
岩手県釜石市橋野町第34地割。橋野川沿い。牧庵鞭牛隠居屋敷跡(ぼくあんべんぎゅういんきょやしきあと)。市指定文化財、平成元年4月27日指定。鞭牛和尚(宝永7年(1710年)~天明2年9月2日(1782年10月8日))は、宝暦5年(1755)、46歳で林宗寺六世住職を辞して隠居し、人々の生活の障害を取り除くために道づくりに生涯を捧げた稀世の禅僧。道路の開削や改修、架橋工事などその延長は400kmに及び、この隠居屋敷跡は鞭牛和尚が道づくりに生涯を捧げることを発願し、終焉した地です。
牧庵鞭牛(Wikipediaより一部抜粋)…牧庵鞭牛は、江戸時代中期に陸奥国で活動した僧。1710年(宝永7年)、和井内村(現在の岩手県宮古市)の農家にて出生。成長後は炭鉱夫などに従事していたが、22歳の時、母の死を機に仏門に入る。1748年、32歳の時に栗林村(現在の岩手県釜石市)曹洞宗常楽寺住職、38歳で林宗寺住職になる。1755年(宝暦5年)、46歳の時に三陸・閉伊地方を襲った飢饉(宝暦の飢饉)の被害のあまりの大きさに直面し、古くから陸の孤島であったこの地方と内陸とを結ぶ道を築く事を決意し、以後は三陸沿岸の海辺道をはじめ、宮古から盛岡に至る往路などの開削に生涯を捧げることとなる。鑿や玄翁といった基本的な道具を使用し、道を塞ぐ巨岩に対しては薪で熱し冷水をかけ、脆くしてから破壊するという当時としては画期的な方法(浮金)を用い、様々な難所を切り開くことに成功する。始めは鞭牛の行為を不信に思っていた住民らも、朝晩雨天構わず己の心身を省みない彼の献身に感銘を受け、次第に協力するようになっていった。1765年(明和4年)には、盛岡藩より長年の開削の功績を称えられ、終身扶持を賜る。鞭牛が開いた、宮古(閉伊)街道と呼ばれる往路は、総延長109kmに及ぶ。現在の国道106号線はこの街道を元に整備されたものである。鞭牛が73歳で没する1782年(天明2年)までに携わった道路は、宮古〜盛岡間の宮古街道をはじめ、吉里吉里〜山田間、腹帯〜南川目間、宮古〜岩泉間、橋野〜鵜住居間などであり、その改修の総延長は、およそ400kmという驚異的な距離であった。
史跡鞭牛隠居屋敷跡…林宗寺六世鞭牛和尚は宝暦五年(1755)五月十日、住職を弟子の得水にゆずり、橋野村太田林の與三郎から寄進された此の地にささやかな隠居所が建てられ、此処に身をひいた。四十六才の時である。以後、鞭牛は「牧庵」と号し、この隠居屋敷の山号を「鶏頭山」と名付けた。宝暦年代は江戸時代の四大飢饉の一つとして大凶作の続いたときで、その惨状を憂いた鞭牛は、地仏に祈り、次々に隠居屋敷に碑を建立し、救民のため、食糧物資の輸送の道作りの悲願をたて、隠居屋敷をあとにして、剣の嶮道や閉伊川筋の開さくをはじめ、各地の道路開発に心血をそそいだ。道作りの旅に明けくれた鞭牛も老令となり、吉里吉里坂の改修を最後として隠居屋敷に帰り、天明二年(1782)九月二日、此の地で座禅往生をとげた。時に七十三才であった。昭和56年9月釜石市教育委員会

牧庵鞭牛隠居屋敷跡(橋野町振興協議会、令和2年11月)…林宗寺六世住職牧庵鞭牛和尚は、人々の生活の障害を取り除くため、道づくりに生涯を捧げた稀世の禅僧である。道路の開削や改修、架橋工事などその延長は400kmにも及んだ。釜石においては、橋野町中村の小枝街道や栗林と橋野の境の剣に道路を開削した。宝暦5(1755)年、鞭牛和尚は46歳で住職を得水に譲り、太田林の与三郎から隠居屋敷としてこの地を寄付された。この隠居屋敷跡は花森庵と呼ばれ、鞭牛和尚が道づくりに生涯を捧げることを発願し、終焉した地である。鞭牛和尚は天明2(1781)年73才、世の平安を祈りつつ、この地に坐禅往生(即身成仏)したとも、病死したとも言われている。この碑の下には鞭牛和尚の血書一字一石があるとされている。

