
岩手県北上市藤沢15地割。

社号標「藤澤稲荷神社」(春季例祭3月9日・秋季例祭9月9日)

境内案内板「正一位稲荷神社」…『【旧社格】村社【鎮座地】北上市藤沢15の201【祭神】保食神【例祭】九月九日【由緒】寛文五年(1665)南部藩士奥寺八左衛門定恒この地に開墾の事を起こし、延宝七年(1679)業成る。この間十有余年克く八千石の新田開墾に成功する。先に開墾の儀起こるやこの水源を求むるに数カ所を選び穿鑿せるも、遂に水に至らずその労策を失う。ここに於て八左衛門、常に信仰する伊勢大神宮に人を派遣祈誓し、傍ら水源探索に余念なし。或夜、神夢に告げがあり、白狐をして堰代を示さんとす、後程二名の者来り堰代を教導せんと告ぐ。氏名を尋ねるに、汝が誠魂に応え堰代を示さんとて、白狐に化し逸走せり。これに当て得堰代を定め水源を求めて新田開墾に成功する。村数二十九、その後、藤沢の住民この神霊に応え天保三年(1683)三月藤沢村に一宇を建立、住民氏子の鎮守となし毎年九月九日を以て例祭と定める。』

女坂的な参道。そんなに勾配があるわけでもなく、むしろ石段の方が楽なのでただの脇道かも知れません。

藤沢は北上盆地の中央部、北上川支流和賀川の下流左岸に位置し、同河川による高位段丘沿いに立地。地名の由来は地内に遊行上人塚と伝承され、時宗第7代遊行上人託阿のものと推定される墳墓があることから、時宗総本山のある相模国藤沢との因縁に基づく地名と考えられています(北上市史より)。和賀川の沖積低地を望む段丘べりのため、奈良期~平安初期の集落跡である藤沢遺跡があり、古代開拓史上貴重な遺跡。戦国期の藤沢村は和賀郡のうち。永禄元年和賀領検地目録(小田島家記録)に「五百三十七石 藤沢村」とあります。但し同記録の信憑性には問題あり。中世の当地は大部分が原野と考えられ、館跡などみるべきものは何もなく、近世中期以降に発達した地と推定。

江戸期の藤沢村は和賀郡のうち。寛文年間奥寺八左衛門による新田開発によって成立した推定。はじめ盛岡藩領、元禄7年旗本南部主計知行を経て宝永4年からは再び盛岡藩領。享保20年からは黒沢尻通に属します。村高は貞享高辻帳では村名のみが記載されており、宝暦3年649石余(うち役高537石余・新田高19石余・金目高34石余)、給人は及川岩之助17石余・竹村治兵衛27石余・金田一七郎12石余、邦内郷村志644石余(うち給地53石)、天保郷帳・安政高辻帳ともに649石余、旧高旧領725石余。邦内郷村志では家数20、集落別内訳は本村6・門屋6・堤下6・下春木場2、馬14。本枝村付並位付によりますと位付は下の上、家数21、集落別内訳は元村6・門屋6・堤下5・下春木場4。開田可能地の多くは延宝年間の奥寺堰完成直後に開田され、明治初期までは大幅な村高の増加がみられません。藩主重信の命により藩士奥寺八左衛門は、和賀川以北から豊沢川以南の原野を開田するため、寛文7年から12ヶ年を要して上堰・下堰を完成させました。更に用水の効率を高めるために上堰からの直接の引水のほか、いったん堤に溜込んで用いる方法がとられ、村内には比較的堤が多く存在。源十郎堤・半内堤・与三右衛門堤・作助堤・長作堤・藤左衛門堤・治右衛門堤・市右衛門堤・庄三郎堤・長兵衛堤・彦右衛門堤・源右衛門堤・午左衛門堤・仁兵衛堤・善太郎堤・太郎兵衛堤・久四郎堤があり、多くは奥寺堰の上堰から水を引込んですべて新田用水となっています。また、村内には隣村の用水となっている堤が4ヶ所ありました。主要道路は東部の村境ともなっている奥州街道、村崎野村から南笹間村に通じる瀬畑街道、村崎野村から新平村に通じる岩崎街道、黒沢尻方面から太田村清水観音への参詣道である清水街道があります。神社としては鎮守稲荷神社。同社の社守宅では小規模な寺子屋も開かれていました。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年東和賀郡に属します。明治11年の村の幅員は東西1里14町・南北11町、税地は田56町余・畑293町余・宅地5町余など計394町余、戸数25・人口144(男68・女76)、馬9、神社1(稲荷神社)、職業別戸数は農業24・神官1、物産は馬・米・大豆・小豆・小麦・粟・稗・蕎麦・蘿菔・麻布・麻糸、地味は北西部が沃土で南東部が瘠土といいます。明治22年飯豊村の大字となります。昭和25年の世帯数186・人口928。同29年北上市飯豊町字藤沢となります。昭和42年に一部が堤ケ丘1~2丁目・上野町3丁目となります。同31年県立北上農業高校新築移転、その後同56年相去町に再移転。同54年北上流通基地の造成工事完了。

