花巻市には、永い歴史とともに伝承されてきた神楽が多くあり、そうした神楽を次の世代に伝えることと、多くの人が体験できるように、昭和56年岳神楽の伝わる早池峰神社近くに建てられました。

館内へ。
館内には、神楽を練習するホールと、神楽の道具や衣装、そして早池峰大権現を祀る岳妙泉寺関係の貴重な資料が展示されています。
当記事ではほんの一部のみの紹介になります。


現地にてじっくりとお楽しみください。貴重なものがいっぱいです。
以下、写真と一部説明板のみ。
早池峯神社と嶽(岳)妙泉寺(早池峰神社の歴史)…『早池峯神社は、江戸時代までは嶽妙泉寺の奥宮で、新山宮と呼ばれていた。嶽妙泉寺は、正安2年(1300※正中2年(1325)説もあり)に越後の僧・圓性阿闍梨が早池峰山に霊威を感じて麓に寺を建立したのが始まりと言われている。中世には二度の火災に遭って疲弊していたが、江戸時代になって南部氏がこの地を治めると、早池峰山を盛岡城東の鎮山として重要視し、慶長15~17年(1600~12)にかけて新山宮・客殿・本宮・薬師堂・舞殿・鳥居などを整備し、城下以外の寺としては最大の150石と三十六箇山を与えた。延宝2年(1674)には京都仁和寺の全国八カ寺の末寺になるなど格式高い寺として江戸末期まで続いた。しかし、明治初年に出された「神仏分離令」により、嶽妙泉寺は廃寺となり、奥宮であった新山宮は早池峯神社と改め現在に至っている。』・早池峰信仰とは(早池峰信仰と参詣への道)…『北上山地のほぼ中央部にそびえる早池峰山は、古来から麓の農民にとっては作物に水をもたらす豊作の神であり、三陸の漁民にとっては沖から船の位置を知らせてくれる「山あて」として豊漁と船の安全を守り、猟師や杣人(そまびと)にとっては山の恵みをもたらしてくれる山の神であった。仏教が広まると、北上川流域からは「東根(東子、東峰)嶽」と呼ばれ、東方浄瑠璃浄土の教主である薬師如来の山として、現世利益の信仰も広まったと考えられている。その後、近世になって南部氏が領有すると、盛岡城東の鎮山として早池峰大権現を祀り、本地仏を十一面観音として歴代藩主の篤い崇敬を受けた。明治初年になって神仏分離令が出されると、十一面観音信仰は姿を消し、現在四つの登山口に残る早池峯神社の祭神は「瀬織津姫」となっている。』

初代圓性阿闍梨…『嶽妙泉寺の開創は、越後の僧・圓性阿闍梨と伝えられているが、その開創年代には正安2年(1300)説、文保年中(1317~1319)説、正中2年(1325)説があって定かではない。伝承では、圓性は越後より諸国行脚の途次に閉伊郡鎌津田という所へ来て、そこの鎌津田左京という者に早池峰山への道案内を頼み、左京は早池峰まで案内したという。圓性は、快賢が開いた河原ノ坊の堂が白髭水により流されて断絶していることを嘆き、その志を継いで麓の今の地(岳)に再建することにした。まず、新山宮を建立し、仁王像を彫刻し、仁王堂並びに山門、華表(鳥居)を建て、一寺を建立して妙泉寺と名付けた。また、山頂の二宮を再興し、8月17日を以て祭礼の日とした。同道した左京もこの地にとどまり、門前として妙泉寺に仕えたという。』

近世嶽妙泉寺の役割…『藩政時代には、「妙泉寺」という寺は盛岡・大迫・遠野の三ヶ所に存在した。公的記録では「(盛岡)妙泉寺」、大迫は「嶽妙泉寺」または「稗貫妙泉寺」、遠野は「遠野妙泉寺」と記している。嶽妙泉寺と盛岡の妙泉寺を本務とし、盛岡の妙泉寺を兼務する形をとっていた。盛岡城の南東・巽の方向に聳える早池峰山は、早池峰大権現を祀る、盛岡藩主の祈願所であり、嶽妙泉寺の役割は、藩主及び御一統の招福・領内安堵・領民安泰を祈願することであった。盛岡藩内寺院における嶽妙泉寺の席順は、永福寺・聖寿寺・報恩寺・東禅寺・教浄寺・法輪院に次ぐ「七箇寺目」と高く、盛岡城においては御敷居内に入ることを許されていた。』

