岩手県宮古市山口第4地割。一之鳥居(大鳥居)は宮古市黒森町4にあります。結構離れています。※鳥居神額(明治42年9月吉日仙臺處士源守庸敬書※昭和62年6月吉日再製)※黒森町…昭和49年~現在の宮古市の町名。元は宮古市山口字田の神前・中谷地の各一部。町名は北部にある黒森山中腹にある旧村社黒森神社登り口の沢に由来。

黒森山案内図(平成3年6月吉日、檜奉納:川目正明、作:沢田竹治)…『【解説(一)】黒森山は神奈備系神体山(低山・優美・分水嶺)で二千年前から閉伊全域の信仰の対象とされて来た山である。平安~鎌倉期に神仏習合の影響をうけ、本地仏聖観音として定着し、人の世の苦難救済の本願所となった。室町期にその権現として獅子頭が奉納され農閑期には毎年豊作を祈念して村々を巡行した。現在二十数頭の獅子頭が保存(大半が県指定有形文化財)されていることは全国的にも珍らしい。元文4年(1739年)迄は文字通り黒森で直径1m~4mの巨杉巨松等が百数十本あった。義経・弁慶主従が黒森の滝で3年3月の行をした伝承もこのあたりから生れたものであろう。真言密教の祈願社として南部藩主から篤く崇敬されてきた。岩手県指定有形文化財:獅子頭(権現さま)16頭(昭和58年12月13日指定)、岩手県文化財指定:黒森神楽(昭和62年3月指定)、宮古市指定文化財:黒森神社本殿(平成2年7月19日指定)【解説(二)】黒森山内図は資料に基き(一部伝承)作製したものである。黒森山は、旧参道を登り、いたこ石から「古黒森」に至る道中が素晴らしい。「古黒森(こくろもり)」は黒森祭神の始まりの場で古墳と推定される。後年御本社旧殿跡、現社殿へと移転した。現社殿は嘉永3年(1850年)の建立。【記号】一、坂井戸で口を嗽ぎ 二、いたこ石(結界石)より先が神域(女人禁制となる)・(イ)観音堂(ロ)御本社跡(古黒森より移転)(ハ)鐘樓(ニ)本殿(移転三度目)(ホ)コリュウシンノウ堂(ヘ)稲荷堂(ト)不動明王堂(チ)薬師堂(薬師水)(リ)千年杉跡(ヌ)護摩堂(ル)白山堂(ヲ)祖母杉(ワ)藩公腰掛石(カ)蚊龍の滝跡(ヨ)祖父杉(タ)一本杉跡』文責:伊藤麟市

旧二之鳥居の場所になります。ちなみに案内図(古文書によって復元した黒森山の絵図)によりますと参道には大鳥居の先に物見舘、山口館、黒森別当屋敷、養命山赤龍寺、カネツキ沢、龍命山安泰寺、その隣の道に拝殿ヶ沢、鐘楼、拝殿峠、更にその隣の道に御体石(利敬公腰掛石)、法務局、旧二之鳥居に踊り場(芝居小屋)、一王子堂、二王子堂、三王子堂、坂井戸、虚空蔵堂、籠掛場、河童沼、地震観測所等々が紹介されていますが、写真を撮っていなかったために省略致します。
袴石跡。

『伝説によれば、黒森御本社の御神体の袴部分が石と化したものと伝えられ、昭和初期までは正月と祭日には注連縄を飾り、参詣人に尊崇されていた。』

紫陽花の道…『豊かな森林づくりをめざして黒森山に適したあじさいの苗木を一関市のみちのくあじさい園より購入し、黒森神社参道にこれを植え付け、その目的達成を計ろうとするものであり、この事業は、平成11年に、岩手県緑化推進委員会の補助を受けて行ったものである。平成21年7月吉日』

