『黒森神社 (宮古市)』からの続きです。


樅(モミ・マツ科)自生ノ北限地…『推定樹齢1,300年位。日本樹木保護協会代表、樹医山野忠彦先生の鑑定結果。平成2年10月』

手水石。

社務所。

神楽堂。ここに伝わる黒森神楽は、正月になると巡業し、祈祷の舞を演じます。神楽は平成18年(2006)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
宮古市HP「黒森神楽の歴史」より一部抜粋…『【黒森神社と権現様】標高330メートル余りの黒森山は、宮古市街地の北側に位置し、かつては、その名が示すように一山が巨木に覆われ欝蒼として昼なお暗い山であったという。山頂に大きな杉があり、宮古湾を航海する漁業者などの目印(あて山)ともなったことから、陸中沿岸の漁業・交易を守護する山として広く信仰を集めてきた。黒森山麓の発掘調査により、奈良時代(8世紀)のものとされる密教法具が出土し、黒森山が古代から地域信仰の拠点であったことが窺われる。黒森神社は近世(江戸時代)までは、「黒森大権現社」などと呼ばれ神仏習合の霊山であった1334(建武元)年の鉄鉢(県指定)をはじめ、1370(応安3)年からの棟札が現存し、歴代藩主によって手厚く守護されてきた。権現様(獅子頭)は、南北朝初期と推定される無銘のもの、1485(文明17)年のものをはじめ、20頭が「御隠居様」として保存されている。黒森神楽の起源や巡行の始まりは不明であるが、1678(延宝6)年には現在のような範囲を巡行していたことが、盛岡藩及び地元の古文書で確認できる。【シットギ獅子~神楽の巡行】黒森神楽は、正月になると黒森神社の神霊を移した「権現様」(獅子頭)を携えて、陸中沿岸の集落を廻り、家々の庭先で権現舞を舞って悪魔祓いや火伏せの祈祷を行う。夜は宿となった民家の座敷に神楽幕を張り夜神楽を演じて、五穀豊穣・大漁成就や天下泰平などの祈祷の舞によって人々を楽しませ祝福をもたらしている。この巡行は旧盛岡藩の沿岸部を、宮古市山口から久慈市まで北上する「北廻り」と釜石市まで南下する「南廻り」に隔年で廻村し、近世初期からその範囲は変わっていない。こうした広範囲で長期にわたる巡行を行う神楽は、全国的にも類例がなく、貴重な習俗が現在も継続されていることから、平成18年3月に国の重要無形民俗文化財に指定された。【恵比寿舞~演目】神楽宿で夜神楽をする場合は、「打ち鳴らし」に始まり、必ず舞わなければならない祈祷的色合いの濃い役舞と、天照大神の出現をテーマにした岩戸系と御神楽系の演目が中心となる。道化が登場する狂言をはさんだ後、地域の生業に結びついた「山の神舞」と「恵比寿舞」を舞い、最後に劇仕立てで勧善懲悪的物語の仕組みで観客を楽しませて幕を上げる。【岩戸開き~神楽暦】1月3日神おろし(黒森神社境内)、 舞初め神楽(山口公民館)1月4~5日、門打ち(山口地区)3月上旬まで陸中沿岸各地を巡行、7月第3日曜日黒森神社例大祭、12月第1日曜日 舞納め神楽(山口公民館)【黒森神楽展示室(山口公民館内)】平成22年4月に山口公民館の新築に伴い その中に黒森神楽展示室として年間を通して、市民の皆様に神楽に親しんでいただくために展示室を整備しました。展示室では、視聴覚資料「黒森神楽~その巡業と儀礼~」の上映(上映時間15分)があります。』

狛犬一対(平成16年7月吉日、山口太鼓宗家佐々木清・妻幸子納之)


石灯籠一対(嘉永4年9月吉日)
石灯籠二基(明和9年3月吉日、寛延3年6月14日)
こちらは不明。

社殿前に前の本殿跡。


御本社旧跡。

「黒森の神々に感謝」山口太鼓


「本艦は貴船の美しさを葬むるに忍びず安全なる航海を祈る 昭和20年1月5日 伊号十二潜 艦長 海軍大佐 工藤兼男 宮古市鍬ヶ崎上町 海軍兵曹長 川原田良一 宮古市山口五ノ十八」

海の男のロマン…『昭和20年1月5日 連合軍の輸送船として航海していた美しい帆船パミール号の前方に 突如浮上したのが日本潜水艦であった 艦長はパミール号に停船を命じ 砲をぴたりと向けしばらく双眼鏡で注視していたが やがて「本艦は貴船の美しさを葬るに忍びず安全な航海を祈る」と信号を発してそのまま海中に消えていった そしてこの潜水艦は数日後乗組員100名と共に消息を断った この日本海軍の潜水艦こそ伊12号であり当時39才の艦長工藤兼男海軍大佐である ・信号を命じた艦長 信号を送った通信士は川原田良一兵曹長であったと思はれる・神々しい美的感覚と崇高な人間愛を感じる・伊号12潜の鎮魂をこいねがいこの碑を建てる 平成4年10月吉日 工藤兼男 川原田良一をしのぶ会代表摂待壮一』

黒森神社御本殿修復・神楽堂新築篤志者芳名碑(令和2年11月吉日、黒森神社神楽堂奉賛会建立)

狛犬一対。
石灯籠(寛延4辛未年)

あれ?一対じゃなく全部年代が違うかも。

っていうか…たくさんあります!


