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岩手県北上市和賀町岩崎27地割。和賀川と夏油川の合流点東方の水田地帯に鎮座。和賀川に架かる和賀新橋の近くです。県道302号前沢北上線沿いに鎮座しておりますが、神社入口は県道より1本西にある道沿い。写真は県道302号前沢北上線沿いにあった鬼ッズロード(広域農道)の看板。
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インパクトあるー!
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夜だと絶対怖い!
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岩崎二前神社。
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鳥居(大正10辛酉年旧3月5日)
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石塔群。三峯神社(文政)、庚申塔(慶應元年)など
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岩崎は北上盆地のほぼ中央部、和賀川に合流する夏油(げとう)川流域に位置。南西方向には奥羽山脈の高山が連なります。平坦地は2つの川の沖積地と金ケ崎段丘面上に広がっており、南西部がやや高く、北東へ緩やかに傾斜。夏油川西岸段丘は岩崎新田・法量野へ続く扇状地、東岸段丘は六原扇状地の縁にあたり段丘崖の比高は30~40m。夏油川上流に3つの瀬目峡谷があり、国民保養温泉指定の夏油温泉や瀬美温泉が湧いています。また水源の1つに三角沼があります。地名の由来は和賀川と夏油川が合流点を移動しながら段丘崖を浸食した結果、舌状に残った台地の先端の形状を岩の崎と見立てたといいます。また、一説では坂上田村麻呂に従った岩崎翁の開拓した土地に因むとも伝えます。地内に梅ノ木遺跡(平安中期以降の竪穴住居跡・墳墓14基)や岩崎城跡など考古遺跡が多く見られます。
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南北朝期の岩崎は和賀郡のうち。岩崎の中心は古くは梅の木付近で、和賀氏系図(鬼柳文書)によりますと鎌倉期の和賀景行(入道行仏)が譲得した所帯の中に「室対郷」「江釣神田」「梅木郷」が見えます。下って暦応4年(興国2年)南朝方の北畠顕信に「岩崎楯」が攻められ、北朝方の鬼柳清義が討死したといいます。戦国期になると和賀一族の岩崎氏の居城となります。天文22年に和賀義忠が二子城より岩崎城に移ったともいいますが定かではありません。天正18年の豊臣秀吉の奥州仕置に反発した和賀稗貫一揆の鎮圧後、岩崎城は破却されることとなりましたが、慶長5年の和賀主馬の一揆で修復されてその拠点となっています。南部利直の一揆鎮圧後は城代として柏山明助が入部。なお、永禄元年の和賀氏検地目録では、岩崎村は「五百八十石」と見えます。岩崎城は夏油川が和賀川に合流する西岸の比高約30mの先端部に立地。台地上は南北4郭からなり、台地西側下に城内、台地上の郭外に組小路という家臣の屋敷跡があります。全体で東西600m・南北300m。中世豪族和賀氏とともに滅びました。最後の城主は岩崎弥右衛門で和賀義翁の四男と伝えます。また、岩崎合戦の際に南部利直が本陣を置いた七折館は岩崎城の南西の夏油川の左岸の段丘上にあります。西と南に空濠をもつ方形の館で東の斜面に腰郭があります。地内に白鳥神社・八幡宮・駒形神社や鎮守岩崎二前神社(もと深山権現)があります。曹洞宗福寿山泉徳寺はもと専徳寺と称しており、文禄3年蘭叟良芝の開山で慶長5年火災に遭って現在地に移り改称したといいます。七折の砥石仏は中世の石塔婆。
