
岩手県久慈市中町1丁目。巽山公園。中町は昭和47年~現在の久慈市の町名で第1・2地割があります。元は久慈市裏町で、地内の整備が進み一新し、当地が市街地の中央部に当たることから中町と改称。県立病院があることから病院通りとも称しています。裏町は昭和29から47年の久慈市の町名で、元は久慈町下大川目の一部で、当町は古くは谷地とも称し、通称三角山の北麓のため湿地が多く、第二次大戦前は溜池がありましたが、昭和20年の大火復興にあたり埋められています。この谷地の地名は元禄年間の史料に見えており、江戸期の久慈八日町の一部で、代官所・長福寺が地続きで、明治初期には郡役所・町役場が設けられ行政の中心地になっていました。更に大正期には学校、昭和初期には武徳殿が建設され、地内が一新。昭和47年中町と改称。
「道の駅くじ」から歩いて行きました。道中は素敵な坂道でしたが、この写真の道の先は本殿真裏へ到着する道でした。

ちょっとした展望台がありました。巽山からの眺望。
巽山から見た久慈の風景…『今から50年前の昭和46年(1971)11月10日、作家司馬遼太郎氏(1923~1996)はここ巽山公園に立った。この年から歴史紀行「街道をゆく」(注)が連載され、「久慈街道」(八戸~大野~久慈)にまつわる歴史や人物についての取材で、久慈の街に立ち寄った。巽山から久慈市内を眺望して、次のような一文を記した。≪はるかに久慈湾の沖が光っている。右手に長内川が流れ、左手に久慈川が流れて、その二つの河川が町並みを抱きつつ湾にそそいでいる。すでに新産業都市になってしまった八戸とはちがい、久慈というのは古色を帯びた銀器をみるような静けさがある。(写真①)≫ 久慈地方では豊富な埋蔵量の砂鉄をもとにして、藩政時代よりたたら製鉄が盛んであった。昭和16年(1941)、久慈製鉄所は稼働した。戦時中でもあり軍需工場として、従業員数は1,400人弱にのぼった。敗戦後、休業となり、再稼働したのは昭和24年であった。(写真②・③)しかし、鉄鋼不況、設備の老朽化などにより徐々に不採算となり、昭和42年ついに閉鎖となった。多くの従業員は千葉県など他県へ異動となり、故郷を離れて行った。司馬氏が久慈を訪ねたときには、既に工場は閉鎖、解体されていた。司馬氏の眼前には、更地となった静かな風景が広がっていた。(写真④)川崎製鉄久慈工場解体後、跡地は現在の川崎町として発展していった。昭和48年(1973)、市営野球場が完成、翌年には市役所新庁舎が開庁。そして平成11年(1999)、市営野球場跡に現在の久慈市を象徴する久慈市文化会館(アンバーホール)が開館、現在に至っている。(写真⑤)時の移ろいと共に、人も風景も変わっていく。50年後、この場所に立って市内を眺めると、どのような風景が広がっているのだろう。※(注)連載「街道をゆく」は25年間続いた。「久慈街道」はのちに『陸奥のみち』としてまとめられ、岩手県内で取り上げられた唯一の街道となった。』※写真②③⑤:久慈市教育委員会提要、令和3年11月10日歴史を活かした街づくりの会

①「週刊朝日」連載「街道をゆく第66回」(昭和47年3月31日号)司馬遼太郎

②巽山から見た川崎製鉄久慈工場(手前・久慈駅、左上・久慈湾に浮かぶ牛島)
③昭和34年久慈工場全景(左上・久慈川)
④昭和44年久慈工場跡地上空写真(「岩手県北の昭和」より)
⑤久慈市文化会館(アンバーホール)建設工事
巽山公園。春には桜の名所としても知られており、かつては名誉市民である三船久蔵十段の記念館もありました。

神社正面へ。
巽山公園…『久慈地区土地区画整理事業により確保された用地を活用して、昭和46年に開設された都市公園です。すぐそばには正徳元年(1711年)に巽山に祀られた巽山稲荷神社があります。市街地はもちろん久慈湾も一望できる市民憩いの広場で、春には桜の名所として沢山の花見客でにぎわいます。』