一番初めに咲くヤマアジサイクレナイ7月下旬、最後に咲く純白玉アジサイ8月下旬。

参道(紫陽花の道)及び参道の石碑等。


おくに自慢(中嶋隆作)…『おくに自慢を甚句によめば 宮古の文化は黒森より霊異(くし)ふる老翁杉(おじすぎ)姥杉(おばすぎ)で夜が明ける 今も昔も変わりない黒森社(やしろ)の神さびて 神の舞の数々よ権現舞(ごんげんまい)や恵比須舞(えびすまい) 粢獅子(しつとぎずし)や山の神 心の安らぎは巫女(神子)舞よ 千古の竪穴住居より出です錫杖(しゃくじょう)・三鈷鐃(さんこにょう) 如何なる修験者の持物か 山口館と黒森はロマンを秘めたる鎮守の森よ 血湧き魂の昂ぶるは山口太鼓の桴捌(ばちさば)き 永遠(とわ)の生命(いのち)に名を残す 粋で旺(さか)んなその姿 詩(うた)の心の方水(ほうすい)が種子(たね)大根の花を詠いしは 色が白くて器量よくて山口娘の顔(かんばせ)よ 眞の著者は陸中の山口生れの善平(ぜんぺい)と ヒューマンドキュメント綴りしは 蘆花の著(しる)せしたる寄生木(やどりぎ)よ これぞ山口のよ誇れる遺産(もの)よ』

黒森神社紫陽花の道…『この周囲は、埼玉県の春日部共栄中学校の皆さんが、植樹した紫陽花です。平成16年8月1日14名、17年7月31日26名、18年7月30日98名参加。紫陽花の種類は、下記の通りです。・甘茶・チャプリット・マリンブルー・隅田の花火・白ヤマアジサイ・城ヶ崎・アナベル・サンガイヤ・ピンクシャワー・スカイブルー・クレナイ』設置H22年6月吉日


黒森神社(漁業・交易の守り神)…『黒森神社のある黒森山は、宮古湾を航海する漁業者などの目印ともなったことから、陸中沿岸の漁業・交易を守護する山として漁業者や地域の人々の信仰を集めてきました。ここに伝わる黒森神楽は、正月になると巡業し、祈祷の舞を演じます。社殿は、平成2年(1990)に市の有形文化財、神楽は、平成18年(2006)に国の重要無形民俗文化財に指定されました。』

