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岩手県上閉伊郡大槌町上町。県道280号大槌小鎚線沿い。大槌町役場、浄土宗見生山大念寺(三陸観音霊場29番札所)付近。
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灯籠一対(平成28年9月吉日)
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3.5
小鎚はかつて小槌とも書きました。大槌湾に注ぐ小鎚川の流域に位置しており、北上山地の白見山・小鎚山麓に発した小鎚川が、南側の赤内森から発する種戸川と合流する付近に存在する山村。各集落から縄文中・後期の土器片が発見されています。白見山と新山付近は古くから製鉄の場であったとされ、俗称金クソ平といわれました。金クソ(鉄滓)が露出し広範囲にわたって製鉄が行われたことを物語ります。大同年間頃に土地の開拓者芳形某を新山明神平に祀ったのが起源といわれる小鎚神社は、村民の信仰を集め、天長年間に一ノ渡に、そして寛永6年に現在地の上町に移されました。小鎚神社の遷座は従来の大槌町の文化や生活の発展が山間地から海岸部へ移行したことを示すものと考えられます。また、製鉄に関する伝説も多く残されています。大同2年銘がある鍛冶絵巻によっても製鉄業の盛んだったことが想定されます。更に俗称鬼打ちの屋号で呼ばれる東梅氏宅には言い伝えがあり、遠い先祖が葡萄森の山麓で鍛冶業をしていた時、毎晩鬼が押し入り屋内を荒すので、待ち伏せて槌で叩き出したといいます。その鬼は山中を逃れ青ノ木(釜石市)でアオノゲ(仰向き)になって死んでいました。東梅家では叩いた槌を川に捨てたところ、大きい槌は大槌川に、小さい槌は小鎚川の河口に流れついたところから、大槌・小鎚の名が生まれたといいます。大槌と小鎚の木偏と金偏の違いは、大槌古城物語によりますと、かつて村境の紛争があって寛文年間に大槌代官所が仲裁して村境を決定し、その際に文字も改めたものとされています。
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江戸期の小鎚村は閉伊郡のうち。盛岡藩領。大槌通に属します。村高は正保郷村帳127石余(田83石余・畑44石余)、貞享高辻帳159石余、邦内郷村志・天保郷帳ともに275石余、天保8年も275石余、うち蔵入高257石余・給所高18石余、安政高辻帳221石余、旧高旧領275石余。地内の四日町・八日町は、中世の山城の麓に城下町として発達した地で、江戸期には南部氏第28代の藩主重直の閉伊通巡検の際に改めて町立てされたといわれ、大槌通の中心として大槌代官所が設置されました。なお、大槌通や大槌代官所の名は町家続きで隣接する大槌村の名によります。四日町・八日町の両町には検断が置かれて在郷とは別に行政が行われました。また、両町は大槌街道の大槌宿を形成し、月3回ずつ市が開かれ、沿岸部と内陸部の交易の場となりました。邦内郷村志では家数123、馬285、徳波・内金崎・向川原の3集落が見えます。本枝村付並位付によりますと位付は下の上、家数263、集落別内訳は四日町74・八日町52・本村96・徳波27・小枕3・向川原10・内金ケ崎1。水産業が活況を呈するようになって中心が海岸部に移るまでは、この地域の生命線となっている小鎚川の発する山岳地帯に製鉄を中心として活気を呈していました。八日町では慶長16年と元和2年の2度にわたり市日に大津波に襲われ、多数の死者を出しました。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年南閉伊郡に属します。同12年の村の幅員は東西2里15町・南北30町、税地は田45町余・畑160町余・宅地12町余・切替畑20町余・社地4畝余・荒地17町余・鍬下3反余など計257町余、戸数491・人口2,349(男1,161・女1,188)、牛5・馬259、寺社には小鎚神社・稲荷神社・天照御祖神社・大念寺があり、大槌学校(生徒数86)・郵便局・釜石警察署大槌分署が置かれ、職業別戸数は農業162・工業34・商業138・雑業152、物産は馬・鶏・鹿・鮭・米・大豆・小豆・大麦・小麦・桃子・梨子・炭・生糸・麻糸など。同22年大槌町の大字となります。明治22年町議会で議決された大槌町条例により小鎚に区会を設置、同34年魚類青物市場の設置を可決。昭和28年一渡分校が独立して小鎚中学校となり、同46年大槌中学校に統合。小鎚土地改良区の開田記念碑によりますと、昭和29年土地改良区の設立が認可され、小鎚川流域の開田整備事業が着工され、同31年竣工、小鎚川流域一帯に総面積24.5haの田園が完成しました。小鎚川上流、種戸川の水源ともなる新山高原には、昭和44年大槌町肉用牛繁殖センターが完成。このセンターの新山牧場は草地が308haと広大であり、その周囲をめぐる隔障物(バラ線)は56.331km。新山高原からは大槌湾や三陸海岸が一望でき、春は町の花とされた新山つつじ、夏の避暑、秋の紅葉など四季を通じて絶好の行楽地となっています。昭和39年には地内の一部が大町・須賀町・桜木町・上町・本町・栄町となりました。
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社号標「郷社小鎚神社」。比較的新しいものですが「郷社」の文字があります。かつての社号標(米内光政海軍大将揮毫(寄進者 北海道田中伍弊))が震災によって崩壊したため、新たな寄進者によってそのまま再建されたためです。
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石灯籠一対(寛政11年己未3月)
