岩手県久慈市中町第1地割。付近には津嶋神社や道の駅くじ(やませ土風館)があります。

寺号標「松峯山長福寺」(昭和59年5月吉祥日、為菩提功徳主枇杷辰蔵、中国天童寺少林寺巡拝記念、當寺拾六世佛心泰山代)

田村栄一郎顕彰碑「郷土に誇りを」田村栄一郎(田村栄一郎師卒寿記念)…『北三陸の人々よ 常に肌寒くヤマセ吹く地帯だとしても 昔は国一番の馬産の地 日本一の琥珀の里 さらには砂鉄の歴史があったではないか そしてまた 海のない内陸の人々には 命つなげと塩の道 北三陸の人々よ 地域をよく識り 故郷の歴史をよく理解しよう 親しみ住み慣れ 育まれた産土の土地を おおらかに語り合い 深々と耕そうではないか みんなで手を取り合って 逞しく 明日に向かって 立ち向かおうではないか 「北三陸史窓」より』



台座「田村栄一郎先生の足跡」より…『先生は大正九年久慈市夏井町生まれ 岩手師範学校卒業後従軍 当地方の教職や野田村教育長を歴任 子弟教育並びに教育振興に貢献され平成四年宇都宮市に移住する 他方郷土史の発掘にも情熱を注がれ 琥珀誌・たたら製鉄・製塩史・ルーツ北限の海女・俳諧史・野田村誌・松峯山長福寺など多くの論考を著し世に問い続ける 特にも自ら鉄山跡を踏査 砂鉄関係資料千三百点余を収集し手づくりの「たたら館」を開設 久慈地方の鉄文化を全国に知らしめるなど郷土史研究に新たな道を拓かれた ここに先生の功績を讃え卒寿を記念し顕彰碑を建立する 平成二十二年九月吉日 顕彰碑建立実行委員会』

戦傷病者の碑…碑文『この碑はノモーハン上海事変満州事変大東亜戦争等で軍隊に召され奉公中戦傷病者となり帰郷後死亡せる霊魂を奉るため終戦三十三年に当り建之 昭和五十三年九月二十日彼岸 岩手県傷痍軍人会久慈支部』※戦傷病者の碑寄附者名省略

参道。
仁王門。
仁王像。
六地蔵。


駐車場側より。

第二十八番馬郎婦観音。

仁王門(本堂側より)。
裏町は昭和29~47年の久慈市の町名で、元は久慈町下大川目の一部で、当町は古くは谷地とも称し、通称三角山の北麓のため湿地が多く、第二次大戦前は溜池がありましたが昭和20年の大火復興にあたり埋められました。この谷地の地名は元禄年間の史料に見えており、江戸期の久慈八日町の一部で、代官所・長福寺が地続きで、明治初期には郡役所・町役場が設けられ行政の中心地になります。更に大正期には学校、昭和初期には武徳殿が建設され地内が一新。昭和47年に中町と改称。



お掃除お疲れさまです。

「掃けば散り払えばまたも塵りつもる人の心も庭の落葉も」(為菩提 昭和62年4月15日 功徳主外舘吉右衛門合掌 当寺拾六世佛心泰山代)

松峯山墓参の松(昭和35年4月、小久慈町、枇杷辰蔵)

「別れても吾が行く先はほかになし祖師のみ山の雪のふるさと」(永平七十三世勅賜大光円心禅師恩作 当寺開創参百七拾年 松峰会記念碑 長福拾六世佛心泰山拝書)

梅星軒馬来句碑

案内板は微妙に読み取れず(間違っていたらすいません)…『馬来は久慈の人、中野綱庵梅星軒と号する寛延二年(1749)、蕉翁歿後五十五年、八戸藩公畔李が明和二年生まれであるから、馬来はその時拾七才となる。馬来は医を業とし、寛政享和の時代には名が著れ、文化文政時代には円熟の句境がみられた。藩公と馬来の関係は長年月にわたり、藩公が病床にあって綱庵なる名医を知り、召して治療をうくるに、白紙を一枚ごとはぐかに快ゆしたと云う。又或る年藩公民の状況を馬来に問うに、即座に左の句を詠み献したと云う。「白菊やこ■るる露もみな白し」藩公は■■■■■■、数■の御言葉を給わったと云う。』

希望之鐘と子安地蔵尊。

十二支地蔵尊。



聖観世音菩薩。

鐘楼。

曹洞宗松峰山長福寺。


御本尊釈迦如来。

寛永6年瑞雲寺(宮古市)六世本室寿宗が開いたと伝えます。明和8年庫裏再興、天明2年宝殿落成などと記す棟札がありましたが、昭和47年の火災によって県指定文化財の木造薬師如来像とともに焼失。文政の頃に法光寺(三戸郡南部町)に宛てた口上書(寺蔵文書)に「拙者末社長内村薬師堂ハ、大同二年田丸将軍奥州下向之砌建立ノ由」とあり、薬師如来像はこの薬師堂から明治初年神仏分離の際に移されたもので、薬師堂はのちに蛭子神社となりました。


灯籠一対。


狛犬一対(昭和48年秋、長福寺拾五世代、納主:葛巻吉盛・葛巻宇右エ門・葛巻司・髙木勲・葛巻三太郎)




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