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江戸期の岩崎村は和賀郡のうち。盛岡藩領。鬼柳通に属します。慶長5年和賀忠親により岩崎一揆が起きています。花巻城の夜襲に失敗した忠親は岩崎城に籠りますが、南部利直に攻められて翌6年に落城、仙台に奔り自害。七折館・兵庫館跡は岩崎城攻めの際の南部方の陣場跡といいます。慶長6年に柏山明助が岩崎城代となりますが、寛永元年南部利直によって毒殺され、まもなく柏山家は断絶し岩崎城も廃城。地内梅の木にあった正雲寺は柏山家の菩提を弔うために折居宮内(明助の子)が建立した寺であり、墓地跡には伝柏山平左衛門の五輪塔があります。柏山明助は本貫地である更木村に500石のほか、山口・煤孫・岩崎村に500石の計1,000石を知行。村高は正保郷村帳509石余(田462石余・畑46石余)、貞享高辻帳598石余、邦内郷村志2,033石余(うち給地133石余)、天保郷帳1,133石余、安政高辻帳909石余、旧高旧領1,721石余。なお、邦内郷村志では当村とは別に夏油村12石余及び延宝6年に当村から分村したという岩崎新田209石余が見えます。夏油村・岩崎新田ともに郷帳類では当村の内に含まれており、岩崎新田は本枝村付並位付では当村の枝村として見えています。但し、岩崎新田は旧高旧領では当村とは別に独立した村として記されており、明治初年には独立していたものと考えられます。享保2年検地では村高1,426石余で、当村に知行地を持つ給人は坂水又七28石余・鈴木伝左衛門27石余など七氏。邦内郷村志によりますと家数148、うち岩崎112・七折5・夏油7・宿7・城内4・中島13、馬数278、他に新山権現・八幡社・駒嶽権現・梅木天神、曹洞宗泉徳寺・正雲寺が見えます。本枝村付並位付によりますと位付は上の上、家数は岩崎新田を含めて187、集落別内訳は本村120・七折6・蒲沢3・夏油18・宿9・城内4・中島12・新田14。南西・南東部の台地は痩地で水利にも恵まれませんでしたが、沖積地は沃地で田作が中心でした。文政4年産物書上帳によりますと特産品は夏油の木の葉石及び、岩崎新田・夏油の起炭で、炭釜御役銭を上納しています。天保8年の御蔵給所惣高書上帳では御蔵高1,568石余(うち川欠高39石余)・給所高77石余。黒沢尻通・鬼柳通では百姓一揆が頻発しており、特に享保16年の鬼柳通4ヵ村の年貢坪役銭反対一揆には当村から78名が加勢、要求は入れられましたが翌17年にかけて過役銭・打直検地などの報復を受けて9軒・39人の逃散者を出しています。この一揆ののち二十日盆には悪魔退散・念仏供養のための岩崎鬼剣舞の伝授が行われています。北部を東西に沢内街道(鬼柳道)が通り、中島と下江釣子村の佐野を結ぶ和賀川渡しを経て花巻に至る岩崎街道が北に通じています。岩崎街道は黒沢尻経由の奥州街道ができる以前の本街道。享保13年下中島に新物留番所が設置され和賀川通船を取締りました。従花巻夏油温泉迄一見記によりますと、夏油温泉へは梅の木から岩崎新田・内畑を経て湯道が通じ、延享4年で4棟の湯治小屋、3ヵ所の湯壼、湯神などがあり、4月下旬から8月下旬まで開湯。また、当村は仙台藩領に接しており、天正19年から寛永19年の藩境塚設置まで争論が続き、その後も元禄年間まで藩境をめぐっての確執が続いています。藩境塚は駒ケ岳の駒堂を起点に三陸海岸唐丹湾に至る約130kmにわたって置かれました。駒堂は煤孫村馬峰観音を慈覚大師が駒ケ岳山頂に祀ったと伝承され、盛岡藩に和賀別当(岩崎村)、仙台藩に伊沢別当(西根村)がそれぞれ置かれ、駒堂の建替は両藩で半分ずつ行っていました。
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明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て同5年岩手県所属。なお夏油川以東の一部は明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年東和賀郡に属します。明治6年蒼前に小学校創立、同11年宮田に移転し分校を久田と門屋に設置、同20年これらを統合して柳田に岩崎尋常小学校を設置。明治11年の村の幅員は東西25町・南北1里14町、税地は田175町余・畑198町余・宅地25町余・荒地12町余など計477町余、戸数221・人口1,238(男629・女609)、牛17、馬172、漁船2、神社4・寺院2、公立小学校岩崎学校の生徒数215(男116・女99)、職業別戸数は農業214、物産は馬・牛・鶏・鶩・鶏卵・鰻・鮭・鮎・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・蘿菔・栗・麻布。同22年岩崎村の大字となります。はじめ東和賀郡、明治30年からは和賀郡に所属。山口・煤孫・岩崎新田・岩崎の4ヵ村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。役場は煤孫に置かれました。戸数・人口は明治22年510・3,546、大正6年554・5,196。