
岩手県釜石市鵜住居町第13地割。
鵜住居は東部は大槌湾に面し、鵜住居川が東流して同湾に注ぎます。地内泉沢からは縄文中期の土器が出土。中世の鵜住居は戦国武士鵜住居氏の本拠地。閉伊郡のうち。鵜住居氏は大槌氏の一党。大槌孫八郎広紹(広信)の弟に鵜住居久右衛門広重の名が見えます。桜川の古館は根浜近くの山頂。源義家の陣所と伝えますが未詳。対岸の館山は安倍館ともいい義家に追われた安倍氏の残党が立籠ったところといいます。

江戸期の鵜住居村は閉伊郡のうち。盛岡藩領。大槌通に属します。慶長年間大槌城主大槌孫八郎政貞の弟久右衛門が当村に80石を知行、政貞滅亡後久右衛門は鵜住居氏を名乗りました。慶長19年大土御蔵納米を見ると、当村は69駄片馬2斗6合、根浜村は20駄片馬1斗2升3合を納入。村高は正保郷村帳70石余(田10石余・畑60石余)、貞享高辻帳88石余、邦内郷村志111石余(うち給地53石余)、天保郷帳111石余、安政高辻帳89石余、旧高旧領111石余。元禄4年両石・箱崎・鵜住居・片岸4ヶ村の代表と栗林村六右衛門の合意により、曹洞宗常楽寺を栗林村太田から当村内に移転、山号を清涼山とします。寛保3年には小川惣右衛門の知行地として新田47石余がありました。邦内郷村志によりますと家数66(うち村内集落として根浜11)。本枝村付並位付によりますと位付は下の上、家数93、集落別内訳は本村61・根浜10・田郷22。天保8年の御蔵給所惣高書上帳によりますと御蔵高58石余・給所高53石余。慶応3年大槌録によりますと当村内の知行高は駒木庄二郎25石余・小川縫之助18石余。三閉伊通では弘化4年・嘉永6年に藩政改革を要求する百姓一揆が起きています。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年南閉伊郡に属します。明治11年の村の幅員は東西34町・南北25町、税地は田15町余・畑135町余・宅地5町余・荒地18町余など計175町余、戸数114・人口681(男334・女347)、牛129、馬69、漁船1、神社3・寺院1、職業別戸数は農業105・工業7、物産は馬・牛・鮭・鱒・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・黍・蕎麦・濁酒・蘿菔・栗・塩・麻・竹・薪・炭・藍など。明治12年鵜住居小学校創立。同17年両石・箱崎・鵜住居・片岸・栗林・橋野各村の戸長役場を廃止し、鵜住居村外五ケ村戸長役場を当村に設置。同20年鵜住居・両石の両小学校が合併、鵜住居尋常小学校となります。同22年鵜住居村の大字となります。はじめ南閉伊郡、明治30年からは上閉伊郡に所属。鵜住居・両石・箱崎・片岸の4ヶ村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。役場を鵜住居に設置。明治22年の戸数447・人口2,637。同23年箱崎簡易小学校を箱崎尋常小学校と改称。同25年両石分校は両石尋常小学校となります。同29年の三陸大津波による被害は人口3,153のうち死亡1,061、戸数474のうち罹災227、集落別被害状況は両石では戸数144のうち罹災141、人口958のうち死亡824。鵜住居では戸数143のうち罹災7、人口952のうち死亡9。箱崎では戸数112のうち罹災47、人口744のうち死亡174。片岸では戸数75のうち罹災32、人口499のうち死亡54、両石湾の波高14.6m。同30年両石尋常小学校を廃止して鵜住居尋常小学校に合併。同32年室浜地区に赤痢発生、村内に蔓延して322人が罹病し死者49人を出し、各小学校は9月から11月まで休校、このことにより各地域に衛生組合が設立され、同33年統合鵜住居衛生組合となります。明治20年専用漁業権の確立にともない、両石対箱崎・大槌、箱崎対両石、箱崎対大槌、最後は箱崎・両石対大槌の間で、地先権・入漁権・漁業権などについて紛争がもつれ、約20年間紛糾ののち同42年解決。明治30年巡査駐在所設置。同42年栗橋外三ケ町村土木組合(栗橋村・鵜住居村・青笹村・遠野町)設立、鵜住居から栗橋、青笹を経由し遠野に至る鵜住居線の改修工事に従事し大正13年解散。明治45年隣村の栗橋分工場から生産された銑鉄2,082tを両石港から積み出しています。大正元年の戸数456・人口3,072。同8年消防組結成。世帯数・人口は大正10年500・3,580、昭和7年585・4,049。同8年の三陸大津波による被害は死亡5、流出家屋141、両石湾の波高9.14m。同10年両石湾口三貫島はオオミズナギドリ・ヒメクロウミツバメの繁殖地として国天然記念物となります。同14年国鉄山田線鵜住居駅開設。同21年日蓮宗妙見堂を妙見山本行寺と改称。同22年鵜住居中学校・箱崎分校を開校。同23年箱崎分校は箱崎中学校となります。同25年の世帯数1,008・人口6,197。同26年国鉄山田線両石駅を開設。同30年の世帯数1,057・人口6,383。同年釜石市の一部となり村制時の4大字は同市の町名となります。集落は川目・新田・鵜住居・根浜・外山に分かれます。昭和35年以降市営アパートが建設され住宅街を構成。同38年公民館・県立釜石北高校校舎建設。同48年当町と箱崎町・栗林町の各中学校を統合して東中学校として地内に設置。鵜住居・箱崎・両石・片岸町の行政事務を取り扱う市役所鵜住居出張所、銀行・商店街があります。他に市営食肉処理場・鵜住居地区生活改善センター・養護老人ホーム五葉寮・根浜海岸健康福祉センター・根浜レストハウス・鵜住居保育所・鵜住居幼稚園・鵜住居児童館・同新川原分館・鵜住居小学校などがあります。
入口付近にあった石碑群。


