早池峰湖(道の駅はやちね)から早池峰神社へ。
岩手県花巻市大迫町内川目。早池峰神社(早池峯神社)。

早池峰山の登山口に向かう途中の岳集落は、江戸時代には「岳六坊」と呼ばれた修験山伏たちの宿坊がありました。

現在も何軒かが民宿を経営しており、宿坊の名残は「大和坊」「日向坊」「和泉坊」などの名前からもわかります。この岳集落の人たちが舞い伝えているのが岳神楽です。


早池峰山は、北上山地のほぼ中央にそびえる標高1,917mの主峰。地理的には花巻市大迫町、宮古市川井、遠野市の3つの地域に囲まれており、その各地に4つの登山口があります。早池峰山は古名を東根嶽といい、中世の時期に早池峰という山名になったと伝えられています。開山にまつわる伝説では、大同2年に大迫の田中兵部という者が、額に金の星のある白鹿を追って山頂に辿り着き、霊告を受けて開山したと伝えられています。古代から山岳信仰の霊場として、人々の信仰を集める御山でした。その信仰範囲は北上山地の旧盛岡藩領全域と陸中沿岸、旧仙台藩領の胆江地方などに及んでいました。また、修験道の道場として栄え、往時にはかなりの数の宿坊があったといわれています。この修験者たちによって、早池峰神楽が伝承されてきたといわれています。
社号標「縣社早池峯神社」・鳥居(令和元年10月吉日、氏子崇敬者一同建立)。
参道。
石灯籠一対・降魔剣(昭和45年、岩手国体記念、大迫町佐々木久四郎作)。



降魔剣裏手。
水が流れています。
不動明王が祀られています。
早池峰神社参道に戻ります。
石灯籠一対。


鳥居。
参道。
内川目についてです。「うちかめ」ともいい、内河目とも書きました。北上山地の主峰早池峰山の西南山間部に位置。岳川・小又川・折壁川を支流とする稗貫川が貫流。地名の内川目は外川目と対称になっており、稗貫川本流筋が内川目、支流筋が外川目。川目は山間河川に沿う土地を指す自然地名。小河川の入り組んだ内川目地域は川目地方と呼ばれ、住民はカメ衆とも称されました。従って集落は流域の狭小な耕地に点在。久出内・飛内・小付内・大償・小呂別などアイヌ語と思われる地名が散見。中世は稗貫氏の支配に属し、一族大迫氏の所領のうち。早池峰山は農神(水神)としての性格を持ち、当地域の信仰の中心で、稗貫川流域とそれが注ぐ北上川下流に信仰が根強いです。早池峰山は最初薬師と習合し、近世には十一面観音が本地とされました。中世の祭祀権は早池峰山先達で田中大明神の神主山陰氏が掌握、近世は南部氏の権力を背景として岳の早池峰山妙泉寺(新義真言宗)が握りました。国重要無形民俗文化財の早池峰神楽は田中大明神神主家山陰家に伝わる田中神楽を発祥としており岳神楽・大償神楽に分流したと伝えています。また、早池峰神社現存の文禄4年銘の獅子頭も田中神楽のものと主張されています。


