岩手県和賀郡西和賀町沢内新町11地割。県道1号(盛岡横手線)沿い。

神社のすぐ近くに典膳館跡の案内板があります。また、付近にはシダレザクラ(西和賀町指定文化財天然記念物)もあります。

典膳館(てんぜんだて)跡…『天神館ともいう。和賀川の支流本内川の右岸の高位段丘の台地上に位置し、下位の段丘面(沢内第一小学校の立地面)より30メートルの高さにある。三つの平場(郭)を配し、深さ7~8メートルの深い堀や帯郭、腰郭、土塁などをめぐらした堂々たる館跡である。三日月形の平場を中心とする。館跡の規模は南北約280メートル、東西の最長部は180メートルで、全面積は約2.5平方キロメートルである。この面積は鬼柳氏の鹿島館や、煤孫氏の下煤孫館など和賀川下流域の大規模な館に匹敵する大きさである。南端の郭には神社跡があり、終戦後は神社も荒れ放題でついにその姿もなくなってしまった。典膳館の後に片倉の地名がある。ここは、伊達政宗の家臣片倉小十郎の先祖の出身地であると言われている(『沢内風土記』)が、真偽のほどはわからない。また一説には蘆野典膳兼国の館(『和賀郡誌』)とも伝えられているが、その一族も片倉氏との関係も不明である。地理的には和賀川と本内川によって形成された流域中最も広い平野部の中央に位置する。また、真昼越えをもって出羽仙北に通ずるわき道の東口にあたり、立地条件にはそうした広域性が反映していると見られる。加えて複数の平場(郭)からなる大規模な館であることから家臣団をもつ有力者の館であろう。和賀氏や小野寺氏(秋田)など和賀、仙北の戦国領主と深い関係にあった盟主的在地領主であったと考えられている。』平成13年9月24日、沢内村教育委員会・和賀氏四百年祭実行委員会
社号標「天照皇太神宮」

手水石。

新町は江戸期には新街とも書きました。和賀川の上流右岸、奥羽山脈の山間に開けた南北に細長い沢内盆地の南部に位置。東限は和賀川。年間降水量が2,500mm前後と非常に多く、平均積雪は2mを超える豪雪地帯です。地名の由来は江戸期に新しく興った街であることに因むといいます。本内川南岸、比高約30mの独立丘陵にある典膳館(時代・館主など未詳)は、面積では沢内村最大の館跡で、北端部に巨大な空濠を残します。また、毘沙門神社裏の比高約80mの山頂部平場に東西80m・南北40mの単郭の毘沙門館(時代・館主など未詳)があります。
江戸期の新町村は和賀郡のうち。盛岡藩領。沢内通に属します。沢内六か村の1つ。中世末から近世初頭にかけて和賀一族須々孫氏から分かれた太田氏が当地を領有、太田民部少輔義勝は盛岡藩主南部信直に出仕、太田に住して800石を知行。義勝の嫡男久義は慶長18年南部利直に仕え500石を知行、その弟義房は300石を知行。なお、太田氏は寛文4年義政が早世して知行没収、同氏の知行地は藩直轄地となります。沢内通ははじめ雫石通代官の管轄下、後の寛文12年に沢内通専任の代官が任命されました。なお、代官が任地で職務をとったかは不明であり、天和2年に当地内に置かれた代官所に伊藤七兵衛・城弥三右衛門がはじめて代官として着任。村高は邦内郷村志317石余(うち給地43石余)、旧高旧領312石余。なお、正保郷村帳・貞享高辻帳・天保郷帳・安政高辻帳には当村名が見えず、これらの幕府へ届け出た郷帳では沢内村の内に含まれていたと考えられ、仮名付帳でも沢内村の枝村として見えます。邦内郷村志・管轄地誌によりますと、元は前郷村及び大野村と一村をなしていたといいます。江戸前期から中期にかけて新田開発が行われ村高が増加。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数66、集落別内訳は本村60・田代6。天保8年の御蔵給所惣高書上帳では御蔵高268石余(うち古荒川欠8石余)・給所高305石余・御免地高8石。米作が中心でしたが山間の高冷地であるため冷害になりやすく、当地域は元禄年間から明治期までの約180年間に不作以上の減作が53回もあり、うち凶作・大凶作(飢饉)が45回ありました。村づくしによって各集落ごとの特産物・旧家名を見ると、新町は清酒・六右衛門家、田代は大ぜり・長松家。往還では盛岡城下から雫石・山伏峠・太田を経て、越中畑・白木峠に至る山形街道が村内を南北に通り、当地には宿駅が置かれました。郷社大神宮は、伝承では正徳3年の建立といいます。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年西和賀郡に属します。明治6年新町小学校創立。明治10年の村の幅員は東西1里7町・南北16町、税地は田58町余・畑43町余・宅地9町余・荒地8町余など計127町余、戸数86・人口443(男229・女214)、牛31、馬68、神社1、公立小学新町学校の生徒数54(男51・女3)、職業別戸数は農業83・商業1、物産は牛・馬・鶏・山魦・米・大豆・小豆・蕎麦・大角豆・茄子・蕪・蘿菔・牛房・百合根・芋・紫蕨・蕗・茸・生糸・真綿・藍・麻糸・煙草・清酒・濁酒など。明治11年当地に馬市場が置かれており、沢内・湯田両村の馬市(おせり)が行われました。のち牛市は同44年に開始。明治22年沢内村の大字となります。明治22~36年まで村役場が置かれました。世帯数・人口は昭和10年123・829、同31年143・932。明治27年新町尋常小学校に高等科併置、昭和22年新町小学校と改称、同25年太田分校が昇格して太田小学校、同37年新町・太田両小学校が統合、沢内第一小学校となっています。同58年の児童数166。農業は米を基幹作物とし、近年となり高冷地野菜やリンドウ・イチゴなどを積極的に導入。

なお、新町については新町稲荷神社の記事も参照ください。
社殿。
拝殿向拝神額「神明」


拝殿内。
御祭神は天照皇大神。例祭日7月16日。
由緒…『元亀元年(1570)五十鈴川で得た奇石を祀り、正徳3年(1713)に社堂を建てる。明和4年(1767)に御輿を秋田の大曲から求めてこの年から祭典を始めた。』
金刀毘羅神(明治)

石仏。

天満宮・山祇神社。

水神神社・山神神社。



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