本殿。
宮古市指定文化財「黒森神社本殿」(平成2年7月19日指定)

御祭神は須佐男命、大己貴命、稲田姫命。例祭日旧6月14日。
由緒…『垂仁帝の皇子、是津親王の勅勘によりこの地に左遷されたという。今按ずるに、垂仁帝の御代、景行天皇の皇子の是津親王ならん。幾春秋経るも帰洛の勅許なく憤烈に堪えず、その年の6月14日納涼の折、岩山より身を海底に投じるという。この日帝都より勅許の勅使この地に至れりと古伝にあり、土人等尊骸を探し得て、その霊柩を黒森山上の約50坪余りの小立の古木四面の鬱蒼たる処に葬送し標石を立て祀る。その後、田村麻呂将軍が夷賊討伐の折、この地に来たり土人に問尋し敬拝不浅。而してこの地に新たに神殿を創立し黒森山大権現と尊称さる。建久元年(1190)6月14日再建の棟札、また南部家応安3年(1370)造営の棟札等があり、以来連綿として旧領主南部家の代拝を受け、上閉伊・下閉伊の尊崇を専ら受ける。』
Wikipediaより一部抜粋…『黒森神社(くろもりじんじゃ)は、岩手県宮古市に存在する神社。重要無形民俗文化財の黒森神楽が舞われるほか、『権現様』と呼ばれる岩手県の指定文化財にもなっている獅子頭が多数保存されている。【主祭神】素戔嗚尊、大巳貴命、稲田姫命【神体】黒森山(神体山)【別名】黒森権現社【例祭】7月第3日曜日【主な神事】黒森神楽【歴史・概要】宮古市中心部から北に2km程の位置にある、標高310.5mの黒森山の山中に存在する。黒森山の麓の遺跡からは奈良時代のものとみられる密教法具が出土しており、古くから霊山として地域の信仰を集める場所であった。明治以前は『黒森権現社』と呼ばれ、千手観音を祀っていたとされる。古くから山伏の修行の場として栄え、社に伝わる重要無形民俗文化財の黒森神楽はこうした修験者により伝えられてきた、東北地方に多く残る山伏神楽の代表的なものである。建武元年(1334年)の鉄鉢や南北朝時代のものとみられる獅子頭など多くの文化財も残されており、また当時の支配者であった南部氏の名の見える室町時代の棟札も存在するなど代々盛岡藩主からの信仰も厚く、社殿の再建や修復に援助するなどの保護を受けてきた。』
黒森神社本殿(宮古市指定有形文化財(建造物)平成2年7月19日指定、年代:江戸時代 嘉永3(1850)年)…『黒森神社を擁する黒森山(標高310メートル)は、かつては一山が巨木に覆われ、鬱蒼として昼なお暗い山であったと言われています。黒森山は宮古湾で漁をしたり、航海する際の「当て山」(目当て)となったことから、旧盛岡藩閉伊郡の中でも代表的な神社として信仰を集めました。黒森神社は、「黒森山大権現社」「黒森観音」などと呼ばれ、地元の修験者(山伏)が修行する神仏習合の霊山でもありました。黒森神社の権現様(獅子頭)を捧持して巡行を行う、黒森神楽(国指定重要無形民俗文化財)は、この本殿前で神おろしの権現舞を舞って旅立ちます。現在の本殿は嘉永3年に再興されたもので、「黒森山御普請始終之留」(くろもりさんおんふしんしじゅうのとめ・市指定文化財)によると、本殿の造営は、宮古代官所が主体となり、江戸の廻船問屋や宮古・鍬ヶ崎の漁業関係者、管内の村々から金品が寄進されたことがわかります。精巧で堂々とした造りに美麗な彫刻を施し、当地方でも随一の歴史的建造物と言えます。』平成21年9月1日宮古市教育委員会

黒森神社本殿立面図。

護摩堂跡。

山神。

コリュウシンノウ堂跡。

こちらは不明。

白山神社。
稲荷神社。
御本殿銅板葺替記念(昭和9年旧6月14日)

黒森神社境内整備資金寄進者芳名碑。

虚空蔵宮(昭和50年旧6月14日造営)

三ノ王子(昭和54年旧6月14日)

一ノ王子(昭和54年旧6月14日)

二ノ王子(昭和54年旧6月14日)

お不動さま。
片目不動尊です。衆生の眼病を救う霊験あらたかといいます。
薬師神社。



薬師水。


『薬師の水は、祖父杉・祖母杉を源としている。往古、山伏の禊ぎの滝(蚊龍の滝)があったと伝えられ、現在に至るまで、薬師水(アルカリ性)として愛用されています。』

「御祖父杉(枯死)御祖母杉、約130米うえ」…行きませんでした。

ちなみに市内展望地まで290m、一本杉跡まで430m、黒森山(海抜310.5m)まで720m。



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