≪嶽妙泉寺略年表≫
宝治元年?(1247)…【住職】快賢【主な出来事】快賢が東根嶽の霊威を感じ、山麓に一寺を建立して河原ノ坊と号し、さらに新山宮・仁王像(仁王門)を建立。山頂にも大宮と本宮の二社を建立。
宝治元年?(1247)8月16日…【住職】同上【主な出来事】「白髭水」により、山頂の二宮、鳥居、拝殿、河原ノ坊までことごとく流される。
正安2年(1300)・文保年中(1317・8)・正中2年(1325)※諸説あり…【住職】圓性阿闍梨【主な出来事】越後国の僧・圓性阿闍梨が快賢による河原の坊の旧績を継承し、新たに嶽(岳)の地に新山宮並びに仁王像及び鳥居等を建立する。嶽妙泉寺の開基とされる。
文亀元年(1501)1月7日…【住職】阿闍梨快重【主な出来事】新山宮並びに仁王堂等が焼失す。
天文3年(1534)…【主な出来事】江繋領主・江繋正朝が小国氏に敗れ、嫡男・江繋正光が母の故郷大迫氏領の嶽妙泉寺に隠れる。
永禄3年(1560)3月11日…【住職】法印高雅【主な出来事】新山宮・本堂・仁王・鳥居等ことごとく焼失。
永禄年間(1558~69)…【住職】同上【主な出来事】新山堂・鳥居再建。
天正18年(1590)…【住職】同上【主な出来事】豊臣秀吉の奥州仕置により稗貫領主・稗貫氏と共に大迫領主・大迫氏も没落。
天正19年(1591)…【住職】同上【主な出来事】稗貫・和賀地方が南部氏領となり、早池峰山も南部氏の支配地に入る。
文禄3年(1594)4月8日…【住職】同上【主な出来事】嶽妙泉寺の「厨子入早池峰三尊像」の十一面観音台座裏銘に「権大僧都法印 高雅」。
文禄4年(1595)6月吉日…【住職】同上【主な出来事】早池峯神社獅子頭口内銘に「文禄四年六月吉日 本願出羽方 言語道断内 豊後作者」。
慶長4年(1599)…【住職】同上【主な出来事】藩主南部利直が大迫領を田中彦右衛門に賜る。
慶長7年(1602)…【住職】法印宥遍【主な出来事】利直が早池峰山頂の若宮(阿弥陀安置)を再興。
慶長12年(1607)8月4日…【住職】法印快遍【主な出来事】利直より嶽妙泉寺に百五十石を賜り、寺領として三十六箇山を与えられる。
慶長15年(1610…【住職】同上【主な出来事】嶽妙泉寺の再興始まる。同時に要害普請も行う。
慶長17年(1612)…【住職】同上【主な出来事】嶽妙泉寺の新山宮・本宮・薬師堂・舞殿・鳥居・客殿等六社が完成。
慶長年中…【住職】同上【主な出来事】現在の盛岡八幡宮の地に嶽妙泉寺の宿寺を賜る。
承応2年(1653)6月12日…【住職】法印快盛【主な出来事】嶽妙泉寺住持・常法院(法印快盛)の堕落露呈。鬼柳境から仙台領へ追放。
承応2年(1653)8月16・7日…【主な出来事】藩主南部重直重病につき、早池峰山に盛岡城下より三十三騎御代参。
承応3年(1654)7月…【主な出来事】重直が嶽妙泉寺の二階門・大鳥居を再興。
明暦元年(1655)9月2日…【住職】法印快秀【主な出来事】重直が本宮を再興。この時、遠野妙泉寺が早池峰の本山を主張、「早池峰表裏論争」が始まる。
明暦4年(1658)…【住職】同上【主な出来事】遠野妙泉寺が幕府に対し早池峰の本山を訴え出る。延享元年(1744)まで両寺の争いは続く。
万治2年(1659)夏…【住職】同上【主な出来事】山頂の若宮が焼失。本宮は残る。
寛文元年(1661)…【住職】同上【主な出来事】嶽・遠野両妙泉寺は山頂では同格、牛王札配布は遠野が江刺内四箇村、他は嶽妙泉寺と決まる。
寛文6年(1666)6月…【住職】法印快慶【主な出来事】盛岡八幡宮建立のため、嶽妙泉寺宿寺の替地として加賀野獅子ヶ鼻の地を賜る。
寛文8年(1668)12月16日…【住職】同上【主な出来事】重信が妙泉寺参詣。
延宝2年(1674)12月22日…【住職】同上【主な出来事】京都御室御所仁和寺の直末寺となり、仁和寺末寺全国八箇寺に入る。
延宝3年(1675)6月13日…【住職】同上【主な出来事】御室御所仁和寺の寶光院院跡兼帯となる。
延宝4年(1676)9月2日…【住職】同上【主な出来事】重信が翌年六十二歳厄年の為、早池峰山への三ヶ年の三十三騎御代参を決める。
