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遠野市綾織町新里。
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社号標(奉納者:綾織村字寒風、菊池亀之助、昭和6年旧6月24日建之)
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石碑等がたくさんありますが、ちょっぴり鬱蒼としているのできちんと見ていません。
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湯殿山、金毘羅大神、三峰山、山神、参宮紀念、庚申塔等々
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愛宕神社…愛宕さんは城下町を守る境の神でした。旅立ちのときに、安全を祈り、家族と別れる場所で、山の神や出羽三山など旅の記念の石碑がならんでいます。また、火防の神で『遠野物語拾遺』第64話にも、愛宕さんが和尚の姿になって町内の火事を消した話があります。
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参道。
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遠野は猿ケ石川中流域、早瀬川と来内川の合流点に発達した扇状地の沖積平野に位置。地名は「遠胆沢」と同様の用法と思われる「遠閉伊」の野、の意であると推測。中世には郡的規模・機能の遠野保が成立していました。江戸期の遠野城下は閉伊郡のうち。郷帳類などには横田村と見え、地籍上は横田村に属しました。横田町或いは横田五町とも呼ばれました。江戸期の城下町としての遠野は、寛永4年八戸根城にあった南部直義(直栄)が遠野に移封したことに始まります。即ち盛岡藩は慶長年間遠野地方を支配した阿曽沼氏滅亡後に当地に横田城代を置きましたが、遠野が仙台領(旧葛西・大崎領)に南接する要地であるために、南部氏一族中の大身である八戸南部氏(遠野移封後は遠野南部氏)を当地に配しました。遠野南部氏は盛岡藩主南部利直より「自今以来有卿之領内犯罪之輩、則至糺明誅罸等、敢不及告之、一向委任卿、宜沙汰之…」として領内での独自の裁判権を認められており、藩老の首座にあって藩内の重臣のなかでも別格の位置を占め、さながら独立の小藩のごとくでした。税制は原則的に盛岡本藩にならいました。遠野南部氏の給地は、寛永4年には遠野通の各村のほか、紫波郡の佐比内村、岩手郡の平館村・巻堀村、二戸郡の女鹿村・小友村、九戸郡の円子村・谷地畑村・上館村・中軽米村など総高1万2,400石余に及びました。その後、九戸郡の4ヶ村は寛文5年に八戸藩領、岩手郡・二戸郡の各村は元禄元年に本藩支配となり、遠野南部氏領は遠野盆地を中心とした1万2,500石と称されました。遠野南部氏は代々弥六郎を襲名し、延宝4年南部義長の代に附馬牛八戸家(2,000石)を分家し、盛岡・大迫などの内陸部と海岸地帯を結ぶ要所である附馬牛を固めました。附馬牛八戸家は貞享年間に嫡子が夭逝したため、盛岡本藩の重臣北家の伝之助を養子として相続させましたがこの時給地は半知となりました。遠野南部氏は遠野に移封後、阿曽沼氏以来の横田城(鍋倉山)を修復し、領内統治の拠点として城下町を建設。横田城の城郭の規模については詳細不明ですが、城下町は当初、阿曽沼氏以来の一日市町・六日町が町家を形成。諸士屋敷は直義入部以前には坂の下・砂場・石倉方面に点在するのみであったため、武家地の建設から着手し、寛永年間に阿曽沼氏時代からの六日町を北へ移し町屋敷とし、その跡を御給人丁、俗に元六日町(のち元町あるいは本町、県立遠野高校前の通り)と称される諸士小路を割出したのをはじめ、桜馬場の建設、馬場丁(遠野高校校庭の南側)・西丁(遠野高校校庭西側)のほか、旧来の坂の下・砂場丁(智恩寺山門前の通り)・石倉丁(大手橋から右折して遠野小学校へ至る道)に新屋敷を加えて諸士小路の体裁を整備。その後、家臣数の増加に伴い貞享年間に下小路丁(石倉丁の西側)、元禄年間に東丁(石倉丁を右折し来内ダムへ至る道)・倉堀町(桜馬場の南縁)・欠ノ下丁(遠野市福祉協会事務所、開発公社裏通)・佐郷屋丁(新屋敷)などを割出し諸士小路を完成。