江戸期の内川目村は稗貫郡のうち。盛岡藩領。大迫通に属します。江戸初期は大迫村の枝郷で「公儀ニ書上無之郷村」の一つでした。元禄2年の足高百姓小高(妙泉寺文書)には当村の名が記されており、この頃には大迫村から分村していたと思われます。村高は寛保~寛政年間のものと推定される南部十郡之内によりますと619石余、安永5年大迫通代官所御役高并給所書上帳も619石余で、内訳は役高418石余・給所高200石余、邦内郷村志418石余、旧高旧領621石余。なお、当村は正保郷村帳・貞享高辻帳・天保郷帳・安政高辻帳には見えず、仮名付帳では大迫村の枝村とされており、天保郷帳の大迫村の村高は前記安永5年の書上の当村と外川目村と大迫村の合計と同数。大迫町へ助伝馬をつとめました。給所高のうち150石は妙泉寺の寺領で、同寺は慶長12年南部利直から150石の寺領を給せられ、早池峰三十六ヶ山を付与されました。残りの約50石は山本靱負の給所。邦内郷村志では家数416、馬488。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数379、集落別内訳は高屋敷7・金沢9・沢村2・上野8・八木沢21・中野4・似久保2・中野向6・大償内12・柳田6・小償内20・住郷5・下和野18・平蔵附8・上官4・樋ノ口14・古川3・中山3・小屋敷3・鍋屋敷9・日影5・鳥屋6・飛内8・中乙11・川久保5・中通8・野沢4・栃洞6・黒森14・大洞20・野9・楢花5・小路別8・白岩20・折壁27・高森5・猫底8・久出内17・日影飛内6・天王8・大又14・外中山1。村肝煎は代官所との連絡の関係からかほとんどが大迫村寄りの集落から出ています。妙泉寺は慶長15~17年にかけて「新山・薬師・本宮・舞殿・鳥居・客殿」(早池峰神社棟札)を建立。大檀那南部利直はこれに「御蔵米百駄、人足三千人、金子三枚」を合力し祈願所としました。同寺は盛岡には宿寺が建てられ、延宝3年には京都御室御所仁和寺の直末寺となりました。門前六坊は本山派修験でしたが、20世義灯代の享保年間、吉田神道に転じ社家となっています。早池峰先達の山陰家は寛永13年羽黒派修験となり、寛保3年やはり吉田家社家へ転じました。大償社別当は修験幸林坊から佐々木家へ移り、山陰家弟子となって三社権現別当と称しました。当村は本山派修験正法院の霞でしたが、岳神楽・大償神楽は修験から社家の時代へ移行。念仏踊は享保年間に大迫村から伝わり、地内中乙・鍋屋敷・大又・立石に分布、曹洞宗宝鏡山桂林寺が関係しています。物産は畑作による雑穀類や葉タバコ・春木・木材・馬・金。特に金は慶長年間から盛んに開発されており、産金地名や伝説は全村に拡散。中でも紫波郡佐比内村の朴木金山と同脈の八木沢金山が有名。また、金山は早池峰山・中岳・鶏頭山の山麓にも開発され、他に柵立・久出内・名目入・猫底・熊取沢・飛内・浅込・白岩・大矢倉・黒沢・金山沢・樺山・金沢などがあります。ウルシは江戸中期に地内野口の羽黒派修験宝鏡院が栽培・加工した記録があります。寺子屋は妙泉寺・桂林寺・田中山陰家、立石の医者吉田家などの有識層が師匠をつとめました。手本の中には「村日記」があり、道順にしたがって村内の集落名が列挙されています。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同8年村公用事務扱いの2番扱所を字古館に設置。同年3月1番扱所(大迫村)へ合併。同17年大迫村・外川目村・亀ケ森村とともに4ヶ村戸長役場を組織。明治9年の村の幅員は東西約5里・南北約3里、税地は田28町余・畑330町余・切替畑283町余・宅地51町余など計697町余、戸数424・人口2,590(男1,333・女1,257)、馬702、内川目学校の生徒数61(男52・女9)、職業別戸数は農業369・工業10・鍛冶2・杣稼2・濁酒家2・猟家8・木挽16、物産は馬・稗・蕎麦・萩(牛馬飼料)・百合根・煙草・薬草、鉱山は金山が白岩山・高山・久手内山・畑ケ沢・石船山・中野、銀山が鶏頭山・飛内、鉄・岩鉄が切越林・早池峰山、寺は妙泉寺が廃されて桂林寺1寺、神社は合祀があって田中神社・大償神社・稲荷神社・八幡神社・早池峰神社遥拝所・八坂神社の6社地。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。


