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岩手県北上市和賀町岩崎18地割。陸中岩崎城跡。
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中世の豪族だった和賀氏が最後にこもった岩崎城。模擬天守の岩崎地区公民館は取り壊されて、現在は舞台などが整備されて、北上・みちのく芸能まつりの会場の一つとなっています。
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本丸橋。
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岩崎城跡(北上市和賀町岩崎所在)…『岩崎城は和賀氏(中世の豪族)が最後に籠った城で、和賀川と夏油川にはさまれた台地上にあります。夏油川に面した台地の断崖は、幾度もの川の氾濫で深く削り取られています。城の大きさは南北約300メートル、東西約600メートルです。台地上には三つの曲輪が東西に並び、中央の曲輪が本丸跡で、現在は公民館が建っています。各々の曲輪は空堀と土塁で区画されています。西端の曲輪(三の丸)の西は組小路といわれ、武家屋敷が並んでいました。現在は運動公園になっています。また、台地の北崖下には城内地区がありますが、そこは普段の住まいのある二の丸があったところです。城内地区の中央を東西に古道が延び、それに沿って堀や土塁があり、屋敷群があったと言われます。慶長5年(1600年)、和賀忠親は旧領地を奪い返すため一揆を起こしますが失敗し、ここ岩崎城に籠もり南部勢と激戦になりましたが翌年4月、城は遂に陥落しました。岩崎城が造られた時期は、正確にはわかりませんが南北朝時代にはすでにあったとおもわれます。天正20年(1592年)には、豊臣秀吉が命令により南部氏によって破壊されました。岩崎一揆の後には、南部家臣の柏山伊勢守明助が入城しましたが、その後いつまで続いたかははっきりしません。平成7年3月北上市教育委員会』※公民館は現在ありません。
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橋を渡ってすぐ右手に岩崎城本丸跡の看板。
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岩崎城枡形。
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剱舞供養塔(平成元年(昭和64年)12月2日、本田安次書)
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重要無形民俗文化財「鬼剣舞」(保護団体:鬼剣舞連合保存会)…『令和4年11月30日ユネスコ無形文化遺産保護条約政府間委員会において人類の無形文化遺産の代表的な一覧表に記載された「風流踊」を構成することを証します。令和5年7月10日文化庁長官都倉俊一』
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鬼剣舞(301号重要無形民俗文化財指定証書、岩崎鬼剣舞保存会)…『文化財保護法第五十六条の十の規定により重要無形民俗文化財として平成五年十二月十三日文部大臣により指定されました。平成六年五月十九日文化庁長官内田弘保』
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本丸周囲の状況。
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Wikipedia「岩崎城(陸奥国)」より一部抜粋…岩崎城(いわさきじょう)は、岩手県北上市和賀町岩崎にあった日本の城。領主・和賀氏一族の居城。【城郭構造】平山城【天守構造】不明【築城主】和賀氏【築城年】不明【主な改修者】和賀氏、柏山明助【主な城主】和賀氏、岩崎氏、柏山氏【廃城年】慶長7年(1602年)【遺構】郭、土塁、空堀、屋敷跡【沿革】岩崎城は、陸奥国和賀郡岩崎村にあった和賀氏の城で、本城である二子城に次ぐ規模を誇っていた。鎌倉時代後期の「和賀氏系図」によれば、和賀景行(入道行仏)が譲得した所領の中に梅木郷(現在の岩崎一帯)ほかが見える。南北朝時代の岩崎城付近は南朝方に属していた同族の須々孫氏との境界に近く、暦応4年/興国2年(1341年)に南朝方の北畠顕信に「岩崎楯」が攻められて、鬼柳清義が討死したという。戦国時代には和賀氏庶流の岩崎氏の居城となった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって和賀氏は所領を没収され、城地追放の処分を受けた。これに対し葛西大崎一揆に協調した和賀義忠が稗貫氏とともに旧領回復を目指して挙兵した(和賀・稗貫一揆)。しかし奥州再仕置軍に鎮圧され、和賀郡は南部氏領となり郡内の5ヶ所の城は後に破却することとなった。