牧庵鞭牛関連地図。
鞭牛和尚石像(宝鏡院(宮古市)所蔵)

剣の鞭牛開削石碑群

鞭牛使用道路開削工具一式(宮古市新里生涯学習センター玄翁館所蔵)

鶏石山林宗寺歴代住職の墓所

屋敷跡の一角に忠魂碑等がありました。

忠魂碑。

昭和53年8月吉日戦歿者芳名碑建設協力者名碑…一、特殊協力者:間宮修二殿(旧姓和田三太郎)、田中石材工業田中広髙殿。一、一般協力者:菊池正明外269名。一、碑文揮毫者:鈴木民雄殿

戦没者芳名碑…吾郷土を後に勇躍出征せられ、波涛万里の炎熱酷寒を克服苦斗され一身を国家に捧げられた諸英魂の功績を偲び永く後世に伝承せんと戦没者芳名碑を建立す。昭和53年8月7日、橋野町出身者並びに町民一同


史跡牧庵鞭牛和尚一字一石血書供養塔標柱。

牧庵鞭牛和尚一字一石血書供養塔

以下、鞭牛道路普請年表(みやこ百科事典(ミヤペディア)より一部抜粋)
【宝暦の宗教家、牧庵鞭牛と道路開発】…牧庵鞭牛は宝永7年(1710)に和井内の農家に生まれた。出家し仏門に入った年齢は諸説あるが、延享4年(1747)に37歳で橋野村林宗寺の六世となっている。以後禅宗の僧として住職を努めた鞭牛だったが、宝暦5年(1755)に起こった南部藩の大飢饉の惨状に生活道路の重要性を痛感、林宗寺住職を引退し、隠居の身となり天明2年(1782)に没するまでの三十数年間を道路開発にささげた。鞭牛の開削した道路は現在の国道106号線である閉伊街道をはじめ、当時の南部領内の重要道路に立ち塞がっていた難所開削で総延長距離は400キロにも及ぶとされる。鞭牛は自ら工事施工にあたり陣頭指揮をとっていたほか、工事に必要な資金や労力の調達も行っていた。また、工事や供養のひと括りとして宝暦12年(1762)山田袴田に六角塔を建立しているが、その間の各工事は完成後に建立された道供養碑の日付から憶測すると、もの凄いスピードで進められており、この時期の鞭牛は1箇所に集中してではなく各地区を移動しながら同時進行で工事していると思われる。また、領内の難所を次々と開削してゆく鞭牛に対して明和4年(1767)南部藩では年間15貫文の扶持を終身保証している。当時は各時代、情勢により変動相場ではあったが1貫文は約、銭4千文であり、4貫文で金1両とされていた。これに鞭牛の扶持を当てはめると毎月約1・25両を得ていたことになる。このことから鞭牛は道路工事や難所開削を代官所から南部藩へ積極的に働きかけていたと考えられる。また、工事に伴う木材調達や施工に伴う伐採によって産出した木材などの処理や申請などが行われていたはずであり、名僧鞭牛のもうひとつの側面は嘆願書や申請書など各種証文作成に長けた事業家であったという面も考えられる。また、托鉢などの宗教活動による資金集めや、時の豪商、豪農に招かれての先祖供養や筆の披露などもあったろう。【林宗寺住職を退き隠居となって道路開発に打ち込む】…宝暦元年(1751)、42歳となった牧庵鞭牛はその後の人生の全てを道路開発と難所開削にかける決意をしたという。それから12年経った宝暦12年(1762)、その成果を記念して山田村袴田に六角塔を建立している。石碑の六面にはそれぞれ次の文字が刻まれる。「道橋普請供養 普請悪所難百八ヶ所 和井内村薬水湯開起 人足六万九千三百八十四人 宝暦元年より十二年迄願主林宗寺六世牧庵鞭牛和尚 石工仙台八幡町和泉屋三左衛門」。六角塔の「六」は仏教で言う六観音、六地蔵、六道輪廻などを象徴しているが、鞭牛が自らが綴った歌集『忘想歌千首』の中で、大日如来の霊魂思想でもある不生不滅の絶対的価値観とされる地・水・火・風・空・識(心)の「六大」を意識しており、この思想が仏教であり修験にも通じる六角の石碑建立へと到達したと考えられる。
