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岩手県久慈市八日町。付近には久慈市立三船十段記念館(三船久蔵十段之像)や日蓮正宗東光寺、道の駅くじ(やませ土風館)があります。※一之鳥居(昭和41年10月17日奉納)
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石灯籠一対(昭和18年9月吉日建立)
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江戸期の大川目村は九戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。寛文5年から久慈通長内名主組に属します。村高は正保郷村帳419石余(田237石余・畑181石余)、貞享高辻帳519石余(田327石余・畑191石余)、元禄10年郷村御内所高帳1,053石余、天保郷帳868石余、旧高旧領1,096石余。寺社としては時宗遍照山慈光寺・曹洞宗長床庵・山口八幡宮神明宮が見えます。慈光寺は清浄光寺(藤沢市)、長床庵は長福寺(久慈市)のそれぞれ末寺でした。長床庵は享保17年の開山、山口八幡宮は天暦10年の創建、神明宮は元文元年の勧請と伝えます。天正年間当地は市場町として栄え、久慈之内三日町とも称されていました。延宝5年三日町は50軒残らず全焼しており、元文2年には47軒が焼失、明和8年には68軒が焼失する大火がありました。享保20年には岩井沢の鉛山証文が取り交わされました。明和3年三日町の惣次郎は領内の鉄問屋を一手に引き受けることを願い出て1ヶ年100両の礼金を上納することとなりました。天保5年三日町付近から百姓が騒動を起こしています。明治4年八戸県、以後弘前県、青森県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年南九戸郡に属します。明治4年上大川目村、同5年上大川目村・下大川目村などと見え、上・下2ヶ村に分かれて扱われることが多くなりました。同6年大川目小学校、同10年大久保小学校(山口小学校の前身)、同11年馬内小学校(根井小学校の前身)がそれぞれ開校。明治12年の村の幅員は東西2里11町・南北1里10町、税地は田121町余・畑451町余・宅地68町余など668町余、戸数655・人口3,536(男1,822・女1,714)、牛502・馬722、舟5、石炭鉱3・琥珀鉱1・金鉱1・銀鉱1・砂鉄鉱2、神社4(大神宮・火産霊神社・巽山神社・神明宮)、寺2(長福寺・長床庵)、字中小路の公立小学大川目学校の生徒数18(男子のみ)、字八日町の公立小学久慈学校の生徒数76(男62・女14)、他に字谷地には第21大区1番扱所、字八日町には私立碩隆病院が見えます。職業別戸数は農業489・工業56・商業91・雑業11・僧侶4・神官4、物産は牛・馬・鮭・米・稗・大豆・小豆・粟・清酒・濁酒・柿・麻糸、地味は全村黒色土で、南・中・東部は上・中位、他は下位。明治17年三日町を中心とした地域は上大川目村、八日町を中心とした地域は下大川目村として2ヶ村に分村。
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※八日町(昭和29年~)は第2・4地割があります。元は久慈町下大川目の一部。江戸期から久慈(大川目村)八日町と称し市が開かれて栄えました。江戸期の八日町は現在の荒町・十八日町・中町(谷地)を含んでいましたが、明治初期には荒町・谷地は分かれ、市街地の発展とともに更に十八日町が分離することになりました。第二次大戦前にあった官公署は昭和20年の大火で移転。消防署・県合同庁舎・大神宮があります。
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御祭神は天照皇大神、火産霊命。例祭日9月18日。久慈市では十二支を祀っている社があり、大神宮は十二支の午(勢至菩薩)のようです。
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狛犬一対(昭和9年旧9月17日、中組有志一同)
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手水石。
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高山彦九郎の碑。
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『「千早振神代のことを伝へてや 庭火たきつゝ祭をぞする」寛政二年庚戌九月十五日壬辰 於八日町神明祭 髙山彦九郎正之よむ』
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高山彦九郎の碑…『高山彦九郎は寛政の三奇人と呼ばれる江戸時代の寛政期に活躍した人物です。寛政2年(1790年)に久慈を訪れ、当時のこの地域の現状を「北行日記」に記しています。当時の天皇に拝謁した際にその感激を詠った名歌は、愛国の精神が表現されているとして愛国百人一首に選べれています。』
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平成御大典奉祝大神宮御造営記念碑(大神宮御造営奉賛会会長久慈義昭謹書)
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脇にも参道と鳥居(昭和10年9月17日、上組若者連盟建立)がありました。
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社殿。
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狛犬一対(平成2年9月吉日)
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神社庁より…『大神宮は通称は神明様と称され、久慈秋祭りの主役として、多くの市民に親しまれている。その由来は、長慶天皇の御代の応安2年(1368)に、南学院宮沢家の先祖が荒町の秋葉神社の社司のとき、御霊を奉持して、今の新町にあった六角堂を御旅舎にし、旧暦9月17・18・19日を祭典の日と定めたのが始まりといわれている。尚、大正12年(1923)に県に提出した文書では、往古・久慈長内村の山にあった小祠を同村の大勝田という屋号の屋敷に遷座し、次に鳥居野に遷し、寛永2年(1625)10月に今の社地に遷座した。明治5年(1872)10月に郷社となり、大正7年1月11日の久慈大火の際に類焼。大正9年12月25日に現在の社殿を再建する。大正12年6月15日に火産霊神社を合祀することが許可されたとある。又、高山彦九郎が諸国行脚の途中、当地に立ち寄ったのは、寛政2年(1790)だが、旧暦9月15日に、八日町の「目あかし」という家に泊まり、当時は野営だった秋葉神社を参拝し、「千早ぶる 神代のことを 伝えてや 庭火たきつつ 祭りをぞする」と和歌を残している。この秋葉神社(火の神様)は、現在久慈の三社大祭の一社であるが、今は大神宮に合祀されている。』
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拝殿向拝神額(納主三船久蔵)
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拝殿内。正面神額「大神宮」(平成2年9月17日久慈義昭謹書、納主神田武男)
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