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岩手県釜石市橋野町第32地割。
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付近には牧庵鞭牛隠居屋敷跡、やや北方に横内館跡、古里の御神楽スギ等があります。
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神社附近の石碑。観世音などの文字が見えますがきちんと見ていません。
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鳥居前にも石碑。
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石造鳥居寄附人名碑(大正8年4月3日)
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こちらは私には読み取れず。
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馬頭観世音。
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石造鳥居。
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橋野は権現山の東部、鵜住居川の上流域に位置。中世の橋野は戦国武士橋野氏の本拠地。閉伊郡のうち。橋野氏は大槌氏の家臣。大槌孫三郎の弟、上野右近の末裔。後に南部氏に属します。橋野館は中村林宗寺裏の丘陵上にあります。本丸は25m×30m、標高266m。江戸期の橋野村は閉伊郡のうち。盛岡藩領。大槌通に属します。慶長年間まで橋野氏が領有。村高は正保郷村帳60石余(田1石余・畑58石余)、貞享高辻帳75石余、邦内郷村志・天保郷帳ともに107石余、安政高辻帳86石余、旧高旧領107石余。慶長2年早栃西方山腹に曹洞宗鶏石山林宗寺開創。正保年間から享保年間まで和山で製鉄が行われていました。明暦元年橋野から盛岡・遠野への状遣い・万手ふり、或いは飛脚等の役負担が多いので軽減を願い盛岡までの飛脚が赦免。延宝2年肝煎古里の嘉惣治と小屋野の三十郎が、当村に知行地をもつ楓助左衛門の苛酷な年貢・役負担の要求に苦しむ村民を救うために藩主に直訴し死罪となりました。元禄5年から正徳2年まで上山(わやま・和山)で釜石浦支配桐善兵衛が鉄山経営を行いました。享保12年青ノ木で水晶発見。同18年笹平金山が開かれ、元文2年には弁才天山銅山試掘を片岸村伊兵衛が願い出ています。寛延2年林宗寺六世牧庵鞭牛和尚が林宗寺を中村に移転。同和尚は宝暦5年に隠居し、三陸沿岸の道普請に一生を捧げるため大乗妙典一字一石血書供養塔を建立、天明2年没します。明和6年から寛政10年まで長木山で地吹製鉄が行われていました。邦内郷村志によりますと家数128(うち村内集落として横内19・沢20・上山17)、馬数324。本枝村付並位付によりますと位付は下の中、家数135、集落別内訳は本村29・横内17・沢76・上山13。文化5年当村由右衛門は青ノ木金山沢(六黒見沢)の金鉱試掘を願い出ています。文政3年青ノ木金山御手山(藩営)となります。同8年海岸住民から当村に鉄山を立てると水産物・塩等の流通に支障が出るので中止するよう反対陳情運動が起こりました。天保6年沢檜御山・青木素山のうち金山沢を大槌村八日町文助より取り上げ、村一統による10か年稼動となります。安政5年の人数679。同年猫軸に岩鉄吹立所設置、岩鉄山御手行となります。安政年間盛岡藩士大島高任の指導により青ノ木に洋式高炉3座建設、年間30万貫を生産。3番高炉は文久年間に大改修し明治27年まで操業。文久元年の橋野から両石港までの鉏鉄運賃は10両。のち高炉は明治元年休業、同7年官業となります。慶応3年、大槌録によりますと牛96・馬368、炊炭釜3・鍛冶炭釜3。文化13年に宮古・大槌両代官所管内の米専売化、及び養蚕の種紙の専売等に反対し、当村ほか数ヶ村で訴訟を起こし自由化を認めさせています。この他、三閉伊通では弘化4年・嘉永6年に藩政改革を要求する百姓一揆が起きています。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年南閉伊郡に属します。明治2年の戸数151・人口803、牛132・馬362。同11年の村の幅員は東西2里22町・南北2里、税地は田3町余・畑172町余・宅地7町余・切替畑75町余など計259町余、戸数169・人口993(男508・女485)、牛44、馬374、神社1・寺院1、岩鉄鉱2ヶ所・鉄鉱1・金鉱1、職業別戸数は農業166、物産は馬・鹿・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・濁酒・蘿菔・繭・麻・炭など。同年小野権左衛門が沢檜銭座を経営、鋳銭高1ヶ年72万貫文。同8年の戸数170・人口1,007。同10年橋野小学校開校。同22年栗橋村の大字となります。昭和30年釜石市の町名となります。橋野町は農業が主体の町で、集落は青ノ木・中村・能舟木・和山・横内・古里・萩ノ洞・沢・太田林・早栃に分かれます。同32年青ノ木にある洋式高炉跡は国の史跡に指定。同35年橋野小・中学校全焼。同38年和山に電気を導入。同42年橋野小・中学校(併設)に寄宿舎ができます。同44年和山のシナノキ・古里の御神楽スギが市の天然記念物に指定されています。同48年和山に市営牧場開設。当町・栗林町の行政事務を取り扱う市役所栗橋出張所、農協・栗橋診療所・青ノ木グリーンパーク・橋野へき地保育所などがあります。
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鳥居。
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立派な御神木が見えてきます。
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手水舎。
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社殿。
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15.5
御神木。
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石灯籠一対(大正14年旧6月28日建之)
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17.5
拝殿向拝蟇股・木鼻等。
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不動明王とありました。
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奥の院の案内板に『橋野の沢のお不動さんの祭の日には、昔からたとえ三粒でも必ず雨が降るといわれている。それは、昔、祭の前日に海から橋野川を上って一尾の鮫が参拝に来て、社の前の滝つぼに入った。ところが、祭の日はあまりにも天気が良くて川の水が乾き海に帰れなくなり、天から雨を降らせてもらって、水かさを増やさせて帰っていった。その由来があるので、今なおそのように言われている。』とあります
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拝殿内。
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ネット等では不動尊は後に祀られたもので、御祭神は瀬織津姫との情報が多く出てきますが、私がアホなので判然としません。当社に伝わる橋野鹿踊は江戸時代末期に現在の遠野市附馬牛町東禅寺から師匠を招いて稽古・習得し、地元瀧澤神社に奉納するため踊ったのが始まりとするため、少なくとも創建は江戸時代まで遡ります。
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石殿一基・山神。
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社殿横に石段。
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本殿。
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石碑群。
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状態は微妙だったのできちんと見ていません。
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更に石段が裏山に続いていました。
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石段。
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鳥居。
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手水石。
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もしかしてここから奥の院に行けるのかな…
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って思いましたが違いました。
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狐一対(大正9年)
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34.5
稲荷社でしょうね。
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他にも小祠がありましたが何かは不明。
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36.5
なお、奥の院については別記事にしております。
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