黒森神楽。

山口は閉伊川最下流左岸、同川支流山口川流域に位置。地名の由来は黒森神社が鎮座する黒森山の登山口にあたることによると伝えます(下閉伊郡志より)。室町期の山口は閉伊郡北方のうち。「永正五年馬焼印図」(古今要覧稿)に「山くち 印筒たてのてんをやめ委細別紙に絵図のおもてにみえたり」とあります。室町期山口の牧から京進された馬には筒印が付けられていたことが知られています。当地北方、黒森山上の黒森神社には応安・応永・天文・天正・慶長の棟札があり、近隣の豪族が檀那として名を連らねています。そのうち応永11年の棟札には「大檀那沙弥禅高、俗名南部大膳大夫源守行」と並んで「当郷主、山口館小笠原肥後守保信」の名が見えます。この小笠原氏は当地の領主。閉伊源氏の支族。天文10年には「旦那小笠原備中守源盛清」、天正年間にも「小笠原成清」が見えます。小笠原氏の系譜は「系胤譜考」にあります。同書からは小笠原助三郎が南部信直に出仕、天正10年偏諱を賜わって直清と名乗ったこと、その子孫は山口村に300石を下し置かれたことなども知られています。山口和見館間の経塚碑は著名。「五部大経一石一字雲公成之永和第二」と南北朝期の年紀が知られています。山口館は黒森山の中腹にある典型的な山城。物見を兼ねた主郭の下に副郭・二の郭・三の郭などがあります。郭は空濠で仕切られています。更にその下方にも館があって主郭・副郭・二の郭などが残されています。140m×130m。標高130m。館の脇、黒森神社の下にあった安泰寺の鐘銘には「大檀那民部大夫源長時」の名が見え、南北朝期の貞治4年の年紀がありました。
江戸期の山口村は閉伊郡のうち。盛岡藩領。宮古通に属します。村高は正保郷村帳163石余(田141石余・畑21石余)、貞享高辻帳203石余、邦内郷村志279石余(うち給地65石余)、天保郷帳229石余、安政高辻帳203石余、旧高旧領307石余。天保8年の御蔵給所惣高書上帳によりますと村高279石余のうち蔵入地204石余・御免地高9石余・給地65石余。邦内郷村志によりますと家数70、うち本村を除く集落別内訳は赤畑11・駒込14、馬111。本枝村付並位付によりますと位付は中の下、家数73、集落別内訳は本村29・赤畑ケ12・駒込8・馬子舞5・町川目8・神田12・沢田1。元治代官所調では家数72(うち馬子舞2)。神社としては大同2年坂上田村麻呂の建立と伝える黒森大権現、寺院としては元亀年間青嵓文中の開山と伝える慈眼寺があり、他に永和2年雲公の創立と伝える経塚碑があります。明治元年松代藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同11年の村の幅員は東西約25町・南北約1里20町、税地は田31町余・畑66町余・宅地3町余・切替畑11町・荒地2畝余の計113町余、戸数70・人口359(男169・女190)、牛16、馬70、職業別戸数は農業67・雑業1、物産は馬・鶏・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・黍・栗子・梨子・楢子・松・桐・栗・藍・麻布。同12年東閉伊郡に属します。同22年山口村の大字となります。はじめ東閉伊郡、明治30年からは下閉伊郡に所属。山口・田代・近内の3ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を編成。役場は山口に設置。戸数・人口は明治22年253・1,682、同32年246・1,826(男927・女899)。同41年28歳で病苦と失恋によりピストル自殺した小笠原善平は、徳富健次郎(蘆花)の小説「寄生木」の主人公篠原良平のモデルで、明治14年山口に生まれ軍人となり、乃木希典将軍の高風に感化された青年でした。墓・記念館は曹洞宗慈眼寺にあります。大正9年世帯数305・人口2,364(男1,261・女1,103)、同11年の世帯数392・人口2,517(男1,378・女1,139)、職業別戸数は農業148・商業16・工業20・製炭業130、物産は米905石・麦2,033石・大豆908石・稗2,576石・馬鈴薯1万6,800貫、家畜頭数は牛4・馬21・鶏360、鶏卵6,660個・牛乳300石、世帯数・人口は昭和5年447・2,594、同10年486・2,854。同16年宮古市の一部となり村制時の3大字は同市の大字に継承。
こちらの建物は…

イタコ石。
イタコ石…『当時、黒森神社は女人禁制のお山であった。何処よりか行脚の巫女来り、女人禁制の当山に登らんとす。麓より銭橋をかけて登しが、村人その下山の遅きを怪みて尋ねしにこのいたこ石の所にて銭橋絶え草履を残して行方不明となりしかば、村人隣みてこ処に石碑を建立せしものなりと。●慶安3年(1651年)造立。●1尺8寸の石碑、文字などは流れて見えず。●銭橋、道に銭をしきて渡ること。●旧道の峠より昭和50年移す。●平成6年5月吉日、祠を建てる。』

参道。

黒森山は宮古市の市街地北部にある山で標高310.5m。杉の老木に全山が覆われています。中腹に修験者の霊地であった黒森神社がありこの地方の住民信仰を得ています。また、当山は海上交通の目標にもなっていました。

鳥居。
赤龍池に架かる橋を渡ります。
赤い龍らしきものがいました。

左手には弁天堂があります。


社殿前の御神木が迫力あります。
参道を振り返るの図。

黒森神社のある黒森山はその名が示すように山が巨木に覆われて欝蒼とし「昼なお暗い山」だったと言います。
山頂に大きな杉があり、宮古湾を航海する漁業者などの目印ともなったことから陸中沿岸の漁業・交易を守護する山として漁業者や地域の人々の信仰を集めてきました。
榧(かや)
榧(イチイ科)…『推定樹齢1,300年位。日本樹木保護協会代表、樹医山野忠彦先生の鑑定結果。平成2年10月』

巨木に囲まれていますね。
長くなりましたので『黒森神社 (宮古市)~其之弐』へ続く…



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