昭和30年の世帯数1,543・人口9,559。明治40年和賀軽便鉄道(和賀仙人~黒沢尻間)開通、大正13年国鉄横黒線(北上線)全通。明治25年水沢鉱山が操業を開始し、同40年仙人製鉄所が設立されました。昭和7年相去村六原野(金ケ崎町六原)に県立六原農青年道場(県立六原営農大学校)が開設、関連施設として岩崎農場500町歩が開墾され同10年に完成。生業は米を中心に養蚕・畜産などの農業を主としました。同30年和賀村の一部となり、山口の一部は岩沢・仙人となって4大字とともに同村の大字に継承。同31年和賀町、平成3年からは北上市の大字、和賀町を冠称。明治22年の戸数217・人口1,452、昭和55年の世帯数332・人口1,523(男730・女793)。明治25年岩崎尋常小学校は柳田の岩崎第一尋常小学校(児童数82)、宮田の岩崎第二尋常小学校(児童数59)に分離。以後統合分離、高等科併置廃止を繰り返し、昭和9年岩崎尋常高等小学校(在籍数359)、同16年岩崎国民学校(在籍数417)と改称し、同22年岩崎小学校(在籍数341)となりました。同37年和賀川土地改良区が設立され、湯田ダム用水による和賀中部総合開発事業で201haが開田。農業は比較的耕地面積が多く、米を基幹作物としてキュウリ・ピーマン・アスパラガスなどの蔬菜類栽培や畜産が行われました。民俗芸能では県無形民俗文化財の岩崎鬼剣舞などがあります。
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元は岩崎・岩崎新田・煤孫・山口四ヶ村の郷社。延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷進攻の際、当地を陣屋と定め戦勝祈願し、大那牟遅命・少那毘古名命・八幡大神・多聞天王・弁財天・熊野大神・八坂大神の神々を勧請。社伝によりますと康平5年(1062)源頼義・義家が安倍貞任追討のためにこの地を陣屋とし、二つの石を御神体二柱として奉祀したと伝えます。天正年間(1573-1591)和賀忠親の信仰により当地にあった神々のうち八幡大神を夏油川の西の館に、多聞天王を江釣子村に遷座、また、寛文(1661-1673)頃、奥寺八左衛門が新田開発にあたり、悪病退散の祈願のため八坂大神を横川目村に遷座したと伝えます。
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石灯籠一対(昭和22年かな…)
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手水舎。
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御祭神は大那牟遅命、少毘古名命。
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例祭日10月29日。
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由緒…『桓武天皇の延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため奥州へ下向の際、この地を陣場として戦勝を祈願。康平5年(1062)源頼義・義家が安倍貞任の乱を鎮めようとこの地に下り、大昔から住民が尊崇してきた石を御神体として二柱の神を産土神として祀った。天正年中(1573-1591)和賀郡主社殿を再建、、源頼義・義家公の神霊を合祀し、祖先頼光の弟・多田大和守頼義の後流田村義一を宮城県刈田郡より召し別当とし、深山大権現と改号。明治3年(1870)盛岡県属江刺恒久神社検分、岩崎二前神社と改号。同4年(1871)9月、岩崎・新田・煤孫・山口の郷社。同5年(1872)神社区画改正で村社となる。』
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社殿。
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拝殿向拝神額「深山宮」・木鼻等。
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拝殿神額「二前社」