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木製鳥居。大槌町観光交流協会HPより…『東日本大震災では、津波後の山火事による社殿消失の危機を、氏子達の奮闘で守り抜きました。そして、本殿前の木製の鳥居。鳥居近くの瓦礫の中にあった軽トラックが爆発し、その火事が鳥居に燃え移りましたが、懸命な消火活動で消失は免れました。その時のなごりがそのまま残っており、当時を面影を残しています。』
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鳥居向かって左側が焦げています。鳥居向かって右方に崩壊したかつての社号標「郷社小鎚神社」が寝かせて安置されています。
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参道。
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右手に東日本大震災鎮魂之碑(平成23年3月11日岩手県大槌町)などの碑があります。
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手水舎。
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天然水「明神の水」とありました。
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奉納御手洗石・狛犬一対(昭和六十二年九月吉日 大槌町新町住人 大和田武)
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『新山は神山で神の天降りせし山の意味という。閉伊七明神のうち小鎚大明神は古くから是処に御鎮座。小鎚・大槌の山々・里人・海原の守護神として崇敬されて参りました。この度御祭神日本武尊の一字を以って"武"と名付けられし赤縄により、御稜威に洛しましたことを忝けなくみて神恩感謝の誠を捧げるものであります。』
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小鎚神社略記…『【一、御祭神】日本武尊【一、例祭日】9月23日【一、由緒】当神社は、大同の頃、新山牧場の入口、明神平に土地の開拓者芳形氏を祀ったのがその起源とされている。第一次に一の渡、第二次に古明神に移り、更に寛永6年(1629)9月現在地に遷座された。往古より地方開拓の産業神及び武の神として普く崇敬される。例祭には必ず代官の奉幣参拝があった。明治5年(1872)に村社に列格、同41年(1908)3月、神饌幣帛料供進神社に指定。昭和21年(1946)郷社昇格、内規上は郷社に該当すると認められしも社格制撤廃のため今日に及ぶ。【一、東日本大震災】平成23年3月11日、境内駐車場(約2メートルまで浸水)まで大津波が押し寄せ瓦礫で埋め尽くされる。その後、山林火災で本殿裏まで火の手が追ったが氏子の懸命な消火活動により奇跡的に被災を逃れる。』
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鳥居。
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石灯籠二対。
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18.5
内一対は延享5戊辰歳5月11日(※16日かも)、大槌の豪商であった前川善兵衛が寄進したもの。
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もう一対は大正15年9月29日。
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20.5
樅の木(町指定天然記念物:平成4年2月29日)。
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樹齢500年ともいわれています。
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隣り合う3本の杉と共に小鎚神社のパワースポットとして親しまれています。
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社務所。
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小鎚神社は上閉伊郡大槌町小鎚にある神社で旧村社。御祭神は日本武命、他5柱。創建年代は未詳ですが、社伝では大同年間に新山高原の明神平に土地の開拓者芳形某を祀ったのが始まりとも、天長6年慈覚大師が海辺の人々の信仰心の薄いのを憂えて、閉伊七明神の1つとして建立したともいいます。その後、明神平から一ノ渡・古明神を経て、寛永6年に現在地に遷ったと伝承されます。例祭はもと9月19日でしたが、現在は9月23日で、神輿や山車が繰り出され、太神楽・鹿踊・虎舞などが奉納されます。なお、神輿は当地の豪商前川善兵衛家が享保11年に寄進したものといいます。
