岩手県大船渡市三陸町綾里舘。綾里漁港の近くです。


綾里は太平洋沿岸、綾里湾等に面します。綾里富士の山裾が海岸まで迫り、大股山から南東流して海に注ぐ綾里川沿いに僅かな平野地があります。湾は2つあって東側の綾里湾は陸中海岸の南部、南の綾里岬と北の脚岬に挟まれてほぼ真東に湾口を開きます。他方は小路岬と小黒岬に挟まれた南側の細長い湾で、ともに外洋の潮流が直接流入し風波が荒いところです。綾里岬は周囲がほとんど断崖で、半島の中央に立石山があり、付近は高原状を呈し草原が続きます。地名の由来は綾を織った姫がいたことによると伝え、海岸に唐櫃岩と呼ばれている長櫃のような岩があり、そこに綾姫が機具を納めていたといいます。地内には縄文前期~晩期にかけての宮野貝塚、縄文前期~後期の砂子浜貝塚、同じく晩期の野々前貝塚など多くの遺跡が散在。
室町期の綾里郷は気仙郡のうち。小友華蔵寺文書応永8年8月12日道光寄進状に、「奉寄進 気仙郡綾里郷大蔵分塩〈月割三斗五升〉」と見えます。道光は葛西氏一族と推定。彼は同日付で「岩井郡大原庄内」の田地などをも華蔵寺に寄進。綾里湾西岸基部の殿見島西側に連なる丘陵は槻館城跡。大船渡街道の西側丘陵が本丸。東西に長い直径約120mの楕円形で、その西にやはり東西に長い約150mの長楕円形の二の丸があります。東西300m・南北150m。標高25m。海上交通を扼す山城。本丸下に館ノ下と呼ばれる古い屋敷があります。城主は今野遠江。槻館城の対岸、湾の東岸に突出した山の頂上一帯は千田大学の居城と伝える高館城跡。標高120m。頂上の径80m程の平場が本丸となります。東西200m・南北150m。綾里病院の西の道路100mにある丘は平楯城。東西80m・南北150m。比高20m。丘全体が城郭。山頂雷神付近が本丸で、保育所の付近が二の丸と推定。新沼太郎左衛門が居住と伝えます。
江戸期の綾里村は気仙郡のうち。仙台藩領。村高は寛永検地72貫余(田23貫余・畑48貫余)、元禄郷帳647石余、天保郷帳724石余、旧高旧領460石余。明和9年の人数320。寺院としては慶長16年在天和尚の開山という曹洞宗常松山長林寺と、もと洪秀菴と号して寛永19年に改めた同宗福田山竜岩寺があります。綾里岬に番所1ヶ所が設置されており、番人は今泉足軽が1人ずつ30日交代でつとめさせ、旅御扶持方2人分を大原村年貢米から年の暮に翌1ヶ年分直渡ししたといいます。また、立石山は風荒の場所で積雪などを考慮して3~8月につとめさせ、八ケ森山には9~2月につとめさせたといいます。海上掟の制札が残されています。明治元年松本藩取締、以後江刺県、一関県、水沢県、磐井県、宮城県を経て同9年岩手県所属。同13年の村の幅員は東西約2里・南北約1里25町、税地は田21町余・畑172町余・宅地19町余・製塩場1反余の計213町余、戸数402・人口2,280(男1,132・女1,148)、牛85、馬328、舟172(商船14・漁船158)、綾里学校の生徒数76(男子71・女子5)、職業別戸数は農業248・商業15・雑業127。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。役場を字港に設置。明治22年の面積2,380町余、戸数390・人口2,458。同25年の全戸数410、うち過半数が漁業に従事し鱈・赤魚・鰹魚などの釣捕・流し網・建網を行っています。マカセ網を6把所有していますが20~30年に1度使用、鮪流し網は約200反所有。大正6年の戸数400・人口2,544、田27町・畑181町余・宅地21町余・山林2,628町余、学校数2・分教場1。山林は明治期以来ほとんど毎年造林をし民有地総面積の9割強を占め、村民の資源となります。職業別戸数は農業専業13・兼業251、漁業専業10・兼業126、商業専業2・兼業12、工業専業1・兼業7、自由業3、家畜の頭数は牛148・馬145・豚6、漁船の種類3間以上5間未満142、5間以上発動機を有するもの3、5間以上発動機のないもの3。三陸大津波の被害は明治29年死者1,458、流失家屋285・全壊100、昭和8年死者178、流失倒壊家屋244。同31年三陸村の大字となります。昭和42年からは三陸町の大字。昭和31年の世帯数700・人口4,576。同45年国鉄盛線盛~綾里間が開通し綾里駅が設置され、更に同48年には綾里~吉浜間が開通。昭和45年綾里岬立石山の中腹に気象庁の高層気象ロケット観測所が設置され、同年7月第1号ロケットが打ち上げられています。
社号標(昭和61年5月吉日、東京大神宮宮司松山能夫謹書)、隣に馬頭観世音等。

手水舎(昭和61年5月吉日、天照御祖神社奉賛会奉納)

手水石。

参道石段。
石段途中にある金比羅大権現等の碑と石仏。

いい景色…
ですが…

こんな高さにまで東日本大震災(平成23年3月11日午後2時46分)の津波が…
社殿浸水までギリギリセーフといった高さですね。

社殿。
狛犬一対(昭和12年旧9月16日)
八大龍神、龍神宮、金刀比羅宮。


御祭神は天照大御神。例祭日旧3月16日。




天照御祖神社の神輿は、明治28年3月の例大祭に合わせて完成したもので、気仙を代表する大工棟梁の花輪喜久蔵が手掛けたもの。
由緒…『当社の勧請人は旧別当法印宥善(当社の別当熊谷家の先祖)である。宥善は大和国吉野郡立石村の人で、諸国を修行遊歴していたが、文安3年(1446)、終に当村(綾里)の崎山摩伽ヶ原という所に幽かなる草庵を結び構えて居住し、朝夕熱心に天照大御神を祀り崇敬していた。宝徳年間(1449-1452)に至り領主千葉大学祈願の事があり、宥善に命じて城外に院宇を移させた。後に正徳4年(1714)に至り、当院の西の字舘(現在地)という所に社殿を造営し御遷座された。若干年を経て衰頽に及んだ時代もあったが、村民一統の篤い信仰により、天保3年(1832)4月、村社の称を受けられた。』

「總鎮守」(藤李明敬書)

拝殿内。

本殿真横。

境内社があります。

ガラス越しでわかりにくいかも知れませんが…

向かって左から秋葉神社、西宮神宮、金刀比羅宮。

恵比須像(大船渡市指定有形民俗文化財)…『【一、管理者】天照御祖神社宮司中島嵩【二、指定年月日】昭和53年2月10日【三、説明】この恵比須像は、三社(神明社、熊野社、西宮社)の一社に奉祀されたもので、一本の丸太を彫った庶民の作と思われる素朴な造りであり、彩色はその跡を止める程度である。恵比須像は、中央付近から二つに分割され、一方には「般若心教」の教文が、もう一方には「浦繁昌、二世円満」と記され、当地域の特色を示した民俗信仰資料として価値が高い。奉願者は「小村の人々敬白」と記されてあり、年代は、貞享4年(西暦1,687)となっている。』平成6年3月大船渡市教育委員会設置





コメント