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岩手県上閉伊郡大槌町安渡2丁目。大槌郷総鎮守大槌稲荷神社(二渡神社)。
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大鳥居(東日本大震災津波で基礎部分から折られて流されてしまいましたが、その後、奇跡的にそのままの状態で見つかり、現在は流失の扁額部分を新しいものに替えています。)
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社号標「郷社大槌稲荷神社」(昭和18年、玉筋魚旋網漁業大漁記念)
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東日本大震災の災禍を乗り越え、大槌郷の総鎮守として広く崇敬されている神社です。
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参道。
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灯籠がたくさん。
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狐一対。
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大槌稲荷神社は上閉伊郡大槌町安渡にある神社。二渡稲荷の名で親しまれています。旧郷社。御祭神は倉稲魂命・健御名方命。創建年代は未詳ですが、社伝では安渡の大屋(小国家)の氏神から鎮守に発展したもので、最初は安渡の笹原にありましたが、正保2年波辻崎、次いで享保5年現在地に遷されたといい、この両度の移転によって二渡稲荷と称されるようになったと伝承されています。昭和18年郷社に列せられます。当地の豪商前川善兵衛をはじめ、沿岸地方の農漁民の信仰を集めており、農産神・海上守護神として奉斎されてきました
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例祭は旧暦8月9日で、神輿の海上渡御が行われており、満艦飾の漁船が大槌湾内をパレードする曳船祭は壮観。
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大槌町観光交流協会HPより…『大槌城主大槌孫八郎、江戸時代の豪商前川善兵衛にも信仰された歴史ある神社。江戸時代前期の創建とされます。倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・健御名方命(タケミナカタノミコト)の二柱を御祭神として、当初は笹原稲荷の社名で、現在の寺沢の地に祀ってありました。その後鳩崎(現在の釜鼻の地)に遷座、時代の経過とともに参拝者が増え境内が手狭となり、1720年(享保5年)現在の稲荷山に豪商前川善兵衛を主として船主らが新宮を造営、二渡神社と改称しました。大槌城主・大槌孫八郎の信仰も厚かったとされています。1943年(昭和18年)には郷社に列し、社名を大槌稲荷神社と改め今日に至っています。神の神社の特色を持ちながら、五穀豊穣・海上安全・富国安民の祈誓をこめられるなど、沿岸地方にあって霊験あらたかなお社として崇敬されています。』
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石鳥居。
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奉納碑(大正元年旧8月9日建之)
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狐一対。
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参道石段。
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Wikipedia「大槌稲荷神社」より一部抜粋…『大槌稲荷神社は、岩手県上閉伊郡大槌町に鎮座する神社。旧社格は郷社。【祭神】倉稲魂命、健御名方命【歴史】江戸時代前期の創建とされる。当初は町の東方にあったが境内地が狭かったため、豪商前川善兵衛を主として船主らが1720年(享保5年)新宮を造営。二渡神社と称した。大槌城主・大槌孫八郎の信仰も厚かったとされる。1943年(昭和18年)には郷社に列し、現在の名に改称した。【例祭】町内にある小鎚神社と合同で行われる大槌まつりは虎舞等の郷土芸能と神輿渡御行列、漁船に神輿と郷土芸能が乗る曳船まつりで構成される。【文化財】前川善兵衛から寄進された石灯籠と手水鉢が大槌町から有形文化財に、オシラアさまが町から有形民俗文化財に指定されている。』
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石灯籠一対と手水鉢(町指定有形文化財)。豪商前川善兵衛(4代目富昌)の寄進。
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鐘がありました。「奉納里館倉蔵殿」とあります。
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大槌城山虎舞HP「大槌稲荷神社(二渡神社)」より一部抜粋…『【祭神】稲倉魂命【合祀神】健御名方命【祭日】旧8月9日【由来】大槌稲荷神社は二渡神社とも呼ばれ、その由来は最初大屋(安渡小国家屋号)で奉祀した場所は安渡寺沢地内大槌稲荷神社の笹原という処(現安渡三丁目地内)であったが、安渡村民の願意も厚く正保2年(1645)に波辻崎(現安渡三丁目水門付近、水天宮)に移したという。笹原鎮座の時代は笹原稲荷と呼ばれ大屋の氏神的存在であったが、波辻崎に移って波辻崎稲荷と称された頃は既に漁村の鎮守に任じたものであった。その後、波辻崎は参詣に不便という理由から享保5年(1720)、前川氏・里館氏が発願者となり氏子が協力して現在地に移転することとなる。このおいなりさん2回の移転が二渡の神社名の根拠となる。稲荷神は本来穀物の神でありその神体尊像も稲を肩にになった老翁の姿であって、2月初午を祭日とすることが普遍的に行われてきた。狐はその神使であり、萬能に通ずるといわれた狐は村民に畏敬され、田の神の神使と思われこれを尊信する風が稲荷信仰に随伴したものと考えられている。稲倉魂命を本体とする稲荷信仰は江戸時代になると単に農耕神のみでなく、収穫つまり収入の神として商業神的性格も持つようになり、ひいては漁村や漁港で漁の神としても祀られるようになった。【まつりの歴史】元文年中(1736~)には二渡の神輿は四日町(現上町)、八日町(現本町)まで渡御していた。安永8年(1779)9月、二渡神社の祭礼はこの頃は29日に行われ、元文以来両町まで神輿渡御するも、短日で廻りかねるので安渡限りにしたいと願出てこれを許された。文化九年(1812)になると南部藩主が神道支持を打ちだし、従来は神道派(小槌神社)と修験道(二渡神社)が両立していたのに、翌文化10年(1813)からは神道派以外の各社は神輿渡りの祭事を差止められ、二渡神社や町方の観音の祭礼も禁止の憂目に逢った。また、これにまつわる話として先に述べた文化9年の藩令により、代官所を通じて二渡神社を当時の小槌明神別当に神社を掛持ちさせるとの通達があった。小槌明神別当は安渡の船頭達に二渡神社申受けの旨を伝えたところ神輿から戸障子の果てまで二渡の山から引き下げ、村中大騒ぎとなっている。文献によれば文政3年(1820)「差留中の神輿渡御の祭事を、願出れば許すの回状あり」とあるので、1813年~1820年までの7年間は二渡神社の祭礼は行われなかったことになる。-町立図書館蔵「大槌町史」より抜粋-【災害を越えて】平成23年3月11日の大震災 大津波の際には高台に鎮座していた為、難を逃れた。有史以来、何度となく津波の被害を受けてきた安渡地区を守護する神社として、高台建立は必然的だったと思われる。震災後約5ヶ月間、避難所として地域住民の臨時の生活拠点となる。』
