『早池峰神社 (花巻市大迫町)』からの続きです。

おもちゃとか色々祀られているこちらは…

古峰神社(昭和19年9月18日)

参道。
参道を振り返るの図。
神楽殿。

早池峰山と信仰…『北上高知の最高峰・早池峰山(1,917m)は、東に剣ヶ峰、西に中岳、鶏頭山、毛無森を連ねた東西十数キロにも及ぶ雄大な山容で、標高1,300以上には、かんらん岩や蛇紋岩で形成されたゴツゴツとした巨岩・奇岩が顔を出しています。この岩石群の狭間にはハヤチネウスユキソウをはじめとする200種もの高山植物が咲き乱れ、深田久弥の「日本百名山」の一つにも数えられています。詩人で童話作家の宮沢賢治は、早池峰山の圧倒的な存在感や可憐な高山植物に魅せられて、多くの詩や童話を残しています。その早池峰山の南に対峙する薬師岳は、花崗岩の山体で、独特の森林植物群落を形成し、早池峰山との植生の違いが明瞭であることなどから「早池峰山及び薬師岳の高山帯・森林植物群落」として、国の特別天然記念物に指定され、周辺一帯は国定公園となって掘語されています。また、早池峰山は、古名を「東根嶽(東峰岳)」といい、古代から山岳信仰の霊場として、人々の信仰を集める御山でした。大迫地方の伝説では、大同2年(807)田中の兵部という者が、額に金の星のある白鹿を追って山頂にたどり着いたことにより開山されたと伝えられています。藩政時代には、盛岡藩の鎮山として重きをなし、山麓に早池峰大権現を祀る岳妙泉寺が整備されましたが、明治初年の神仏分離令により、早池峰神社だけが残されたのです。』◆早池峰神楽とは…『早池峰神楽は、岩手県花巻市大迫町内川目地区に伝承されている神楽で、早池峰神社の奉納神楽・岳神楽と、大償神社の奉納神楽・大償神楽の二つの神楽座の総称です。早池峰山を霊場とする修験山伏たちによって代々舞い継がれてきたと言われ、祈祷の型などを神楽の中に取り入れていることから「山伏神楽」とも呼ばれています。両神楽の始まりは定かではありませんが、早池峰神社には文禄4年(1595)銘の権現様(獅子頭)があり、大償神社の別当家には、長享2年(1488)の神楽伝授書の写しが残っているため、少なくとも500年以上前には伝えられていたと思われます。舞の中に、「能」大成以前の古い民間芸能の要素を残していることから、中世芸能の香りを伝える希有な神楽として、昭和51年5月4日に国の重要無形民俗文化財に指定され、平成21年9月30日にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。一般的に岳神楽は五拍子を基調とし、テンポが速く「勇壮」、大償神楽は七拍子を基調とし、テンポがゆるやかで「優雅」と評されます。また、両神楽は表裏一体をなしているとも言われ、大償神楽の山の神面が口を開けた「阿形」であるのに対し、岳神楽は口を閉じた「吽形」であることにも表れています。昭和初期までは、農閑期になると権現様と呼ばれる獅子頭を奉持し、稗貫・和賀地方を廻村巡業していました。「通り神楽」とか「廻り神楽」とか呼ばれたこの巡業形態も戦後には途絶え、現在では神社の祭礼や、年祝・新築祝いなどに招かれたり、県内外のイベントで公演することが多くなりました。早池峰神楽の弟子神楽は、岩手県中央部に広く分布しており、北は盛岡市から南は一関市まで、その数は約100団体にのぼると言われています。』◆神楽舞台…『神楽は、本来は神社の祭礼などで奉納されるもので、境内にある神楽殿で舞われるのが一般的です。舞台の広さは二間四方で、そこに注連縄を張って神座とします。早池峰神楽が廻村巡業を行っていた時には、「神楽宿」と呼ばれる民家で演じる場合が多く、土間に面した板敷きの部屋(主に茶の間)に注連縄を巡らして舞台としました。この時には、袴座敷や座敷が楽屋となり、楽屋と舞台の境には神楽幕を張って区別をしました。神楽幕は、幅二間・高さ一間が基準となっていましたが、最近ではステージ等での出演が多くなり、舞台映えがする少し広めの二間半の幕を使うため、舞台も二間半四方に作られることが多くなりました。神楽幕の下地は黒か濃紺が基本で、岳神楽では、中央に「早池峰神社」の名と左右に向鶴紋、大償神楽では、中央に「大償神社」の名と左に菊紋、右に桐紋を染めています。』◆演目と構成…『両神楽の演目は、呼称の違いはあってもほぼ同じで、裏舞を入れると40番以上を伝えています。これらは、「式舞」「神舞」「女舞」「荒舞」「番楽舞」「狂言」「権現舞」などに分けられます。神楽を正式に舞う場合は、まず最初に「打ち鳴らし」という神降ろしの儀式をします。その後に、必ず式舞という6番(「式六番」)を舞うことになっています。「幕引かず」といって、昼夜にわたって同じ場所で神楽を演ずる場合には、夜には式舞の裏舞(「裏式舞」)を舞います。演目は、短いもので15分ほどで、長いものになると40分以上になる演目もあります。この式舞が終わると、神舞・女舞・荒舞・番楽舞などの演目の中から数番選んで舞い、ときには狂言を入れます。そして、神楽の最後は必ず権現舞で締めくくるのが決まりとなっています。』
参道。
天然記念物のしだれ桂(この地が原産)