猛暑に負けてきちんと見ていません。

鳥居。
狛犬一対(昭和10年旧8月17日)
鳥居。

鵜住居青年會という建物の裏にも何かありましたが猛暑に負けて見ていません。

市指定天然記念物の夫婦クロベは伐採されたようです。
鳥居。

石碑群。

出雲神社・不動神社、天照皇大神・豊受皇大神、馬頭観世音菩薩、庚申塔(文化5年8月27日)、西國三十三所金刀比羅大神、天照皇大神・天児屋根命・天布刀玉命、金刀比羅大神・大峯山、足尾山(明治32年8月17日)、庚申供羪(宝暦13年7月吉日)、南無妙法蓮華経…状態はいいのですが猛暑に負けて紀年銘等詳細まで見ていません。




鵜住神社神輿保管庫兼こもり場。

参道石段と御神木。
鵜住神社(Wikipediaより一部抜粋)…鵜住神社(うのすみじんじゃ)は、岩手県釜石市鵜住居町にある神社。東日本大震災で発生した津波により甚大な被害を受けた。【祭神】品牟陀和気命、大山祇命。【歴史】1690年(元禄3年)勧請。2011年(平成23年)3月に発生した東日本大震災で鳥居3基(木製2、石製1)と神輿3基を消失。鳥居は半年後に1基、翌年に1基、2017年12月に3基目の1番鳥居を復元した。1番鳥居は高さ約5メートルの柱に銅板加工を施した笠木を渡す。2018年(平成30年)から翌年にかけてはNHKの年越し番組、「ゆく年くる年」で生中継された。【有形文化財(県指定)】木造十一面観音立像(平成24年11月13日 指定)…像背銘から室町時代後期、1510年(永正7年)の作とされ、上閉伊地区における最古の年号を持つ仏像。観音堂は、明治以前は一段上の地に祀られていたもので、津波で鵜住居市街地が壊滅した一方、当社(元観音堂)は無傷で鎮座し続けている。観音堂はもともと安全な位置に建てられ、参道は避難路に、祭礼は自然に避難訓練も兼ねていた。事実多くの市民が当社に上がり難を逃れた。2012年(平成24年)11月13日、県から有形文化財に指定された。【天然記念物(市指定)】夫婦クロベ(昭和53年11月28日 指定、平成28年12月26日 指定解除)…1690年(元禄3年)の神社の勧請の際に植えられたと伝えられ、樹齢は300年余であり1978年(昭和53年)11月28日に市文化財(天然記念物)に指定された。2016年時点で本殿に向かって右側の樹高は28m、幹周472cm、根元周550cm。二股になった左側は樹高30m、幹周407cm、根元周460cmの巨木だった。しかし東日本大震災以降、樹勢の衰えが加速し、同年12月指定を解除され、翌年1月伐採された。【無形民俗文化財(市指定)】鵜住居虎舞(平成24年11月28日 指定)…伝承者は江戸時代中期頃の創始と伝えている。当社に奉納する虎舞であり、当社祭典には神輿の供として参加する。昭和初期に銅版が巻いてある「巳之松」の銘が刻まれた横笛が発見された。その笛には言い伝えなどにより江戸時代末期のものであると推測される。2012年11月、市から無形民俗文化財に指定された。