三船十段畄魂之碑。
岩手県知事千田正書。

読み辛かったので碑文省略。

三船十段の碑…『久慈市名誉市民である柔道家、三船久蔵氏は、明治16年に久慈市に生まれました。柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践し「柔道の神様」とあがめられました。昭和39年の東京オリンピックでは柔道競技運営委員を務め、国際的競技としての「柔道の完成」を見守った翌40年1月27日、82歳で永眠されました。ここ巽山公園内に「三船記念館」が建設(昭和33年)され、平成2年に久慈市川貫の市民の森に「三船十段記念館」として新築移転しています。』

忠魂碑(陸軍大将一戸兵衛書)

久慈市では十二支を祀っている社があり、巽山稲荷神社は十二支の子(千手観音菩薩)のようです。
社号標(昭和59年10月1日)

鳥居。
芭蕉句碑「旅人と我か名よはれん初時雨 はせを」

芭蕉句碑…『設置者、年代ともに不詳。一般的に句碑の類はそれが詠まれた地に関係者の手で建立されるのが一般的ではあるが、芭蕉の碑は発句の誕生地とは全く違う地に建立されているものが多い。このことは、全国に芭蕉を敬愛しその塚碑・句碑を建立することを喜びとした人々が多くいたことを物語っている。(「はせを」は松尾芭蕉の俳号)』

参道。
石灯籠一対(昭和60年11月)


巽山稲荷神社(たつみやまいなりじんじゃ・通称たつみさんのおいなりさん)は、正徳元年(1711)に庄屋であった中野家の氏神として巽(南東)の方角に祀られたため、巽山神社と称したのを起源とします。

石灯籠一対(昭和61年5月吉日)


参集殿。

社殿前鳥居(昭和44年5月5日)
手水舎。

境内社等。

向かって左は干支社、右が十二支社とありました。

こちらは不明。

案内板「巽山稲荷神社由緒と神徳」…『【創立】正徳元年【御祭神】大物主神、市杵島姫命、保食神、宇加之御魂神【御神徳】国土の開発と農・工・商等諸産業を司り、衣・食・住の主宰神で住民の諸々の災難を祓い除き、五穀豊穣・商売繁昌・縁結び・家内安全等子孫繁栄を守護し、又海に顕れて神威を垂れ海上安全・大漁満足を幸い下さる御神威が高く尊い神々と崇拝されております。【敬神生活の綱領】一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと 一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと 一、大御心をいただきてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること』・「巽山稲荷神社(たつみやまいなりじんじゃ)」…『交通安全・縁結び・子孫繁栄・商売繁盛・家内安全・海上大漁満足に御利益のある「子」をまつる神社。正徳元年(1711年)にこの地の庄屋である中野家の氏神として巽の方角にまつり、「巽山神社」と称したのが始まりです。』

狐一対(消防組第二部・発起人三舩富藏、新町若者連・発起人細田慶次郎)・石灯籠一対(嘉永2酉8月吉日)。
社殿。
建物は昭和28年の大火で全焼しており、その後昭和32年に再建。

拝殿向拝蟇股・木鼻。



神額(納主三船冨藏)

神社庁より…『【御祭神】大物主神(おおものぬしのかみ)、市杵島姫命(いちきしましめのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、宇加之御魂神(うかのみたまのかみ)【例祭日】5月5日【由緒】当神社は正徳元年に創立されたと伝えられております。御祭神は四柱の神様が祀られております。大物主神、市杵島姫神は天下を統治し病気災難を祓い除き、商売繁盛・縁結び・子孫繁栄の神様と尊ばれ、海に顕れては竜神として四海その神徳を施し海上安全大漁を幸い下さる神様と信仰されえおります。保食神、宇加之御魂神は食物を主宰し、衣食住の神様で商売繁盛・交通安全・五穀豊穣・家内安全の御神徳の高い神様で昔から巽山のお稲荷様とも尊称されております。』






















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