【鞭牛道路普請年表】
延享4年(1747)牧庵鞭牛林宗寺六世となり晋式挙行
宝暦2年(1752)10月 花輪村北川目に念仏供養塔建立
宝暦5年(1755)3月12日 滝本橋供養右成就
宝暦5年(1755)5月10日 鞭牛林宗寺住職を引退、隠居となる。大乗妙典一字一石血書供養の供養碑建立。船越大浦大網の岩窟で血書供養、南無阿弥陀仏碑建立。山田大沢袴田に南無阿弥陀仏碑建立。荒川村穴乳洞窟に母子観音建立開山。花輪村長沢南川目の岩窟を開き壇毒山として開山。
宝暦6年(1756)天地二巻二千首の忘想歌集完成
宝暦8年(1758)閉伊川街道の難所工事着手
仝3月27日 腹帯大淵難所開削、供養碑建立(紛失)
仝4月7日 下川井の難所開削、道供養碑建立
仝4月19日 古田さらつほの難所開削、道供養碑建立
仝4月28日 茂市村袰地ふぐとりの難所開削、道供養碑建立(紛失)
仝5月3日 蟇目大平熊の穴の難所開削、道供養碑建立
仝5月15日 川井村川内淵の上の難所開削、道供養碑建立
仝5月15日 南川目十三仏霊場に大般若理趣分の一字一石血書供養碑建立
仝5月17日 川井村巻淵の難所開削、道供養碑建立
仝10月10日 茂市村袰地の新道開削、道供養碑建立
宝暦9年(1759)3月15日 花輪村長沢に架橋、道供養碑建立
仝3月20日 橋本三石大明神供養碑建立
仝3月25日 花輪村長沢北川目の難所開削、道供養碑建立
仝5月8日 川井村袰岩の難所開削、道供養碑建立
仝7月1日 川井村岡村の難所開削、道供養碑建立
仝10月10日 蟇目村さくみないの難所開削、道供養碑建立
宝暦10年(1760)2月28日 和井内安庭の薬水発見開起。3月にかけて和井内本村から安庭までの道を開削
仝3月16日 船越山の内に南無阿弥陀仏碑建立
仝3月28日 船越山の内の難所開削、道供養碑建立
宝暦12年(1762)川井村川井の難所開削、道供養碑建立宝暦元年から道路開削を決意して12年目の節として山田袴田に六角塔建立
明和2年(1765)2月28日 織笠村から大槌町へ通じる裏街道開削、道供養碑建立。
仝3月3日 織笠村から山田村へ越える道路開削、道供養碑建立。宮古町の閉伊川七戻りの難所を開削、道供養碑建立
明和3年(1766)鞭牛、宮古閉伊崎の黒崎大明神に宝剣三振り寄進
明和4年(1767)4月10日 織笠川に架橋、道供養碑建立。鞭牛の功績に南部藩は終身扶持15貫文を約束する
明和6年(1769)5月16日 宮古岩泉間の有芸街道を開発。宮古町田代街道を開発、臼杵に南無阿弥陀仏碑建立。山田町三本小松に南無阿弥陀仏碑建立
安永6年(1777)8月8日 橋野村鵜住居間の道路開削、道供養碑建立
安永7年(1778)1月15日 小槌川に架橋、大槌鵜住居間の御廟坂の難所開削、道供養碑建立
安永8年(1779)鞭牛70歳。古希の祝宴開かれる。隠居屋敷に石碑建立
天明元年(1718)吉里吉里大槌間の道路改修工事を行う
天明2年(1782)9月2日 牧庵鞭牛和尚死去、享年73歳



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