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少那毘古名命(拝殿の掲額より)…『二前神社では、だいこくさまとの関係の深い、「えびすさま」を二柱としておまつりしています。少那毘古名命という神さまです。少那毘古名命がだいこくさまと一緒に二前神社にまつられているのには理由があります。実はこのおふたりの神さま、手を取り合って国造りをしたお仲間なのです。少那毘古名命が初めてだいこくさまの前に姿を現す場面は、劇的です。だいこくさま(大那牟遅命)が、出雲の岬にいた時のことです。突如、波のかなたより、天之羅摩船(ガガイモというつる性植物のさやでできた船)に乗り、蛾の皮の衣を着た神さまが、漂着しました。ところが、名を聞いても答えません。手を尽くして調べたところ、ヒキガエルと案山子によって、この神さまが高皇産霊尊の子であることがわかります。高皇産霊尊は、天地開闢-世界はじまりの時、最初にお生まれになった神さまのひとりです(造化の三神)。高皇産霊尊に尋ねると、自分の手のひらの指の間から落ちた子だという答えが返ってきました。そして、大那牟遅命と兄弟になって国造りを行なえと命じるのです。お姿は小さいのですが、「天の下の事を知れる神」として、少那毘古名命は国造に邁進します。常世の神、医薬、温泉、占い、穀物、知識、酒造…などさまざまな性質をおもちで、その知恵が大那牟遅命を助けたのですね。夏目漱石の小説「坊っちゃん」で有名な松山市の道後温泉。ここには少那毘古名命の伝説が伝わっています。だいこくさまと少那毘古名命が旅をしている最中、少那毘古名命が急病に苦しみます。だいこくさまが少那毘古名命を手にのせ温泉で温めたところ、たちどころに元気になって踊り出したといいます。これが道後温泉のおこりといいます(伊予国風土記)。このように、だいこくさまこと大那牟遅命とえびすさまこと少那毘古名命のコンビは「古事記」や「日本書紀」以外の文献、伝承に、数多く登場します。それだけ、おふたりで国造りに尽くした、といえるのかもしれません。アイヌ神話にはコロボックル(コリポックルとも)という小さな神さまが登場しますが、実は、少那毘古名命ではないかという説もあります。波のかなたよりやってきた少那毘古名命は国造りが終わると、海のかなたにあるとされる異世界「常世の国」に帰っていきます。えびすさまは今では、商売繁昌、医薬健康、開運招福の神さまとして多くの崇敬を集めています。』
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大那牟遅命(拝殿の掲額より)…『神社におまつりしている神さまのことを「ご祭神」といいます。神社によって、ご祭神もその数も異なります。例えば、二前神社では二柱の神さまをおまつりしています(神さまを数える際は、「柱」、あるいは「座」を用います)。二前神社のご祭神、一の宮は、「だいこくさま」として親しまれている、大那牟遅命です。大那牟遅命は建速須佐之男命(「日本書紀」では素戔嗚尊)の子孫といわれる神さまで、日本(葦原中国)の国づくりを行ないました。そして国土や産業の開発や発展、医療に大きな力を発揮されたといわれています。天照大神の使者がやってくると、大那牟遅命は国を譲ります。「国譲りの神」と呼ばれているのは、このことからです。国を譲る際に、背の高い宮殿を建ててほしいと要望しますが、その結果建てられたのが出雲大社(島根県)だといわれております。出雲大社のご祭神は、大国主大神ですが、この名は、だいこくさまのもうひとつのお名前です。だいこくさまのお話で、一番有名なのは「因幡の白兎」でしょう。因幡国に渡ろうとした隠岐島の兎は、鮫をだまして、隠岐から因幡まで、ずらっと並ばせます。どっちの数が多いか、比べようと呼びかけたのです。兎は数を数えながら鮫の背を渡っていくのですが、渡り終える寸前に「お前たちはだまされた!」としゃべってしまいます。怒った鮫は、兎の皮を剥いでしまいました。そこに通りかかったのが、八上比売に求婚に行く途中のだいこくさまと兄弟(八十神)たちです。先に通った兄たちは、海水を浴びて、風の吹く場所で日に当たれば治る、とわざと嘘をつきます。当然、兎は苦しみます。そこに出くわしただいこくさま。兄たちの荷物を抱えていたので、最後尾だったのです。だいこくさまは、真水で体を洗い、ガマの穂を散らした上で転がれば元通りになると、親切に教えてあげます。喜んだ兎は、「あなたの兄の八十神たちは八上比売を絶対に得ることはできません」と予言します。予言どおり、八上比売は兄たちの求婚を断り、だいこくさまの妻となります。これが「因幡の白兎」のお話です。だいこくさまの絵や像は、必ずといっていいほど大きい袋を背負っていますが、これは、白兎に会った時の姿なのです。