同22年~昭和29年の稗貫郡の自治体名である内川目村は大字は編成せず、はじめ大迫町・外川目村とともに組合役場を大迫町に置きました。合併当時の面積7,983町余、戸数396・人口2,753。明治25年1町2ヶ村組合役場から分離して外川目村と2ヶ村組合役場を組織。県町村合併誌によりますと、当時「此二ケ村ハ従来両川目ト称シ人民農桑ヲ以テ生活ヲ為ス、民情風俗稍其状態ヲ同フス」といい、当村は「自治ノ資力ニ不足ナク独立ニ耐エ」であるものの、外川目村は「独立ノ見込ナシ」とあります。大正8年の記録では、当村は稗貫郡東端の面積約9.6方里を有する大村で、交通は未改良の里道に頼り、乗用馬車・人力車・荷車はなく、自転車が数台あるのみ。主産業は農業で季節により採薪・製板・木挽・駄送・流材・運材に従事、かつ田畑による食糧の不足を補うため切替畑(焼畑)に頼っています。但し畜産においては面積約2,000町の山野は皆草生が豊かで牛馬の飼養に好適であり、林業の木材・薪炭などによる財源も実に莫大でした。教育は明治40年に内川目農業補習学校(義務教育年限延長で廃止)を開設、更に大正3年には実業補習学校(高等科設置で廃止)開設。早池峰山は同5年県知事大津麟平の登山で一躍世間の脚光を浴び、翌6年稗貫郡主催で登山競争を実施。大正11年には早池峰神社が県社に昇格。岳神楽・大償神楽は付近神楽の淵源とされていましたが、昭和6年研究者本田安次の目にふれて世に知られました。早池峰山の高山植物は明治初年既に須川長之助の調査とマキシモウィッチの研究発表で知られていましたが、明治中期から数多くの著名研究者が来山、昭和3年高山植物帯が国天然記念物の指定を受けました。同30年1月1日大迫町の大字となります。戸数490・人口3,455。人口は昭和30年3,440、同40年3,051、同50年2,447。旧内川目村役場は大迫町役場支所となり昭和33年に廃止。その後役場連絡所を経て地区公民館となります。旧村内には中学校1・同分校1(昭和39年独立)、小学校3・同分校1(同39年独立)、直営診療所1があり、昭和33年保育所新設。しかし道路網の整備によって同39年直営診療所廃止、同44年には中学校2校を大迫中学校に統合、更に同54年には地区内4校の小学校を統合。産業は葉タバコ・畜産を主とする農業、林業。葉タバコは同55年を最後に特産種南部葉の栽培を廃し品種転換。林業は山間地を活用して植林、大迫町森林組合とその諸施設を置きます。桐は特産種。畜産は乳牛と肉牛。郷土芸能岳神楽と大償神楽は昭和51年国重要無形民俗文化財となります。その伝承の母体である早池峰山は同57年国定公園となります。
花巻市民憲章碑…『わたくしたちは、花巻市民としての自覚と誇りをもち、早池峰の風かおる豊かな自然と文化を大切にし、力を合わせて明るいイーハトーブの実現をめざします。1.じょうぶなからだを持ち 深い知性をそだてます。1.すすんで働き 豊かなまちをつくります。1.ひととふるさとを愛し、世界への眼をひらきます。』・裏面碑文:花巻市民憲章碑について…『この花巻市民顕彰碑には三つの意味があります。一、市民憲章改訂より「早池峰の風かおる豊かな」と加筆されました。二、碑石の揮毫は有名書家のもので、後世に残したい。三、この市民憲章は賢治の精神を入れたものです。花巻市民憲章は、市制三十周年を記念して昭和五十九年四月一日に制定され、更に大迫町を含め三町が合併して新市が誕生したことにより、平成十九年三月一日に市民憲章が改訂されました。その文言には大迫の風情、優美な山々、荘厳な社、名高い神楽と総てが秘められ、それを表現加筆されたものです。又、碑石の揮毫吉村竹軒氏の書であり、その筆跡を残したく最初の碑石に加筆挿入をしました。この憲章碑は、賢治精神を生かしたもので、当地を訪れる広く多くの方々に豊かさを実感して頂きたい。これらの願いから改訂された市民憲章を、発祥の地である早池峰神社の参道に建立したい一念によるものです。なお、碑の全文中の三字(自覚と)を削除すべきものを、当初の文言を残すため削除しない。建立発起人は三つの組織によるものです。神社総代:花巻市神社総代連合会会長戸來諭・大迫地区神社総代会会長佐々木偉夫、花巻市と合併時の町長:佐藤共成、大迫町議会議長:山影義一、神社宮司:早池峯神社宮司鎌田政典、前早池峯神社・田中神社宮司山陰幸三(※協賛者各位・早池峯神社責任役員・施工業者省略)平成27(2015)5月吉日』