出羽三山(平成13年10月21日建立・参拝同行:下杉好・菊池美視・佐藤敬志・佐藤邦夫・菊池豊治・八重樫清志・佐藤夏夫・八重樫護・八重樫秀利・八重樫輝明・八重樫忠夫・八重樫昌喜・八重樫浩幸・千田京悦・八重樫広貴・佐藤洋・八重樫義勝・八重樫武志・下杉義勝)

鳥居。
参道石段。
石段途中の鳥居。
社殿前鳥居(平成23年9月9日、藤沢稲荷神社氏子一同奉納)
参道を振り返るの図。

狐一対(藤沢稲荷神社創建335年記念実行委員会・平成30年9月9日建立、委員長八重樫良市・宮司伊勢義人・副委員長八重樫康市、同八重樫敏之・事務局菊池豊治・会計佐藤敬志・委員菊池美視、同八重樫信也、同齋藤圭介、同八重樫義勝、同八重樫敞・同佐藤繁治・同佐藤邦夫・同高橋行歩・同八重樫昌喜)

由緒にもあるように、盛岡藩士の奥寺八左衛門定恒が用水路開削における工事において困難を極めたため、伊勢神宮に成功を祈願したところ、夢で「白いキツネが堰造りを助ける」とのお告げを得ます。後日2人の人物が現れて取水口と水路の位置を示します。名を尋ねると白いキツネとなって姿を消しました。これが奥寺堰であり、和賀平野の開墾につながり、神徳を讃えて建てられたのが藤沢稲荷神社です。この伝説・由緒に基づいて建立された狐であり、通常の稲荷神社の眷族よりも更に深い意味を持ちますね。

石灯籠一対(平成16年9月吉日建立)


社殿。
由緒(神社庁より※上記案内板にほぼ同じ。但し天保と天和の違いあり)…『寛文5年(1665)南部藩士奥寺八左衛門定恒この地に開墾のことを起こし、延宝7年(1679)業成る。この間十有余年克く八千石の新田開墾に成功する。先に開墾の儀起こるやこの水源を求むるに数カ所を選び穿鑿せるも、遂に水に至らずその労策を失う。ここに於いて八左衛門、常に信仰する伊勢大神宮に人を派遣祈誓し、傍ら水源探索に余念なし。或夜、神夢に告げがあり、白狐をして堰代を示さんとす、後程二名の者来り堰代を教導せんと告ぐ。氏名を尋ねるに、汝が誠魂に応え堰代を示さんとて白狐に化し逸走せり。これに当て得堰代を定め水源を求めて新田開墾に成功する。この神霊に応え天保3年(1832)3月藤沢村に一宇を建立、住民氏子の鎮守となし毎年9月9日を以て例祭と定める。』

拝殿向拝神額。

拝殿内。

幣殿・本殿。

本殿横にある狐塚(照井將・菊池豊治奉納)



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