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岩手県宮古市沢田。
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狛犬一対。
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山門。
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官軍小西周右衛門の墓(宮古市指定文化財・徒歩5分)…『常安寺墓所内には、宮古港海戦の前年に宮古に立ち寄った備前岡山藩士小西周右衛門の墓があります。当地で病死したことから、宮古代官所と岡山藩役人との相談の上、常安寺に埋葬されたとのことです。』
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宮古市港海戦記念碑・墓碑等案内図(宮古港海戦150周年記念事業実行委員会)
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宮古市指定文化財(平成元年6月27日指定宮古市教育委員会)…『【常安寺本堂欄間彫刻】①龍を中心に霊獣二頭の彫刻 三面 〇技法…透かし丸彫り 龍には彩色 〇銘文…奉寄進三数施主早野定右衛門 彫師 直藏 文化十二乙亥年七月吉日當寺十六世祖道代 ②天人迦陵頻伽奏楽の彫刻三面 〇技法…透かし丸彫り 金箔押し 〇銘文…有りと推定されるが調査不可 ③獅子と牡丹の彫刻二面 〇技法…透かし丸彫り 〇銘文…有りと推定されるが調査不可 ④人物、鶴、亀、松樹の彫刻三面(全部欠損)〇技法…透かし丸彫り 彩色 金箔押し 〇銘文…有りと推定されるが調査不可 〇前掲…三組の彫刻より古い時期の作 右四組十一面の欄間彫刻は、江戸中期より江戸末期までの作品で、桃山様式の特徴である雄大さと自由奔放で重厚な技法の作品であり、当地方に於ける彫刻師の優れた技能の水準を示す作品である。【杉戸絵】①鶴の図(丹頂二羽と真鶴一羽)②群鳩の図(群鳩十二羽)〇技法…濃彩画(濃絵)濃い彩色と強い線描による写実的表現 〇銘文…東舟㊞ 〇鶴の図について…丹頂と真鶴が強い描線で写実的に表現されている。〇群鳩の図について…三群の鳩を二枚の杉戸の対角線下に配置した構図である。〇表裏の絵の特色は、視点が対象に極めて近く、表現の確実さと安定性に作者の意をうかがい知ることが出来る。鳩の図は、群化と配置、写実と構成と心象的表現が一つの画面の中で巧みにささえあっている絵である。』平成元年6月27日指定宮古市教育委員会
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黒田は閉伊川支流山口川流域に位置。山際に開けた平地に立地。地名の由来は黒色の土田で肥沃な田地に因むものか、或いは古いクロの田を意味するものか諸説あり。中世の黒田は戦国武士黒田氏の本拠地。閉伊郡のうち。黒田氏は閉伊氏の臣、近能氏の分流。黒田館は閉伊頼基の近臣、近能佐七郎親良の居所と伝えます。判官館とも称します(実際の築城は室町末期か)。宮古市役所北側の尾根上にあります。閉伊川の湊を見下ろす要衝の地。主郭・二の郭・三の郭・空濠・帯郭などが残ります。110m×170m。主郭の標高65m。近くの宮古山常安寺は花原市華厳院(閉伊氏菩提所)の末寺。天正8年三叟義門(華厳院6世)の創建。2世岳翁嶺の慶長19年に大津波によって伽藍を流失。「常安寺沿革史」によりますと、天文年間の当地は千徳安防(安房か)の知行するところで村高は220石余であったと伝えます。また、天正年間には現在の小沢・横町辺りを黒田谷地と称し、慶長年間以降黒田村と称したともいいます。
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江戸期の黒田村は閉伊郡のうち。盛岡藩領。宮古通に属します。村高は大坂の陣の時に17石余といい、邦内郷村志では171石余(うち給地4石余)。正保郷村帳・貞享高辻帳・天保郷帳・安政高辻帳・旧高旧領には村名が見えず、仮名付帳では宮古村の枝村として見えます。天保8年の御蔵給所惣高書上帳によりますと村高161石余のうち蔵入地154石余・御免地高6石余。邦内郷村志によりますと家数157うち小沢13。本枝村付並位付によりますと位付は中の上、家数166、集落別内訳は新町64・横町64・本町22・小沢16。但し新町・横町・本町の3ヶ町は宮古代官所附となっており、また本町は宮古村分本町(24軒)と合わせて1ヶ町となります。慶長年間の大津波では当村は山際の数軒を残して流失。神社としては文治年間源九郎義経が渡海安全を祈った社と伝える判官稲荷神社があることから、当村名は九郎田の転訛の黒田だという伝承があります。寺院としては天正8年三叟義門大和尚の開基という曹洞宗宮古山常安寺があり、慶長16年に津波で流失しましたが、寛永2年には郡代小本助兵衛正吉・肝入花坂(黒田)蔵之助の尽力により大伽藍が建立されたと伝えます。明治元年松代藩取締、同2年江刺県、同4年盛岡県所属。同年宮古村の一部となります。
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碑がたくさん。石橋供養塔・敷石供養塔・無常道供養・馬頭観世音・青面金剛塔・庚申供養塔・念佛供養塔・大乗妙典一字石・菓子技術功労者供養塔・安倍先生頌徳碑・中村桂子女史碑・東日本大震災物故者供養塔(この惨禍、永遠に忘れる事なかれ 津波予想あるときは直ちに高台に避難せよ)…その他諸々。かなり見応えあります。
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聖観世音菩薩・消防士追悼碑等々。
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灯籠一対。
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曹洞宗宮古山常安寺。御本尊釈迦如来。三陸三十三観音霊場第33番札所(如意輪観音)・北国八十八ヶ所霊場第71番札所(釈迦如来)。華厳院末寺。
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狛犬一対。
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手水舎・手水石。
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鐘楼。
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天正8年(1580)華厳院六世三叟義門が和見館間に一宇を建立。これを古常安寺といいますが、慶長16年(1611)二世嶽翁嶺鷲の時に閉伊沿岸を襲った大海嘯で流失。その後、横町の深山にあった別当永貞坊長福院の屋敷内に小庵を結んで仏事を続けるも、寛永2年(1625)三世角無先牛に至り、代官小本助兵衛・黒田村肝入内蔵之助らの尽力によって現在地に再建。また、常安寺七世霊鏡竜湖の時代、享保元年(1716)に大修理が加えられています。霊鏡竜湖は浄土ヶ浜の命名者として知られており、また、浄土ヶ浜にある「賽の河原の子安地蔵」の建立者。
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Wikipediaより一部抜粋…『常安寺は、岩手県宮古市にある曹洞宗の寺院。山号は宮古山。華厳院の末寺。【概要】1580年(天正8年)に、華厳院六世・三叟義門が舘合に創建したが、1611年(慶長16年)、慶長三陸地震の大津波で流されたことから、1625年(寛永2年)に現在地に再建された。当寺七世・霊鏡竜湖の時代、1716年(享保元年)には大修理が加えられている。また天和年間(1681年から1684年)において霊鏡竜湖が当寺東にある海岸を「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから浄土ヶ浜と命名された。毎年、浄土ヶ浜まつりの4月29日に、当寺が安全祈願の霊鏡祭を行っている。【文化財】当寺本堂の欄間彫刻は龍、獅子、天女が透かし彫りされ、色彩豊かに彩られている。1815年(文化12年)に早野定右衛門より寄進された。彫師は当地出身の宮大工、直蔵。市から有形文化財に指定されている。』
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