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岩手県釜石市橋野町第39地割。沢桧川沿い。沢桧川に沿って瀧澤神社奥の院ヨドマワリの滝方面へ登っていくと左手に鎮座。
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石造鳥居二基寄附人名碑(大正3年12月12日)
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史跡釜石鉱山田中製鉄所栗橋分工場跡…『栗橋分工場(通称沢桧鉱山)は、橋野高炉より三十五年後の明治二十五年に、陸海軍の弾丸材の需要にせまられて建設着工され、同二十七年に竣工、大正十年まで操業された。』
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栗橋分工場跡…『栗橋分工場は、陸海軍弾丸材として釜石銑鉄の需要が多量となったため、橋野高炉等の資材や鉱山権等を買い上げ、釜石鉱山田中製鐵所の第7高炉として、明治25(1892)年に工事を着工し、明治27(1894)年に操業を開始しました。操業同年に、釜石製鐵所では日本で初めてコークスを燃料とする銑鉄生産に成功しましたが、栗橋分工場のみ木炭吹製のままで操業しました。大正7(1918)年に第1次世界大戦が終結し、その後の戦後恐慌や金融恐慌、軍備縮小への方向性等が原因となり、大正10(1921)年2月休山となりました。』
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栗橋分工場跡。
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栗橋分工場の運搬について…『細越鉱山や高前鉱山で採掘された鉄鉱石は沢桧大平の集合地点までは鉄索、そこから工場まではトロッコで運搬されました。銑鉄は、最初は駄馬や馬車で運搬していましたが、大正7(1918)年からアメリカのパッカード社製のトラック2台を購入して、自動車運搬が開始されました。両石港に運ばれた銑鉄は無動力船に載せられ、満載になると大福丸で釜石へ運ばれました。』
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栗橋分工場の人々…『【横山久太郎(1856-1921)】遠江国山名郡久努村村松(静岡県袋井市村松)出身。中泉村(現磐井市)鋳物商山田孫次郎商店で奉公し、後に田中長兵衛の部下となる。官営釜石製鐵所の払い下げを機に製鉄業を開始することを進言。初代釜石製鐵所所長として活躍する。三陸汽船株式会社の設立など、地域の発展に多大に貢献する。【高橋亦助(1853-1918)】釜石出身。官営釜石製鐵所で働くも製鐵所が廃止。製鐵所を引き継いだ田中長兵衛に高炉主任として雇われ、49回目にして高炉操業に成功し、釜石鉱山田中製鐵所の設立の功労者となる。後に栗橋分工場の工場長などを歴任する。』
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栗橋分工場山神社…『栗橋分工場の山神社は、ここから南南西約1kmにある大蕨鉄鉱山の山神社を明治22(1889)年に現在地に移設したものと伝えられています。かつて山神社に掲げられた扁額は「潮外 野呂義謹書」とあり、野呂義景博士が揮毫したと考えられています。祠の左にある鉄は、高炉の初湯銑といわれていあす。【山神社扁額】かって、この神社にあったが、流出したという。裏面には「岩手県稗貫郡湯口村寄進人古舘寅吉敬白とある。古舘氏は明治26(1893)年に炭焼夫として製鐵所に雇われている。写真の扁額のほか狛犬や手水鉢も奉納している。【野呂義景】安政4(1857)年、名古屋生れ。東京大学理学部卒業後、ロンドン大学そしてフライベルク鉱山大学に留学。帰国後は農商務省技師として釜石鉱山調査を実施。官営25t高炉の改修に成功する。その後、八幡製鉄所建設にも貢献する。日本の製鉄の基礎の確立や、後継の育成に尽力する。』
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参道。
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見事なフォロー。
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鳥居。
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なぜか狛犬に見えてシャッターを切りましたが…木でした。
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釜石鉱山田中製鉄所栗橋分工場跡【市指定文化財・平成19年3月29日指定】…『栗橋分工場は、明治25(1892)年に第七高炉として建設に着手、同27年、他がコークスであったのに対し唯一の木炭高炉として操業しましたが、大正10(1921)年、鉄鋼需要の減少などにより停止しました。』
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手水鉢。
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社殿前。
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狛犬一対。
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石灯籠一対。
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山神社。
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