

鳥居。
鳥居額束神額。

参道。

江戸期の大川目村は九戸郡のうち。はじめ盛岡藩領で寛文5年から八戸藩領。寛文5年から久慈通長内名主組に属します。村高は正保郷村帳419石余(田237石余・畑181石余)、貞享高辻帳519石余(田327石余・畑191石余)、元禄10年郷村御内所高帳1,053石余、天保郷帳868石余、旧高旧領1,096石余。寺社としては時宗遍照山慈光寺・曹洞宗長床庵・山口八幡宮・神明宮が見えます。慈光寺は清浄光寺(藤沢市)、長床庵は長福寺(久慈市)のそれぞれ末寺でした。長床庵は享保17年の開山、山口八幡宮は天暦10年の創建、神明宮は元文元年の勧請と伝えます。天正年間当地は市場町として栄え、久慈之内三日町とも称されていました。延宝5年三日町は50軒残らず全焼しており、元文2年には47軒が焼失、明和8年には68軒が焼失する大火がありました。享保20年には岩井沢の鉛山証文が取り交わされました。明和3年三日町の惣次郎は領内の鉄問屋を一手に引き受けることを願い出てており1ヶ年100両の礼金を上納することとなりました。天保5年三日町付近から百姓が騒動を起こしています。明治4年八戸県、以後弘前県、青森県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年南九戸郡に属します。明治4年上大川目村、同5年上大川目村・下大川目村などと見えており上・下2ヶ村に分かれて扱われることが多くなりました。同6年大川目小学校、同10年大久保小学校(山口小学校の前身)、同11年馬内小学校(根井小学校の前身)がそれぞれ開校。明治12年の村の幅員は東西2里11町・南北1里10町、税地は田121町余・畑451町余・宅地68町余など668町余、戸数655・人口3,536(男1,822・女1,714)、牛502・馬722、舟5、石炭鉱3・琥珀鉱1・金鉱1・銀鉱1・砂鉄鉱2、神社4(大神宮・火産霊神社・巽山神社・神明宮)、寺2(長福寺・長床庵)、字中小路の公立小学大川目学校の生徒数18(男子のみ)、字八日町の公立小学久慈学校の生徒数76(男62・女14)、他に字谷地には第21大区1番扱所、字八日町には私立碩隆病院が見えます。職業別戸数は農業489・工業56・商業91・雑業11・僧侶4・神官4、物産は牛・馬・鮭・米・稗・大豆・小豆・粟・清酒・濁酒・柿・麻糸、地味は全村黒色土で、南・中・東部は上・中位、他は下位。明治17年、三日町を中心とした地域は上大川目村、八日町を中心とした地域は下大川目村として2ヶ村に分村。※八日町は第2・4地割があり、元は久慈町下大川目の一部。江戸期から久慈(大川目村)八日町と称しており市が開かれて栄えました。江戸期の八日町は現在の荒町・十八日町・中町(谷地)を含んでいましたが、明治初期には荒町・谷地は分かれ、市街地の発展とともに更に十八日町が分離することになっています。第二次大戦前にあった官公署は昭和20年の大火で移転。消防署・県合同庁舎・大神宮があります。

鳥居。

参道石段。


社殿前鳥居。

手水石(昭和2年旧4月24日、吉田勘治・千葉賢三)

御祭神は火産霊命。
狛犬一対(昭和53年8月吉日、田名部彦八・田名部リヨ)


石灯籠一対(昭和53年10月吉日、田名部彦八・田名部リヨ)


立派な松。

社殿。
由緒等についてはわかりませんでした。久慈市では十二支を祀っている社があり、愛宕神社は十二支の辰・巳(普賢菩薩)のようです。
上記のように火災の多い場所であったことから防火の神を祀り創建したのかも知れません。

拝殿向拝蟇股・神額。


脇障子の昇龍・降龍。
境内社の鳥居。

白龍明神神社。

文珠宮へ。

境内社のように感じますが、地図上では別に記されています。
鳥居。

私も愛宕神社の後に改めて文珠宮へ参拝しようと思っていたのですが、境内社のような感じだったので意表を突かれました。なお、文珠宮の裏手には「神社の道」という遊歩道があり、そこから高舘八幡宮や虚空蔵菩薩に行くことができます(※別記事にしております)。由緒等はわかりませんでした。なお、文殊菩薩は上記の十二支における卯です。

石殿一基。

何かは不明。

石が祀られており、裏に棟札らしきものも数枚ありましたがよく見えず。



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