天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「岩崎 山城 破 信直抱 代官 藤四郎」とある。【岩崎一揆】慶長5年(1600年)、南部氏が最上出陣中、伊達氏の支援を受けた和賀忠親は再度旧領回復を目指して挙兵、忠親によって当城は修復され、その拠点として南部氏と戦った。和賀勢は花巻城を急襲(花巻城の夜討ち)し、三の丸、二ノ丸を制圧して本丸に迫ったが、援軍を得た南部勢に敗れて二子城を放棄、岩崎城で籠城戦となった。しかし翌慶長6年(1601年)に岩崎城は落城、忠親は主従らとともに仙台国分尼寺に逃れ、主従の蒲田治道、筒井喜助らとともに自害した。鎮圧後は南部氏家臣の野田・大槌・栗谷川の諸氏によって修理され、慶長7年(1602年)には柏山明助が岩崎城代として入城、旧和賀氏勢力への押え、仙台藩領境の警護に当たったが、まもなく廃城となった。【遺構】夏油川が和賀川に合流する西岸の舌状台地に立地。台上は南北4郭から成り、台地西側下に城内、台地上の郭外に家臣の屋敷跡がある。各郭の周縁には高さ約2メートルの土塁が築かれていたが、三の丸以外はほとんど消失している。各郭は空堀で仕切られ、幅20メートル、高さ15メートルに達する所もある。現在、台地の中央部に有った天守を模した岩崎地区公民館は2008年(平成20年)3月に閉鎖され、城郭跡の西側は岩崎城運動公園として整備された。
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眺望。
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岩崎城址舞楽殿。
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弔魂碑…『国分尼寺忠親墓前義直史碑銘 自光院殿靈源性徹大居士 姓和賀氏 諱忠親 稱主馬祐 其先多田源候忠頼始封于奥州和賀郡 子孫襲封以為姓 天正末為秀吉公見■其封 後有故入本州宮城郡国分寺自殺 年廿六 従死者七人 慶長六年五月廿四日 至今茲享保庚子百廿年 碑己■(さんずい+防)不可復鑱 曽孫 義直敬叙其叓 別勒石以表焉 因慶長六年三月 南部勢復耒襲 忠親 籠遠祖多田行義為住岩﨑故城 防戦二旬餘 于時伊達政宗諭非兵戈 忠親為恩義容之四月廿六日夜半解兵奔仙台宮城原 是従者廿有餘人也矣 義信良實信士 八重樫源三義實 義関深重信士 煤孫上野義重 義林高森信士 獨澤修理義森 忠誠道秀信士 小原藤五忠秀 治教泰道信士 蒲田宗現治道 忠心源意信士 筒井喜助忠意 忠情玄志信士 齋藤十藏源志 上記者性徹大居士家臣也 七士従大居士自刃表敬弔魂之意 昭和丁巳五十二年十月 齋藤壽生撰文 渡邊竹静書之 岩﨑文化協会建之 協力者 岩﨑 岩﨑新田地區民一同』※自信なし&変換できない漢字あり
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舫の桜。
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舫(もやい)の桜…『この桜は、神奈川県鎌倉市由比ヶ浜に近い材木座地区が原産地とされ、「御車返し」と「普賢象」と呼ばれる品種です。鎌倉の由比ヶ浜には国の史跡指定を受けたわが国最古の人工港である「和賀江嶋」があり、ここでの清掃活動は市民参加型のボランティア活動として四十数年間にわたり継続されています。和賀江嶋築港当時に携わった人物の一人で鎌倉幕府の御家人だったのが和賀氏関係者とのことから、北上市民有志からなる「和賀江嶋探訪会」が二十数年前から鎌倉市民とともに清掃活動に参加してきました。今回桜の名所である展勝地開園百周年に際し北上市内の旧和賀氏関係箇所含め五ヵ所に「舫の桜」として植栽されました。これを機に和賀氏旧領地であった北上市と武士の都鎌倉市との交流が一層深まりますことを願うものです。協賛団体(一社)鎌倉市材木座自治連合会・鎌倉市岩手県人会・鎌倉市さくらの会・北上ふるさと会(首都圏)・北上市和賀江嶋探訪の会』
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「つはものゝ雄たけひ乃聲と聞きなされ城趾の森に夜あらしの吹く」岩崎彰…かな?
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本丸跡に石殿一基。何かはわからず。
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五輪塔を刻む碑(昭和49年東北縦貫自動車道砂利採取工事により発掘された梅ノ木古墓群に眠る人々の供養のため建立する。平成4年4月岩崎地区民)
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本丸跡までの道中にあった岩崎城枡形・岩崎城大手門阯(昭和53年11月)
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