妙泉寺しだれ桂…『岩手県には世界的にも例のない、枝葉の垂れ下がった「南部しだれ桂」という珍木がある。しだれ桂の大木は盛岡市などにあり、現在では3本が国の天然記念物に指定されている。このしだれ桂は、もともとは岳の妙泉寺の境内にただ1本生育していたものであったという。この妙泉寺のしだれ桂については、大変面白い伝説が残っている。岳の妙泉寺では、お盆が近づくころになると、桂の緑葉を採って干し、粉末香にしてその年に使う分を作るのが習わしであった。さて、いつものようにお盆も近づいて来たある日、和尚は寺の小僧に境内にある桂の枝を切るように言いつけた。ところが、この桂の大木は毎年毎年枝を切るので、手の届かないような高いところにしかなくなってしまっていた。小僧は梯子をかけて必死に枝を切ろうとしたが、どうしたはずみか足を滑らせて、枝を手にしたまま地面にドウとばかり落ちて気絶してしまった。そのとき、気絶した小僧の枕上に、早池峰山の女神「瀬織津姫」が現れて、「お前はよく師匠の言いつけを守って、毎年この桂の枝を採っているが、このままでは下枝がなくなり、ついにはどんなに長い梯子をかけても及ばなくなろう。岳の水無沢の東、参道の所から二十歩ほどの岩のくぼみに、1本の枝のたれた桂を育てておいたから、それをもって来て寺の境内に植えて置くがよい」と申されたのである。小僧はふと目をさまして、あたりを見回したが誰もいない。不思議なこともあるものだと、その出来事を和尚に話すと、「それは誠に有り難いことだ」といって大変喜んだ。和尚と小僧が明朝早く出掛けてみると、神様のお告げの場所に、お告げのとおりの枝のたれた桂が1本あった。2人はこれを寺の境内に移し替え、それからは毎年たくさんのお香を作ることができたという。このしだれ桂は、それから2、300年を経て実にみごとな大木となったが、寺の普請のために切られてしまった。しかし、その株から出た新梢は、各地の寺院などに分けられ、後に国の天然記念物に指定された南部しだれ桂の原木となったという。』

参集殿。
こちらの碑は頑張れば読み取れます。頑張りません。

仁王門。
ガラスに反射してうまく写せませんでしたが仁王像。




早池峯神社…『早池峯神社は西暦807年(大同2年)田中兵部・始閣藤蔵の両名が山頂に姫大神をまつったことに始まる。1,300年(正安2年)越後の住人阿闍梨円性が天下の霊地であると此の地に止り一宇を建立早池峯大権現と崇め奉った。1,609年(慶長13年)南部利直公巡視の際参詣し、社領百五十石を与え領内海陸総鎮守として帰依が厚かった。【御祭神】瀬織津比売神【例祭】8月1日【春祭】3月17日【年越祭】12月17日【月次祭】毎月1日◆登山案内【早池峯山】1913米【中岳】1779米【鶏頭山】1,445米(早池峯山~中岳~鶏頭山:従走コース完備)【毛無森】1,427米(鶏頭山から1時間)【薬師岳】1,644米(小田越から1時間30分)』

参道石段。
手水舎。


白髭大明神。



稲荷神社・弁財天・天満宮。

拝殿正面。
狛犬一対(昭和14年11月23日)
早池峰開山の由緒…『早池峰の古称は漢字で東根嶽。大同二年(807年)山陰兵部という猟師が、雪の積もった里に真っ白で額に金色の印しのある鹿を見つけ、追いかける内に嶽の頂上にいたる。そこで姿を見失い疲れ果てて腰を下ろし、しばらく恍惚として我を忘れていた。その時五色の瑞雲が湧き出てたなびき、仙界の霊妙な音楽があたりに満ち、目にもまばゆいばかりの光明があふれた。ただ頭をさげていたところ、遠野郷より始角藤蔵という猟師が、同じ鹿を追って頂上へ来て、この瑞相を目の当たりにして立ちすくんだ。二人はその偶然に深く感銘し感涙して、雪が消えたら必ずここに社を建立して、この奇遇を奉謝しようと約束、山頂にそれぞれの狩の道具を一つずつ残して里に戻った。』

