西光寺は「大同二年田村将軍建立」とされています(九戸地方史)。
江戸期以降の長内村は九戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。寛文5年から久慈通長内名主組に属します。村高は正保郷村帳316石余(田171石余・畑144石余)、貞享高辻帳376石余(田215石余・畑161石余)、元禄10年郷村御内所高帳630石余、天保郷帳639石余、旧高旧領487石余。地内の諏訪神社は建久4年の勧請、貞享2年の建立、享保2年の再興。蛭子神社は寛永2年の建立と伝えますが元亀13年の棟札を所蔵。元禄5年薬師堂が鳴動しました。宝永2年当村小久慈通に狼が出没したため鉄砲の拝借を願い出ています。宝暦2年久慈二子浦与平次は塩2斗入15駄・干鱈700枚を八戸湊へ積み出すことを願い出ています。同6年3月には飢饉で困窮したため大尻・二子の百姓たちが味噌80貫を藩から拝借。明和元年二子浦長十郎が白粕(魚粕)36俵を積み出すことを願い出ています。安永7年久慈・大尻の百姓たちは困窮を訴えて稗15石の拝借を願い出ています。寛政7年当村の虫害は2割に及んでいます。明治4年八戸県、以後弘前県、青森県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年南九戸郡に属します。明治8年私学長内小学校、同10年長内小学校、同11年坂下小学校がそれぞれ開校。同12年の村の幅員は東西2里・南北1里12町、税地は田115町余・畑224町余・宅地23町余など計383町余、戸数235・人口1,310(男658・女652)、牛125・馬262、舟41、小学校の生徒44(男子42・女子2)、神社3(諏訪神社・蛭子神社・稲荷神社)、他に久慈湊があり、職業別戸数は農業213・商業3・工業16・神官3、物産は牛・馬・鯣・米・稗・大豆・小豆・粟・清酒・麻糸・昆布、地味は全村黒土で、極西部の長内川両岸は上・中位ですが水災の患があり、他は下位に属すといいます。明治22年長内村・久慈町の各大字となります。はじめ南九戸郡、明治30年からは九戸郡に所属。長内村の一部と小久慈村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。役場を長内に置いています。日清戦争による死者1・日露戦争による死者6。明治29年の三陸大津波による死者127。大正5年の戸数534・人口3,764、田150町余・畑386町余・山林3,358町余、職業別戸数は農業420・漁業78・商業3・工業1・自由業10・その他22、物産は米2,683石・大豆1,148石・小豆8石・粟162石・稗5万6,010石・黍8石・蕎麦19石・馬鈴薯5万2,580貫・大根9万500貫・繭42石・丸太及角材2,000尺貫(2,400石余)・薪5,900棚・炭20万7,000貫(5万1,700俵)、漁獲高6,487円、家畜頭数牛70・馬468・鶏1,150。昭和元年松方正義が久慈地方の砂鉄採掘を行っています。昭和5年の世帯数653・人口3,938、田170町余・畑424町余。同8年の大津波では全戸数680のうち流失2、人口4,091のうち死者5。同14年の世帯数814・人口4,872。第二次大戦による死者115。同22年長内中学校開設、同27年町制施行。長内は村制時の2大字を継承。昭和29年の世帯数1,229・人口6,810。同29年久慈市の一部となり、町制時の2大字は同市の長内町・小久慈町となります。

諏訪公園。

到着。
久慈みなとまつり30年記念碑(惣一郎書・昭和57年8月16日建立)

岩城惣一郎顕彰之碑(岩手県知事中村直書)…顕彰の記『今、我が古里久慈は戦後四十有年、地域住民は幾多の苦渋辛酸と斗魂を秘めながら今日の郷土を培った。茲に、戦後住民から敬愛された岩城惣一郎翁の稀有なる功績を偲び讃えんとするものである。翁は大正五年九戸郡長内村に生誕、県立久慈農学校卒業し農業に従事、若冠二十三歳で長内村産業組合専務理事六年の間兵役に服す。昭和二十二年公選長内村長当選昭和二十七年町制施行し町長、昭和二十九年久慈市制の初代助役、昭和三十年岩手県議会議員当選し七期二十八年県勢発展に貢献する。その間、長内町土地改良区理事長当時は開田事業など土地改良に努力、久慈港堀込事業に情熱を傾け、道路網整備に力を注ぐ。更に、市内高校誘置の先頭に立ちこれを実現するなど顕著な業績を挙げる。久慈市農業協同組合長理事八期二十四年務め、「南部まむし」を特産に全国に大反響を呼ぶなど豊な発想は人々の心をひきつける。翁は剛毅果断反骨人間愛の人として信頼をうけ昭和四十六年藍綬褒章、昭和六十二年勲三等瑞宝章に輝く。翁の業績を後世に残すため顕彰之碑を建立する。揮毫の中村直岩手県知事とは兄弟分の盃を交し四十年に及び親交によるものである。 平成三年七月 久慈市農業協同組合・下長内共有地総代会』


