岩手県久慈市長内町第17地割。小屋畑川沿い。
参道。


長内は久慈湾の西部に位置。長内川下流の南部及び支流小屋畑川の流域を占め、東は久慈湾に接しています。水利の便がよく肥沃。昭和27年地内二子の工事現場で縄文晩期の遮光器土偶(30cm大)が完全な状態で出土(東北地方では2体目)。室町期に見えるおさな井は久慈郡のうち。「永正五年馬焼印図」(古今要覧稿)に「おさな井 印一遠雁并雀 雁の図別紙に有 引付ともいふ大なる大文字 次に耳しるしの事 右の耳身を副 三刀きり」とあります。室町期、長内の牧から京進された馬の焼印・耳標のことが知られます。長内(小山内)氏ははじめ南部氏の家臣にして異聞録に「右京亮光信を津軽に遣はす際、附従ふ」とあり、一統志には「元亀二年五月、南部高信自害しければ、為信公、此競に乗じて、小山内讃岐守を討取べし」とあります。讃岐の親を永春法師といいます。長内の蛭子神社には室町期文明13年の棟札があります。「奉造栄金峯山社壇一宇」として「大檀那南部信濃守嫡子右京助久信」の名が見えます。同じく薬師堂の元亀2年棟札にも「大檀那源朝臣南部内信濃守信長」「小檀那小山朝臣小山内六郎」の名が見えます。薬師堂西光寺は「大同二年田村将軍建立」とされています(九戸地方史)。


江戸期以降の長内村は九戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。寛文5年から久慈通長内名主組に属します。村高は正保郷村帳316石余(田171石余・畑144石余)、貞享高辻帳376石余(田215石余・畑161石余)、元禄10年郷村御内所高帳630石余、天保郷帳639石余、旧高旧領487石余。地内の諏訪神社は建久4年の勧請、貞享2年の建立、享保2年の再興。蛭子神社は寛永2年の建立と伝えますが元亀13年の棟札を所蔵。元禄5年薬師堂が鳴動しました。宝永2年当村小久慈通に狼が出没したため鉄砲の拝借を願い出ています。宝暦2年久慈二子浦与平次は塩2斗入15駄・干鱈700枚を八戸湊へ積み出すことを願い出ています。同6年3月には飢饉で困窮したため大尻・二子の百姓たちが味噌80貫を藩から拝借。明和元年二子浦長十郎が白粕(魚粕)36俵を積み出すことを願い出ています。安永7年久慈・大尻の百姓たちは困窮を訴えて稗15石の拝借を願い出ています。寛政7年当村の虫害は2割に及んでいます。明治4年八戸県、以後弘前県、青森県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同12年南九戸郡に属します。明治8年私学長内小学校、同10年長内小学校、同11年坂下小学校がそれぞれ開校。同12年の村の幅員は東西2里・南北1里12町、税地は田115町余・畑224町余・宅地23町余など計383町余、戸数235・人口1,310(男658・女652)、牛125・馬262、舟41、小学校の生徒44(男子42・女子2)、神社3(諏訪神社・蛭子神社・稲荷神社)、他に久慈湊があり、職業別戸数は農業213・商業3・工業16・神官3、物産は牛・馬・鯣・米・稗・大豆・小豆・粟・清酒・麻糸・昆布、地味は全村黒土で、極西部の長内川両岸は上・中位ですが水災の患があり、他は下位に属すといいます。明治22年長内村・久慈町の各大字となります。はじめ南九戸郡、明治30年からは九戸郡に所属。長内村の一部と小久慈村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。役場を長内に置いています。日清戦争による死者1・日露戦争による死者6。明治29年の三陸大津波による死者127。大正5年の戸数534・人口3,764、田150町余・畑386町余・山林3,358町余、職業別戸数は農業420・漁業78・商業3・工業1・自由業10・その他22、物産は米2,683石・大豆1,148石・小豆8石・粟162石・稗5万6,010石・黍8石・蕎麦19石・馬鈴薯5万2,580貫・大根9万500貫・繭42石・丸太及角材2,000尺貫(2,400石余)・薪5,900棚・炭20万7,000貫(5万1,700俵)、漁獲高6,487円、家畜頭数牛70・馬468・鶏1,150。昭和元年松方正義が久慈地方の砂鉄採掘を行っています。昭和5年の世帯数653・人口3,938、田170町余・畑424町余。同8年の大津波では全戸数680のうち流失2、人口4,091のうち死者5。同14年の世帯数814・人口4,872。第二次大戦による死者115。同22年長内中学校開設、同27年町制施行。長内は村制時の2大字を継承。昭和29年の世帯数1,229・人口6,810。同29年久慈市の一部となり、町制時の2大字は同市の長内町・小久慈町となります。

鳥居。

鳥居。

灯籠一対。

鳥居。
文明13年3月2日(參・奉造榮金峯山社檀一宇※建立者の大檀那南部信濃守嫡之右京助久信は南部光信と推定)・元亀2年4月8日(薬師堂西光寺修築)・寛永18年3月晦日(薬師堂葺替)・延宝2年4月朔日の棟札があり市指定有形民俗文化財となっています。また、助人足覚面附2枚(延宝元年)も市指定有形民俗文化財。

手水石。

社殿。
石灯籠一対(昭和11年4月8日)


狛犬一対(明治40年旧4月8日)
拝殿向拝。


拝殿内。
本殿覆屋。
境内案内板(平成23年3月久慈市教育委員会)より…『【蛭子神社】蛭子神社は大同2年(807)坂上田村麻呂の建立と伝えられる古社です。元は薬師如来を祀る金峰山西光寺の薬師堂で、明治維新の神仏分離令により薬師如来像を長福寺に移安し、蛭子神を祀る蛭子神社に改称しました。現在でも薬師信仰は受け継がれ、「お薬師様」と通称されています。現在の社殿は建立1200年を記念して平成23年に建設されました。【蛭子神社の棟札四枚(久慈市指定有形民俗文化財)】棟札は、神社の新築や改築をした時に書かれるもので、蛭子神社には、文明13年(1481)・元亀2年(1571)・寛永18年(1641)・延宝2年(1674)の4枚の古い棟札が残されています。文明13年の棟札には、「南部信濃守嫡之右京助久信」が「金峰山社壇一宇」を建立したと記されています。久信は当時、久慈地方に勢力をもち、後に津軽藩の始祖となった久慈光信と推定されています。【蛭子神社の助人足覚面附(すけにんそくおぼえめんつけ)二枚(久慈市指定有形民俗文化財)】助人足覚面附は、堂宇の造営に奉仕した人名や村名などが記録されたものです。延宝元年(1673)正月20日から翌2年3月12日まで、延べ359人が従事したと記されています。村名として、むろ屋・林ノ下・かうつけ・岩はな・本木沢・かぬか・八日町(文字は原文のまま)などがみられます。蛭子神社の棟札や面附は、文字の記録がほとんど残されていない当時の様子を知ることができる貴重な資料です。○指定平成5年4月28日』

神社庁より…『【御祭神】蛭子命【例祭日】旧4月8日【由緒】大同2年(807)坂上田村麻呂将軍が建立による。薬師如来祀る金峰山西光寺の薬師堂であったが、明治の神仏分離に際し、薬師如来像を長福寺に移安し、蛭子命を祀り、蛭子神社に改めたが、薬師信仰がそのまま受けつがれ、現在に至る。』

こちらは読み取れず。

境内社鳥居。

境内社の駒形神社(中村長松・岩崎和行・勝田好正・勝田喜藏奉納)

その他境内社。




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