一字一石供養塔(鵜住居念佛講一同)・神木桂の木替歌碑(昭和55年3月吉日鵜住居神社講中会婦人部一同)

「千万代(ちよろづよ)に神(かみ)ぞ在(いま)せり子育(こそだ)ての寿命(いのち)永久(とわ)に幸閉給閉(さちはたまへ)」

石段上。

伐採された御神木。

社殿。
鵜住居観音堂側から見た社殿。※鵜住居観音堂については別記事にしております。

社務所。

拝殿前の鵜住神社新改築記念碑…『この記念碑は神社新改築に当り我ら鵜住居建設労働組合が工事費弐阡四百壱萬圓也で工事を請負わして頂き昭和五十四年三月神社古家下げから工事に着手同五十四年十二月完成に至るまでその間ヒバ材買入に青森県は大畑まで走行又ケヤキ材買付には県下を走り廻り人間関係など協同事業の難問を克服しこゝに至りました。これも一重に各代表各地区の方々の御指導と御協力の賜物と心より感謝致し碑意を表します。昭和五十五年九月十四日 工事請負者 鵜住居建設労働組合』

御祭神は品牟陀和気命、大山祇命。
例祭日旧8月17日。元禄3年(1690)8月勧請。

こちらは伐採されたかつての天然記念物ですかね。

特に説明はありませんでしたが。


境内案内板「鵜住神社(旧社格村社)」…『【一、御祭神】品牟陀和気命、大山津見命【一、由緒】元禄3年2月17日鵜住居村にて勧請観音堂と共に近郷近在より多くの、老若男女尊崇をうけ明治3年2月17日四面二間半の社殿を建立。明治5年神仏分離により観音堂は小山家に移る。昭和55年10月社殿の老朽化のため町内、外各位より寄進受けまた小山氏の好意により山林を購入境内地を拡張造成し四面、四間の社殿、翌年56年社務所を建立。釜石市文化財に指定(昭和54年3月)の樹齢300年以上のクロベ(桧の木科)の老木、当神社の尊厳を有す。【一、例祭】旧8月17日【一、諸祈祷】家内安全、海上安全、交通安全、安産祈願、受験祈願、初宮詣で、七五三詣、厄除祈願(男:25才、42才、49才。女:19才、33才。男女:33才、55才、二月中)、長寿の祝(還暦61才、古稀70才、喜寿77才、米寿88才、白寿99才)諸祈願奉仕します。他神宮参拝講、講中拡張中』

鵜住神社社殿向かって左。

古峯神社社殿。
拝殿向拝。

拝殿向拝神額「古峯別宮神社」(昭和43年旧10月15日)

『古峯別宮に大神様を勧請申し上げてから早くも弐拾有余年を経過致しました。髙き尊き大威神を仰ぎ奉り尊び奉る古峯講の信者達は兼てから深き加護に報い奉る記念事業をと心がけて参りました。漸く時を得て此の度猿田彦大神の神像を謹製し此の処に奉斎する運びになりました。世は正に日進月歩日に日に交通量の急増を見、それと共に事故の多発が伴って参りました。茲に古来より導きの神と稱えて斎き奉って参りました大神の御加護と御導きにより未然に防止し併せて家内安全火災消除等の御神験を賜り度く固き一つの心で結ばれて御願い申し上げるものであります。敬白 猿田彦御神像建設発起人一同』

猿田彦神像。


猿田彦御神像建設発起人名碑(昭和56年1月吉日)…『佐々木ハル、舘鼻喜左エ門、阿部重藏、前川水雄、古川六右エ門、阿部ミツ子、古川重之助、古川幸助、花輪敬二、藤原博、承陽講、古峯講婦人部、佐々木スゲ、新神一同、岩鼻リブ、二本松ヤス、前川岩雄、阿部ヨシミ、花輪成幸、土橋重信、二本松義武、前川秀雄、古川吉志、阿部重男、前川金雄、小笠原スマ、菊池ユミ、古川カン子、岩鼻文子、前川栄太郎、古川キヱ、佐々木テフ、古川久江、小笠原喜一郎、佐々木甚之亟、山崎サキ、佐々木倉之亟、古川市右エ門、沼崎宇右エ門、古川清右エ門、藤原栄次郎、岩崎ヱミ、二本松アイ子、麓幸、田村芳太郎、千葉義磨、坂本祥治、渡辺ハル子、大髙岩一、沖ナオヱ、川下信彦、千葉クニ、結城ミツ、袰屋実、土橋ミヤ、古川トミ、古川ハツヨ、小笠原キヨ』

猿田彦神像裏手にあった石碑や石殿。猛暑に負けてきちんと見ていません。

そんな猛暑の一日でした。



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