延宝8年(1680)4月2日…【住職】同上【主な出来事】重信が加賀野妙泉寺山内に大日堂建立。
貞享元年(1684)6月24日…【住職】同上【主な出来事】霊元天皇より、「着香衣令参内宣奉祈、宝祚延長」の宣旨(御綸旨)を賜る。
貞享3年(1686)8月23日…【住職】同上【主な出来事】重信並びに庶子室勝らが願主となり阿弥陀如来・十一面観音・薬師如来の三体寄進。
天和年中(1681~3)…【住職】同上【主な出来事】藩主南部利幹が和賀野妙泉寺山内の大日堂・勢至堂を修復。
元禄14年(1701)8月17日…【住職】同上【主な出来事】嶽妙泉寺の十一面観音半跏像が大迫桂林寺へ遷される。
宝永4年(1707)…【住職】法印宥尚【主な出来事】加増三十石が現米二十石に減俸され、寺領百七十石となる。
宝永6年(1709)7月28日…【住職】同上【主な出来事】藩より鰐口が寄進される。
正徳5年(1715)8月1日…【住職】同上【主な出来事】永福寺住職・快慶より嶽妙泉寺へ鐘が奉納sれる。鋳工は鈴木喜平次、治工は小泉仁左エ門。
享保9年(1724)8月15日…【住職】同上【主な出来事】早池峰山頂の本宮・若宮、長床等焼失。
享保14年(1729)…【住職】法印義燈【主な出来事】京都吉田家より神官の裁許状を賜り、門前六坊が社家となる。
享保19年(1734)7月…【住職】同上【主な出来事】山頂の本宮(二間・三間)、若宮(二間・三間)に籠堂を再興。
享保19年(1734)8月21日…【住職】同上【主な出来事】京都より四天王像、不動童子、稲荷像、白髭明神等四体と清三郎作の天神像を請来。
享保20年(1735)…【住職】同上【主な出来事】修業僧に講義を行う講堂(竪七間、横九間)を建立。
安永7年(1778)4月10日【住職】法印義教【主な出来事】盛岡大火により加賀野の妙泉寺の大日堂・勢至堂並びに庫裏等を焼失。
安永8年(1779)3月13日【住職】同上【主な出来事】義教が御室御所直末寺を理由に永福寺支配から離れたき旨を訴え、隠居及び蟄居を命ぜられる。
安永10年(1781)7月上旬~9月10日【主な出来事】嶽新山宮霊像並びに薬師堂本尊の御開帳行われる。
天明5年(1785)7月【主な出来事】盛岡大火により焼失した加賀野の妙泉寺に仮堂が建つ。
天明7年(1787)3月27日【主な出来事】嶽妙泉寺の門前六坊が火災により焼失。
寛政4年(1792)正月5日【住職】法印宥營【主な出来事】宥營が院席跡目継ぎの為上京中、和州(奈良)初瀬の豊山寮にて遷化。
寛政5年(1793)3月28日【住職】義教(自性院)【主な出来事】隠居及び蟄居を命ぜられていた義教(自性院)が許されて、永福寺住職となる。
寛政6年(1794)2月19日【住職】看主祐宜【主な出来事】盛岡藩江戸屋敷が類焼したため、嶽妙泉寺境内の杉十本の伐採申しつけ。
寛政11年(1799)12月24日【住職】看主俊善【主な出来事】無断で嶽山より春木流しを行った罪により、寺領三十六箇山を御山奉行支配とする。
文化3年(1806)10月【主な出来事】安永7年の火災で焼失した盛岡加賀野の妙泉寺が再建される。
文化14年(1817)3月27日【主な出来事】嶽妙泉寺の門前六坊で火災。残らず焼失。
文政6年(1823)7月【住職】法印宥密【主な出来事】三十六箇山が嶽妙泉寺領に復される。
安政6年(1859)9月27日【住職】同上【主な出来事】嶽妙泉寺門前で出火し、九軒焼失。橋及び隠寮も焼ける。
慶応4年(1868)3月13日【住職】法印圓能【主な出来事】維新政府は「神仏判然令(神仏分離令)」を発布し、修験道や権現の名称も禁止される。
明治2年(1869)6月【住職】同上【主な出来事】早池峯山大権現(新山宮)を早池峯神社に改める。
明治3年(1870)正月【住職】同上【主な出来事】圓能が大澤廣と名を改めて神職となる。
明治8年(1875)10月23日【住職】大澤廣【主な出来事】嶽妙泉寺本堂大破により取り壊しを県令に届ける。
明治9年(1876)【主な出来事】盛岡の宿寺・加賀野妙泉寺の寺・境内・山林が民間に払い下げられる。



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