岩手県北上市下江釣子16地割。県道122号夏油温泉江釣子線沿い。近くには曹洞宗日月山全明寺があります。
社号標。

石橋寄附(大正9年12月※雑草で下部見えず)

金毘羅大神(明治30丁酉年3月10日)

境内社。

鳥居。
鳥居額束神額「江釣子神社」(登山作)

下江釣子は北上盆地のほぼ中央部、和賀川下流左岸の沖積地及び低位の金ケ崎段丘面上に位置。段丘崖の比高は5m内外で、他は北西部がやや高く、南東部に緩やかに傾斜する平坦地。段丘下に豊富な湧水(すず)地帯があります。地名の由来は、江釣子神社の御神体(観音像)を和賀川で釣り上げたという縁起に依るといい上江釣子に対します。地内に蔵屋敷遺跡(弥生時代・奈良期~平安期)、下江釣子羽場遺跡(奈良~平安期)等の考古遺跡、大永2年開基の真宗大谷派月光山通来寺、天文21年開基の曹洞宗日月山全明寺、天正4年建立の新渡戸観音堂(和賀・稗貫・紫波三郡三十三か所観音27番札所)などの寺社があります。鎮守江釣子神社は嘉禄元年創建といいますが不詳、境内に正和元年の「祖母養ね」供養碑があります。
江戸期の下江釣子村和賀郡のうち。盛岡藩領。黒沢尻通に属します。天正19年~慶長18年の北松斎父子が花巻郡代であった時代はその統治外であったと考えられますが、ついで寛永元年までは花巻城代南部政直の支配下でした。村高は享保13年780石余、弘化2年名寄帳804石余(田706石余・畑98石余)、旧高旧領833石余。貞享年間頃に江釣子村が当村と上江釣子村とに分村して成立したといわれますが、貞享高辻帳・元禄郷帳・天保郷帳・安政高辻帳等に当村の名は見えず江釣子村一村として記されていることから、盛岡藩領内では上下2ヵ村として把握されたのに対し、幕府には江釣子村一村として届けていたものと考えられます。江戸前期の新田開発により村高は増大。享保13年奥寺古八左衛門の取立新田は64石余。奥寺新田をめぐる伝説は多く、全明寺4世大迦和尚は八左衛門と双子で、同じ装束で工事監督にあたったといいます。地内御免町には延宝3年に新田の期限付年貢免除を規定した割札が立てられています。本枝村付並位付によりますと位付は上の中、家数77、集落別内訳は本村14・宿10・才川11・向田7・川内家10・御免町6・佐野6・蔵屋敷5・朴木8。文政4年御領分産物書上帳によりますと当村の物産は鮎・鱒で、運上金を上納していたといいます。弘化2年名寄帳では家数94。肥沃地では田作中心ですが和賀川の氾濫原では畑作が行われていました。東西に瀬端道(御年貢道、黒沢尻~横川目)、南北に岩崎街道(花巻―新平―岩崎)が通り、南部に佐野の和賀川渡船場がありました。当地域では百姓一揆がかなり頻発しており、当村からの参加者も多く、延享元年の畑返しと奥寺新田の本田並み課税反対一揆では、下江釣子弥兵衛が打首獄門となっています。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年東和賀郡に属します。明治8年公立小学校設置、同20年上江釣子小学校と合併、江釣子尋常小学校となります。明治11年の村の幅員は東西33町・南北11町、税地は田15町余・畑99町余・宅地13町余・荒地9町余など計208町余、戸数116・人口713(男368・女345)、馬105、漁船4、神社4・寺院2・堂3、公立小学江釣子学校の生徒数64(男子60・女子4)、職業別戸数は農業112、物産は馬・鮭・米・大麦・小麦・大豆・小豆・粟・稗・蕎麦・麻布・麻糸。明治14年平和街道(秋田県平鹿郡~岩手県和賀郡)開削。同22年江釣子村の大字となります。平成3年からは北上市の大字。世帯数・人口は大正12年169・1,071、昭和23年299・1,834、同43年437・2,107。明治40年和賀仙人~黒沢尻間に和賀軽便鉄道が開通。大正10年国鉄横黒線(北上線)開通、同13年横手(秋田県)~黒沢尻間が全通。生業は米を基幹作物とする農業を中心としてきましたが、地内への大規模工場進出や、近郊の北上市・花巻市の都市化に伴って兼業農家が目立つようになります。また、湧水地帯ではセリ栽培や養鯉が盛んとなります。民俗芸能は県無形民俗文化財の春田打のほか、御免町鬼剣舞・全明寺盆踊など豊富です。

手水舎。

石碑群。きちんと見ていません。

忠霊塔(陸軍大臣東條英機謹書)。


忠魂碑。

五訓之森。

御神符頒布所。

旧村社。御祭神は少彦名命であり、大山祇命・品陀和気命・伊邪那岐命・伊邪那美命を合祀。創建年代・由緒など詳しくは不明ですが、社伝には「江瀬釣光」の故事があります(御本尊正観音菩薩縁起)。即ち嘉禄元年当村の安妻宮禰宜五郎(一説では藤原五郎基常)は子供の六郎の長わずらいを看病しており、ある夜に「長瀬の渡し西の河に釣りをすべし」という夢告を得ました。言葉に従って和賀川で終日釣りをして川の光明の中から観音像を釣り上げ、それを祀ったところ子供の病が全快、時の領主和賀忠頼がこれを聞いて御堂を建立したのが始まりと伝えます。また、地名の江釣子は「江瀬釣光」が訛ったものともいいます。その後、天正年間岩崎城の合戦で御堂が焼かれ、宝暦2年再興、釣江山江釣子大明神となりましたが、明治初年の神仏分離で江釣子神社と称して現在に至ります。例祭は9月19日。4月3日の火防祭には山車も出て賑わうそうです。境内には咳神社があり、風邪の時近くの清水を飲めば治ると信じられてきました。