現在、だいこくさまは、国土経営、夫婦和合、縁結びの神さまとして崇敬されています。また、祖霊のいらっしゃる幽冥界(あの世)を守護する神さまでもあられます。最も有名なのは、縁結びの神さまとしての一面でしょう。なにせ、須世理毘売命や多紀理毘売命など、何人もの妻(「日本書紀」では六柱)と仲良く暮らし、百八十以上の子ども(神さま)をお生みになったのですから。縁結びは、男女の仲だけのことに限りません。だいこくさまは、現世だけでなく幽冥界の神さまでもあり、この世の一切の縁を取り持っているといわれています。まさにこの世は縁です。仕事も、家庭も、地域も、社会は人と人との出会いで成り立っています。だいこくさまは、すべての人を取り巻くさまざまな"縁"を取り持ってくださるのです。』
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龍神様について(拝殿の掲額より)…『龍神様の本当のお姿は、私たち人間とほぼおなじお姿をなされておられます。そのお姿の時は太陽神として崇拝され、天空を駆けるときなど龍体のお姿の時には、龍神として崇拝されてきたのです。万物を育み、慈しみの心でこの大宇宙を守護いただき、生命の源となっている存在が、龍神であり太陽神であるのです。即ち龍神と太陽神は表裏一体の同一神なのです。』
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岩崎二前神社由緒(拝殿の掲額より)…『祭神は大那牟遅命、少那毘古名命で、ご神体は石である。桓武天皇の延暦二十年に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため、奥州へ下向の際この地を陣場として戦勝を祈願し、大那、少那、八幡大神、多聞天王、弁財天、熊野大神、八坂大神などの諸神を勧請した。然るに将軍賊徒征討にあたり軍馬多数斃死したため、近侍岩崎翁に命じ夏油川西御駒と蒼前、鬼柳の高田御駒の三ヶ所にこれを葬り塚を築かせた。将軍の凱旋帰洛に際し岩崎翁はお暇をこい岩崎に残り、十数年間住民を使って西駒ヶ岳の麓から北和賀の南胆沢郡大清水にいたる一帯の地を開拓した。康平五年源頼義、義家が安倍貞任の乱をしずめようとこの地にくだり、大昔から住民の尊崇してきた石を御神体として大那、少那二柱の神を産土神として祀った。その後、和賀主馬守の信仰により八幡大神を夏油川西舘に、多聞天王を江釣子に移し祀った。寛文・延宝の頃、奥寺八左エ門の新田拓きたてに当たり悪病流行のことがあり、八坂大神を横川目に遷坐し奉った。熊野大神は宮田に、弁財天は相去の大清水に移し奉った。天正年中、和賀郡主社殿を再建されご神託により、岩崎翁、源頼義、義家公の神霊を合祀し祖先頼光の弟多田大和守頼義の後流田村義一を刈田郡より召し別当として社領地をたまい、深山大権現と改号、同人の長子秀親の代、天正十八年豊臣秀吉の陸奥平定のことあり、郡主和賀主馬没落したので、秀親は吉野坊と改名、社領地を持地とし天台宗に入門し修験者となった。子孫代々別当職をつとめ、岩崎村、江釣子、藤根、長沼、堅川目、横川目、尻平川村、七箇所の鎮守神として諸費用を分担した。明治三年、盛岡県属江刺恒久の神社検分あって岩崎二前神社と改号、同四年九月岩崎新田、煤孫、山口の郷社と定められ、同五年、神社区画改正のことあって岩崎の村社となり、毎年旧九月二十九日を祭日と定められた。※大那牟遅命…出雲大社の主祭神である大国主大神は、「古事記」では須佐之男命の6世の孫とされる。大国主という名は「国土を治める偉大な神」という意味で、他にも大那牟遅命など多くの別名を持つ。』
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岩崎二前神社改修寄附芳名。
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拝殿内。
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境内社。
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神明宮。
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28.5
天照太神宮(慶應2丙寅年3月16日)
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