「早池峰の風かおる豊かな」当地の優美な山々荘厳な社、名高い神楽などを表した。

岳妙泉寺築地塀跡。大迫郷土文化保存伝習館(早池峯岳神楽伝承館)展示「妙泉寺野面積石垣(17世紀初)」より…『嶽妙泉寺の石垣は、石材が30~40cmの小さなものから、120×70cmの大型の石材まで、大きさはさまざまである。加工されていない石材のため雑な積み方にも見えるが、虎口の形態や石垣の構築方法は城郭の石垣構造と比べても何ら遜色はない。』
岳妙泉寺築地塀跡標柱…『石垣は江戸時代初期に築かれたと推定され、石垣の上には鉄砲狭間などのある築地塀が造られていました。』

岳妙泉寺櫓門跡。大迫郷土文化保存伝習館(早池峯岳神楽伝承館)展示「妙泉寺櫓門礎石(17世紀初)」より…『櫓門があった場所には現在でも大きな礎石が残っており、幅約3間、奥行約1間半の規模であった。櫓門は、城郭の門と同じ造りで、この門をくぐってから客殿(寺)の正面に上がることができた。「嶽妙泉寺絵図」には嶽妙泉寺の城構造が詳しく描かれている。』
岳妙泉寺櫓門跡標柱…『岳妙泉寺は城のように造られており、ここには櫓門という山門が周囲を威圧するように建っていました。』

妙泉池生寺持佛殿。


客殿(妙泉池生寺)跡。

客殿(妙泉池生寺)跡標柱…『岳妙泉寺は明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となり、その時に客殿(妙泉池生寺)も壊されてしまいました。』・『岳妙泉寺と周辺遺構についての説明・絵図などは郷土文化保存伝習館に展示しています。』

岳妙泉寺庫裡。
岳妙泉寺跡…『妙泉寺は真言密教の寺院であり、正中2年(1325)、越後の円性阿闍梨(えんしょうあじゃり)が開創したと伝えられている。その時には、新山宮、仁王堂、山門、寺などがここに創建されたという。しかし、文亀元年(1501)と、永禄3年(1560)の2度の火災により多くの堂宇が焼失し、一時は衰退していたが、その後、この地が南部氏領となってからは、盛岡城下の東の鎮山として「早池峰山」に対する崇敬は篤く、別当寺としての妙泉寺に対する扱いも破格のものがあった。慶長12年(1607)には、盛岡藩より寺領百五十石と三十六ヶ山の寺地を与えられたほか、慶長17年(1612)には新山堂、薬師堂、本宮、舞殿、客殿などが新築され、周囲には鉄砲狭間(てっぽうざま)、矢狭間(やざま)を穿(うが)った築地塀(ついじべい)と櫓門を備えるなどの要害普請がなされた。また、門前には六坊を置いて、禰宜として奉仕させた。要害普請は、妙泉寺に領内の安泰祈願としての役割のほかに、盛岡城が危急のときには、宮古へ落ち延びる場合の、一時の隠し砦としての性格も持たせていたためであった。さらに、盛岡城下に二万八千坪もの広大な面積の宿寺を賜り、京都御室御所仁和寺(おむろごしょにんなじ)の直末(じきまつ)寺となるなど、領内安全、天下泰平、請願成就の祈願所として大いに繁栄を続けた。しかし、明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、現在県指定有形文化財となっている早池峰神社本殿(新山堂)と、代々の住職が住んでいた庫裡、そして、客殿内に祀られていた仏像の一部を残して破壊され、往時の壮大な伽藍を想像することは困難となった。』

周囲を散策。

水が流れています。この水が上記の不動尊へと流れているのですね。
「法印義燈建立」と刻む石。

その他にも石塔がたくさん。

法印と刻むこれらの石塔群は恐らく別当寺歴代住職の墓碑でしょうね。一部「不生位」「嘉永」などの文字が見てとれます。






まだ早池峰神社社殿まで辿り着いていませんが長くなりましたので…

『早池峰神社 (花巻市)~其之弐』へ続く…



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