
岩手県久慈市大川目町第8地割。
久慈琥珀博物館から比較的近い場所です。

大川目は黒森山の東南、久慈川中流域に位置。標高24m。地名の由来は弘仁期の宇漢米(うかめ)公の宇漢米より大川目になったと伝えます。北部の新町の高台には中世久慈周辺を掌握していた久慈氏の居館跡があり新町館(久慈館)跡と称しています。同館には鎌倉初期南部三郎光行三男の三郎朝清が居住しましたが、後に七戸城に移ってからは久慈氏が居住しており、文禄元年久慈修理の代に廃館になったと伝えます。江戸期以降の大川目村は九戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。寛文5年から久慈通長内名主組に属します。村高は正保郷村帳419石余(田237石余・畑181石余)、貞享高辻帳519石余(田327石余・畑191石余)、元禄10年郷村御内所高帳1,053石余、天保郷帳868石余、旧高旧領1,096石余。寺社としては時宗遍照山慈光寺・曹洞宗長床庵・山口八幡宮・神明宮が見えます。慈光寺は清浄光寺(藤沢市)、長床庵は長福寺(久慈市)のそれぞれ末寺でした。長床庵は享保17年の開山、山口八幡宮は天暦10年の創建、神明宮は元文元年の勧請と伝えます。天正年間に当地は市場町として栄え、久慈之内三日町とも称されていました。延宝5年に三日町は50軒残らず全焼しており、元文2年には47軒が焼失し、明和8年には68軒が焼失する大火がありました。享保20年には岩井沢の鉛山証文が取り交わされています。明和3年、三日町の惣次郎は領内の鉄問屋を一手に引き受けることを願い出て、1ヶ年100両の礼金を上納することとなりました。天保5年に三日町付近から百姓が騒動を起こしています(八戸市史より)。明治4年八戸県、以後弘前県、青森県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年南九戸郡に属します。明治4年上大川目村、同5年上大川目村・下大川目村などと見え、上・下2ヶ村に分かれて扱われることが多くなりました。同6年大川目小学校、同10年大久保小学校(山口小学校の前身)、同11年馬内小学校(根井小学校の前身)がそれぞれ開設。明治12年の村の幅員は東西2里11町・南北1里10町、税地は田121町余・畑451町余・宅地68町余など668町余、戸数655・人口3,536(男1,822・女1,714)、牛502・馬722、舟5、石炭鉱3・琥珀鉱1・金鉱1・銀鉱1・砂鉄鉱2、神社4(大神宮・火産霊神社・巽山神社・神明宮)、寺2(長福寺・長床庵)、字中小路の公立小学大川目学校の生徒数18(男子のみ)、字八日町の公立小学久慈学校の生徒数76(男62・女14)、他に字谷地には第21大区1番扱所、字八日町には私立碩隆病院が見えます。職業別戸数は農業489・工業56・商業91・雑業11・僧侶4・神官4、物産は牛・馬・鮭・米・稗・大豆・小豆・粟・清酒・濁酒・柿・麻糸、地味は全村黒色土で、南・中・東部は上・中位、他は下位。明治17年、三日町を中心とした地域は上大川目村、八日町を中心とした地域は下大川目村として2ヶ村に分村。明治22年の大川目村ははじめ南九戸郡、明治30年からは九戸郡に所属。上大川目村と繋村の一部(馬内・滝)が合併して成立。上大川目・繋の2大字を編成。役場を三日町に置きました。日清戦争による死者2・日露戦争による死者8。大正12年の戸数390・人口2,608、田54町余・畑322町余・山林2,307町余・原野1,092町余、職業別戸数は農業298・商業17・工業62・交通業3・自由業10、物産は米111石・麦5,601石・小豆84石・大豆3,249石・粟92石・稗3,686石・蕎麦112石・大根4万6,750貫・馬鈴薯5,940貫・果樹2,565円・繭5,258貫・酒類650石・真綿15貫・木製品1,200円・麺類1,440円・下駄足駄1,800円・薪1,200棚・炭47万9,520貫(11万9,600俵)、家畜頭数牛10・馬187・豚65・鶏650・家兎50・山羊3。昭和5年の世帯数445・人口2,365、田61町余・畑320町余。同14年の世帯数500・人口2,987。第二次大戦による死者80。同22年大川目中学校、同29年滝中学校開設。同29年の世帯数635・人口3,832、同年久慈市の一部となり村制時の2大字は同市大川目町となりました。大川目町は第1~38地割。地内は生出町・仲小路・千草・三日町・砂子・森・山口・中田・田子内・新町・田中・根井・滝に分かれています。地内の中央部を流れる久慈川右岸は住宅地、左岸は水田地帯ですが住宅地に変わっていきました。長内川の滝ダムは滝地内に貯水。昭和35年の世帯数698・人口3,394。

参道にはここまで2基の鳥居がありますが、長さ的にかつてはもっとあったのかも知れません。
参道石段上。

灯籠一対。
参道を振り返るの図。
狛犬一対(嘉永2己酉天6月吉日)
境内からの眺望。
ちなみに上記の参道は北方ですが、東方(久慈市大川目市民センターから久慈琥珀博物館へ至る道の途中)にも参道があり、そちらから来るとすぐに着きます。



手水舎?

御祭神は豊受姫尊。例祭日8月17日。
こちらの建物は不明。

社殿。
神社庁より…『創立は元文元年(1736)、神宝の剣がある。三日町の一資産家に占師が告げるに「縁下に宝物埋蔵してあり、発掘して祭祀すべし」との言に依って発掘して、これを神社に奉納せるものと言い伝えがある。尚境内地には日清・日露戦没者の忠魂碑一基と、太平洋戦争の慰霊碑一基を奉斎している。』

拝殿内。


忠魂碑・慰霊碑。

忠魂碑(碑文省略(※読み取れます)明治39年7月17日、岩手縣田口小作撰、青森縣源晟書)

慰霊碑…『大東亜戰爭終戰三十周年を迎え満州事変より終戰までの戰歿勇士七十九柱を合祀し英靈の冥福を祈り其の武勲を顯彰すると共に日本國の繁榮と世界恒久の平和を念願して此の碑を建立する(以下、省略)』



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