建碑…『今ヤ空前、困難ニ當リ上下一心力ヲ致シ國威宣揚ニ日夜奮勵スル時局ニ際シ不肖金助謹デ縣社早池峰神社御廣前ニ石刻獅子像一對奉献出征軍人ノ武運長久並ニ銃後・豊穣ト大漁ヲ祈願ス 昭和十四年十一月二十三日 稗貫郡内川目村鳥谷向藤原金助 仝郡石鳥谷町石材店中島良藏刻』

早池峰神社(はやちねじんじゃ)…稗貫(ひえぬき)郡大迫(おおはさま)町内川目にある神社。旧県社。祭神はもと姫大神とされていたが、いつの頃からか瀬織津姫を主神とする。北上山地の主峰早池峰山の登山口岳集落にある。創建年代は未詳だが、社伝では大同2年大迫の田中兵部と遠野の猟師藤蔵とが白鹿を追い、山頂の岩窟で金色光明の権現の霊威を感得し、一堂宇を造って本宮とし、山麓にそれぞれが遥拝所を建立して姫大神を祀ったのに由来するという。その後、遊行僧快賢が河原の坊に仮堂を建てたが、宝治元年大洪水で流失し、正安2年円性阿闍梨が河原の坊の仮堂を岳に再興し新山宮としたのが現在の早池峰神社で、また彼は妙泉寺池上院を建立し、自ら早池峰大権現別当となり、門前に六坊を置いて祭事の執行にあたらせた。南部氏の時代には妙泉寺は藩主の祈願所となり、社領150石を利直から寄進されたという。明治3年神仏分離により現社名に改称し、同6年郷社、大正11年県社に列せられた。例祭は8月1日で、早池峰系の権現(獅子頭)数十頭が参加、権現舞を奉納する。また宵宮には岳神楽・大償神楽が共演する。岳・大償の両神楽は総称して早池峰神楽といい、国無形文化財で、演目は100種にも及ぶ。早池峰神社本殿は県文化財。なお、遠野市附馬牛・川井村門馬に早池峰神社、川井村小国に早池峰新山神社があり、早池峰山の登山口遥拝所にあたる。
神社庁より…『【御祭神】瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)【例祭日】8月1日【由緒】早池峰の開山は、大同2年(807)山蔭兵部成房によってなされた田中明神の伝承と同様である。即ち成房は6月雪溶けを待って登頂し、一宇を建立、瀬織津姫大神を勧請し、東子嶽明神と称したのが奥宮の創始である。鎌倉時代、快賢という修験僧が川原坊を経営した一時期を経、正安2年(1300)越後の客僧円性阿闍梨が岳の現在地に一宇を建立し、十一面観音を勧請して早池峰大権現と崇めた。更に円性は妙泉寺も建立して、早池峰大権現別当妙泉寺円性と称えた。慶長15年(1610)盛岡南部家は早池峰を深く信心し、利直公自ら大旦那となって2ヵ年がかりで、社堂悉く改築寄進した上社領百五十石、及び三十六カ山を境内山林をして附与した。以来領内総鎮守として信仰をあつめてきた。明治3年(1870)神社と号を改め現在に至っている。』




拝殿内。
拝殿内狛犬一対。
社殿横。

本殿。
早池峰神社本殿(岩手県指定有形文化財)…『【種別】有形文化財(建造物)【構造】外陣と内陣とに別れ、奥行き五間のうち前面二間分が外陣、後面三間分が内陣【製作者】大工紀州住人新右衛門、箱匠秋田住人久三郎、同三右衛門【年代】慶長17年(1612)【指定年月日】昭和47年(1972)10月27日【由来及び指定の事由】早池峰神社は神仏混交の時代には新山堂(宮)と呼ばれ、天正19年(1591)に南部氏の支配下に置かれるようになってからは、明治初年の廃仏棄釈まで妙泉寺が別当を勤めてきた。新山堂一帯は、早池峰山が盛岡藩の城東の鎮山として、重要性を増すとともに、南部氏によって次第に整備されていった。新山堂棟札によれば、慶長15年から17年にわたり、新山堂、薬師堂、本宮、舞殿、鳥居、客殿が造営され、これいは大旦那の南部利直公が「御蔵米百駄、人足三千人、金子三枚」、また大迫知行の田中彦右衛門は「金子一枚、人足二千人」を提供している。現・早池峰神社は、その後2回修復の手が入っているが、内陣柱を中心とした軸組や、木鼻の手法、本殿軒回りの装飾等にも、慶長期の堅実な力強い手法が残されており、意匠も素朴ではあるが優れている。』

子持杉。


開山一千百三十年昇格十三週年記念碑(昭和11年8月17日)

石碑群。

三社託宣、山神宮、天神、出羽三山等



大権現社。


権現様。

「御山道」と刻む石碑。

山神社。

昭和59年12月吉日。

座敷わらしともありました。




七度詣の碑。

小祠。何かはわからず。


白龍社へ。
白龍社鳥居。
白龍社。

本殿。

本殿横。


水を吐く龍。

倒木と苔。

大迫郷土文化保存伝習館 (早池峯岳神楽伝承館)については別記事にしております。

裏参道と裏参道鳥居。




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