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小鎚神社(Wikipediaより一部抜粋)…小鎚神社(こづちじんじゃ)は、岩手県上閉伊郡大槌町に存在する神社。旧社格は郷社。大槌(つち)町の小鎚(づち)神社であり、漢字も読みも違う。【主祭神】日本武尊、櫛磐間戸命、豊磐間戸命、稲倉魂命、少名彦名命、素戔鳴命【社格等】旧郷社【例祭】9月第3月曜日(敬老の日)【由緒】天長6年(829年)に新山(大槌町と釜石市に跨る山)でヤマトタケルを奉ったことが始まりとされる。以降暫時東に遷され、寛永6年(1629年)9月に現在の場所に遷されたとされる。源頼義とその子義家が前九年の役で安倍貞任を倒した後、現在の釜石市から山田町にかけての地域数十郷の鎮守として、閉伊郡中七社明神の一社とされた。昭和21年(1946年)郷社となる。【神輿渡御】9月第3月曜日を含む3連休に行われる大槌まつりの小鎚神社祭典神輿渡御では神社を出発した神輿が小鎚川を渡河することが見所となっている。【文化財等】1748年(延享5年)、前川善兵衛から寄進された石灯籠が町から有形文化財に、境内のモミが町から天然記念物に指定されている。また金銅伝牛頭天王座像も指定されているが、所蔵者宅が東北地方太平洋沖地震の津波後に発生した火災によって焼失した。【奥之院】創建の地とされる新山高原には小鎚神社奥之院が存在するが、この場所が創建時の正確な位置であるかは定かでない。
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石灯籠二対(寛政9丁巳年7月17日、平成6年10月吉日)
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狛犬一対(昭和13年9月19日、原籍上閉伊郡栗橋村字橋野 當時大槌町 菊池英三)
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拝殿。
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拝殿向拝。
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御祭神は日本武尊、櫛磐間戸命、豊磐間戸命、稲倉魂命、少名彦名命、素戔鳴命。例祭日9月23日。
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神社庁より…『本社は人皇天皇第五十三代淳和天皇の天長六年(829)の頃、新山と唱えし所(大槌町西方約四里)に日本武尊を奉斎しありしが暫時東遷、第一次に一の渡、第二次に古明神に移り、更に寛永六年(1629)九月、今の地に遷座せり。往古より地方開拓の産業神及び武の神として普く崇敬せられ、源頼義、その子義家、安倍貞任を征するや、阿曽沼・大槌両氏を経て、南部氏盛岡治城後、領内の政治区画を定め、通りというを設けて大槌通りに代官所を置きて以来、釜石・甲子・鵜住居・栗橋・金沢・船越・織笠・山田・轟木・大沢等、数十郷の鎮守として、釜石尾﨑明神と共に本社を閉伊郡中七社明神の一社として深く崇敬す。例祭には必ず代官の奉幣参拝あり、又、藩主御巡見の際は代官をして奉幣代参せしむるの例あり、第三十六代藩主南部利敬公の御沙汰により本社として加茂明神を祀らせ、代官をして五穀豊穣を祈願せしめたり。明治五年(1872)に村社に列格、同四十一年(1908)三月、神饌幣帛供進神社に指定せらる。昭和二十一年(1946)郷社昇格、内規上は郷社に該当すと認められしも、神社院及び社格制撤廃のため今日に及ぶ。』
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神輿庫。
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神輿庫前灯籠一対(昭和56年9月23日臼沢鹿子踊保存会)
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向かって左が「観音神輿」、右が「明神神輿」。展示されている神輿は2代目(H9造営)。
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初代は隣の倉庫に保管されています。観音神輿:元禄10年3月11日江戸宮大工杉□利兵衛作、明神神輿:享保11年11月宮大工小松野伊勢蔵作、金崎武左エ門・前川善兵衛(三代助友)寄納。
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社殿向かって左手。
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山神。
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こちらは不明。
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稲荷社。
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石碑群。
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三社託宣(大正8年旧2月14日)
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上記末社等もそうですがジャンボ5円玉があります。
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金比羅神社・鹿嶋神社・古峯神社(大正■年旧2月14日)
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天照皇大神(皇紀2600年記念・昭和15年旧3月吉祥日建之)
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山神。
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聖木乃碑・山神。
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