社殿前鳥居・参道。
鳥居付近の御神木の巨木。
石灯籠一対。


手水舎。

手水石(昭和60年10月吉日・江釣子石材店)。

お焚き上げ場。

江釣子神社…『【祭神】少彦名命【合祀】大山祇命・品陀和気命・伊邪那岐命・伊邪那美命【祭日】4月3日・9月19日【由緒】嘉禄元年(1225年)下江釣子に安妻宮禰誼の五郎という者(藤原五郎基常)がいた。彼の一子六郎は長く患って回復の様子がみえなかった。ある夜「長瀬の渡船場西(鑓水の小屋板)で釣をすれば病も治まる」という霊夢があった。五郎はそれに従がい和賀川で釣をしたが何も釣れなかった。突然、河中が震動し光明が見えたので釣糸を引き上げると、赤銅の観音像が針についていた。五郎は、それを持ち帰り仮宮を造り祀った。まもなく六郎の病も全快した。これを聞いた領主の和賀式部太夫忠頼は、すぐに堂を建立し、江瀬釣光大明神として祀り、和賀家の御祈願所と定めた。また、五郎には江釣子の姓を与えた。その後、11代江釣子民部の時、岩崎城の戦があり堂も焼失した。宝暦2年(1752年)現在の境内に再興し江釣子大明神として祀られている。』※えづりこ散策マップよりより…『建立年代は不明ですが、伝説によると、嘉禄元年(1225年)9月19日、下江釣子に禰宜の五郎という者がいて、その子、六郎が長い間病気で回復の兆しが見えなかった。ある日、神の霊夢があり和賀川の鑓水で釣りをしたところ、観音像がかかりこれを祀ったのが始まりといわれています。まもなく六郎の病も全快したと伝えられています。宝暦2年(1752年)社殿を再興し江釣子大明神として祀られ現在に至っています。』

聖徳太子碑。

大正8年9月20日。

狛犬一対(昭和33年2月19日、宮古市藤原、奉納者髙橋常右エ門、石工佐藤常藏、大槌町石工伊藤勇)
御神木。

根元に立て掛けてあった碑は読み取れず。

手水石と三社託宣。


参道正面、手水石一対(大正4年9月吉日)


きたかみ景観資産(北上市認定№102、すずの里江釣子神社)

石灯籠一対。


狛犬一対(慶応3年丁卯9月19日)
社殿。
幣殿・本殿。


神社庁より…『【御祭神】少名彦名命、大山祗命、品邪和気命、伊邪那岐命、伊邪那美命【例祭日】9月19日、4月3日(火防祭)【由緒】嘉禄元年(1225)下江釣子に安妻宮禰誼の五郎という者(藤原五郎基常)がいた。彼の一子六郎は長く病に患って回復の様子がみえなかった。 ある夜「長瀬の渡船場西(鑓水の小屋板)で釣りをすれば病も治る」という霊夢があった。五郎はそれに従い和賀川で釣りをしたが何も釣れなかった。突然、河中が振動し光明が見えたので釣り糸を引き上げると、赤銅の観音像が針についていた。五郎は、それを持ち帰り仮宮を造り祀った。間もなく六郎の病も全快した。これを聞いた領主の和賀式部大夫忠明は、すぐに堂を建立し、江瀬釣光大明神として祀り、和賀家の御祈願所と定めた。また五郎には江釣子の姓を与えた。その後、十一代江釣子民部の時、岩崎城の戦いがあり堂も消失した。宝暦2年(1752)社殿を再興し江釣子大明神として祀られ現在に至っている。五穀豊穣・産業発展・氏子の安泰を祈り、火防祭・例祭日には祭祀の後、神幸祭が執り行われる。』

参道を振り返るの図。
吹咳権現神社
吹咳権現神社(しゃぶきごんげんじんじゃ)の由来…『吹咳権現神社には咳様が祀られていますが、祭神は国狭槌神といわれています。この咳様には次のような言い伝えが残されています。「今から千二百年も前、坂上田村麻呂が蝦夷征伐でこの地にさしかかった折、兵士たちの間に悪い風邪が蔓延して困窮しました。しかし、この地にコンコンと湧く清水を飲んだところ兵士たちの病はたちどころに治り、この神効を謝してここに吹咳権現様を祀った」と言われています。以後この神様は風邪、百日咳、喘息の神様として崇拝され、近郷近在はもちろん、遠く仙台方面からも水汲み瓶を携えた参拝者が絶えませんでした。参拝者は、元どおり大きな声が戻りますようにと「雄鶏の絵馬」を奉納して病気の治癒を願い、お礼参りの際には池にフナを放したといわれています。フナを放すのは、江釣子神社勧請の由来に、フナの形の観音様によって病気が治癒したとの言い伝えがあるためと思われます。』

長くなりましたので『江釣子神社 (北上市)~其之弐』へ続く…



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