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社殿・参集殿。
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神社庁寄り…【御祭神】倉稲魂命、健御名方命【例祭日】9月22日【鎮座地】上閉伊郡大槌町大槌第28地割23番地【由緒】当神社は倉稲魂命、健御名方命二柱の大神を祭神として祀り、元来町内東方波辻崎の地に鎮座せしが、境内地狭地にして往々諸参詣の障を察し、御鬮を以て神慮を伺い奉り、豪商吉里々々善兵衛氏を主として、一浦の船主、船頭渇仰し享保五年(1720)新宮併拝殿を造立。当年九月九日当山に再遷宮なるを以て神号を二渡と崇唱し奉り、大槌郷の総鎮守として大槌城主大槌孫三郎広長及び大槌孫八郎広信の崇敬厚く、寛保元年(1741)六月、藩主南部修理大夫利視公直拝され、又安永五年(1776)八月、北監物殿(南部家御三家の一人)参拝され、五穀豊穣・海上安全・魚藻大漁・富国安民の祈誓を篭られ、庶民亦産業豊成の御神徳顕かなるお社として、昭和十八年(1943)郷社に列せられ社名を大槌稲荷神社と改称、益々ご神徳の発揚と地域住民の信仰いよいよ厚く、広く地方産業育成の守護神と仰がれ、各地より厚く信仰を集める神社である。
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狐一対。
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拝殿向拝。
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拝殿内。拝殿内神額(佐々木忠郎奉納)。
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権現様と幣殿の狛犬一対。
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神楽の面がたくさん。
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節分祭の神楽・鬼巡行(鬼の面をつけて町内巡行・豆まき)で着用するみたいです。見てみたい!
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幣殿・本殿覆屋。
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小さな鳥居と…
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聖徳太子。
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石灯籠(昭和15年旧2月)
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厄割の玉。
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厄割の玉を握り、自身に降りかかる厄や災い、悩み事が去るように念を込め、その玉に息を吹き掛けたら〆縄中央の厄割石目がけて投げ込み、割砕きます。晴れ晴れとした気持ちで良い一年をお過ごしください。
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神輿殿・古札納所。
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現在の神輿(左から2番目)は新調されたもので、両サイドの小さな神輿は、震災後に持ち手不足を危惧した支援者が少人数でも担げる神輿として、子供神輿と併せ寄贈したものです。
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鳥居。
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金刀比羅宮(昭和41年9月18日建立)
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神輿修繕神輿殿新築寄附人名碑。
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天照皇大神宮・出雲大社・金刀比羅宮・古峰神社(昭和2年)
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境内社。
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うん?
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裏に鳥居がありました。
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境内社八幡宮。
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石灯籠。
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狛犬。
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境内社。
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八大龍神(大正11年旧5月25日)稲荷神社等。
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境内社八大龍王社。八大龍王社は古来より、海上安全・海幸守護の神、海の神様として、氏子漁師に信仰されてきました。以前は講中が結成され旧暦4月8日をご縁日として神事を行われていました。現在は講中も解散してしまったため、個人単位による例祭が執り行われています。
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八大龍王講中(昭和56年5月6日)・石灯籠(文政8乙酉年正月吉日)
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八大龍王社(明治39年旧4月8日)。猿田彦の石碑や文化十三年丙子3月21日建之の石殿等もありました。
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