眺望。
参道鳥居。
慰霊碑(日本遺族会相談役・参議院議員 板垣正書。昭和59年8月15日建之、遺族会顧問 細田慶次郎・会長 下嶽泰昭・外会員一同、篤志者名:下嶽泰昭、日當ナン、廻立末吉、廻立市太郎、室谷勝美)

石灯籠一対(諏訪神社郷土芸能まつり15周年記念、平谷トキ書)


一服。

石灯籠一対。


手水石(寛保3癸亥年)
狛犬一対(天保4巳6月吉日7月、願主中野嘉右エ門)
社殿前より参道を振り返るの図。
社殿。
久慈市指定文化財「諏訪神社本殿・拝殿」(附棟札13枚)…『諏訪神社は、九戸地方では最古級の木造建築物であり、優れた彫刻が随所にみられ、残存状態も良好で、当地方の社寺建築史を知るうえで貴重な建築物です。享保2年(1717)から13枚の棟札が残っており、建築の年代は拝殿は寛政3年(1791)本殿は安政3年(1856)の棟札で示されています。神社には、市内最古の絵馬である享保19年(1734)銘の「諏訪大明神」額や、久慈市指定文化財である享和2年(1802)銘の「竜宮図」・江戸時代の「志度之海女図」などの一級資料が納められています。〇指定年月日:平成12年6月1日〇年代:拝殿寛政3年(1791)本殿安政3年(1856)平成13年3月30日久慈市教育委員会』

拝殿向拝神額(納主神田武男)

御祭神は健御名方命。例祭日7月26日。

由緒…『文治5年(1189)源義経追伐の将、畠山重忠公の創建。建久2年(1191)南部藩祖南部光行公の勧請。久慈市長内町の高台に鎮座し、古くから氏神様として当地方の信仰を集めている。南部藩主が代参を遣わしたいう記録もあり、南部家と縁のあった神社であったことを偲ばせる。また海上安全の神としても各地域からの信仰を集め、江戸時代、この地を通った商人などが納めた絵馬も残されている。』


拝殿内(龍宮図・志度之海女図)
パンフレット「久慈市長内町鎮座諏訪神社」より…『【由緒】建久4年、南部藩祖南部光行公が、この地方をおさめた際、三戸と久慈に「健御名方命」を御祭神とする諏訪神社を勧請した。しばしば南部藩主が、代参を遣わすなど、南部家とゆかりのある神社であったことをしのばせる棟札などが残っている。古くから氏神様としてこの地域の人々の信仰を集め、また海上安全の神として各地域からの信仰も厚い。【祭典】7月26日例祭・7月下旬御輿海上渡御・11月23日新嘗祭・12月31日年越し祭【久慈市指定文化財】本殿:安政3年(1856)・拝殿:享保2年(1717)・竜宮図:享和2年(1802)・志度之海女図:江戸時代中期等、平成12年6月7日指定』


境内社。


稲荷社。

『奉造立土公稲荷大明神寶殿一宇太守公御武運長久祈攸 大行事大梵天年 小行克帝釋天王 于大正十一年壬戌年未五月十日行』※自信なし。下部も微妙に読み取れず。


駒形神社。

駒形神社(大正15年6月19日)

社殿向かって右に社務所。
社務所前。
うん?
大集合していました。
子猫もたくさん。
久慈港付近にある喜多八食堂(久慈市長内町第37地割)さんへ。

がんこカーチャンのこだわり定食…

あっさりラーメンかと思ったら、かなり濃厚な味わいのラーメンでした。がんこカーチャンのこだわりを感じます。

ウニはまだ生が無かったー!































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