また、同心丁としては明暦~万治年間頃、下同心丁(下組町)、寛文4年上同心丁(上組町)、天和~貞享年間頃、御持筒同心丁(中組町とも、大工町北部)及び職人町の大工丁(大工町南部)を割出し、城下の出入を警固させました。町人地としては、諸士小路・同心丁の間に既存の一日市町・六日町を中核として寛永末年~天和・貞享年間頃までに新町・穀町・裏町のいわゆる横田五町が割り出され、遠野南部氏の城下町としての機能が整いました。一日市町と裏町との境には高札場が設けられました。これら横田五町の行政は町奉行の支配下にあり、各町ごとに1名の検断、親ぶさなどが置かれ、横田村分とは別に運営されました。城下を除いた遠野南部氏領内は上郷・下郷に分けられ、それぞれ代官支配の下、各村には肝煎・老名・馬刺・古人(境拠人)などの村役人が置かれました。肝煎は村内の有力者が任命され自宅において執務。なお、岩手郡・九戸郡・紫波郡の給地にもそれぞれ代官が置かれました。延宝9年の幕府巡検使に対する御答書上帳によりますと、侍町は7町、人数約170人(但し知行取のみ、他に歩行が30~40人)、同心丁は3町、同心120人、寺院10ヶ寺、町家は5町、横丁5ツ、横田五町のみの家数合計237・人口1,892、馬368、町家の中には酒屋12・槽物屋3・紺屋7・細物屋5~6・米屋6~7、職人は具足屋1・仕立1・鉄砲屋1・大工16・とぎ師2・木挽7・鞍師7・左冠4・さや師2・塗師2・染屋6と報告されています。このことから遠野城下の武家・町家の人口は合わせて4,000人を下らなかったと推定。邦内郷村志によりますと横田五町の家数は608(うち一日市町181・新町90・裏町120・六日町122・穀町95)、横田村分の家数72、集落別内訳は八幡1・金ケ沢5・高(鷹)場8・高地子6・登戸3・館前1・野田6・新田8・宮代5・小松崎4・洞4・町内(田)2・新張5・打越2・欠之下1・絵(会)家3・伊勢堂1・栃内3・神免田3・赤坂2、馬数154。本枝村付並位付では家数238、集落別内訳は町分の一日市町51・穀町31・新町19・六日町38・裏町50、村分の洞4・町田2・小松崎6・宮代4・西ノ沢2・野田5・鷹場5・新田7・館前1・高地子4・金ケ沢7・登戸2。沿岸部と内陸部を結ぶ大槌街道が城下を通じ、その中間地点にあたる当地では一日市町・六日町の町名から推察されるように六斎市(六度市)が開催され、俗に出馬千頭・入馬千頭といわれる賑わいを呈しました。そのため盛岡本藩により商業取引きへの介入が行われ、荷振口銭の増税などにより盛岡商人と横田五町の商人や駄賃付に携わる近隣農民との間で対立を生じ、一揆へ発展する場合もありました(安永6年の遠野通六度市口銭役反対一揆、弘化4年の遠野通六度市下請反対一揆など)。字洞には宝暦年間の飢饉の際の餓死者を供養した飢渇無縁塔があります。天明4年裏町から出火して76戸焼失。寺院としては城下の西方の曹洞宗の福聚山大慈寺・貴福山対泉院・宝林山柳玄寺、臨済宗妙心寺派鳳徳山瑞応院、時宗金円山常福寺、浄土宗金光山善明寺、浄土真宗白泉山万福寺の7ヶ寺があります。大慈寺は応永18年の開創といい、遠野南部氏の菩提寺で寺領70石、万治年間に大工町の現在地へ移転。柳玄寺は慶安4年、瑞応院は承応2年開創。同院は書院造り・鶯張廊下・欄間彫刻が有名で寺領50石。常福寺(寺領95石)は正平22年、善明寺は文禄年間の開創と伝え、それぞれ寛永4年、同5年に八戸から遠野に移転されました。善明寺の境内には遠野地方最古の墓碑という阿曽沼氏の五輪塔があります。万福寺は元亀2年の開創で、山門前に遠野漢学の中興の祖である久子翠峰の墓碑があります。他に遠野古事記によりますと、城下の東方に真言宗自在山東善寺(寺領110石)・早池峰山妙泉寺(同200石)・六角牛山善応寺(同95石)があり、ともに遠野小学校敷地に所在しましたが、明治維新の際に廃寺となっています。更に黄檗宗放光山感応院(寺領15石)・天台宗岩玉山伝勝寺・真言宗自証山成就院、湯殿山勧請の大日堂がありましたが、これらも明治年間に廃寺となりました。神社としては横田村村社の伊勢両宮神社があり、御祭神は天照大神・豊受大神。諸社として多賀神社・欠ノ上稲荷神社・程洞稲荷神社・宇迦神社・倉堀神社・卯子酉神社・下ノ屋敷稲荷神社・駒形神社のほか、明治期の神仏混淆禁止により大日堂が廃されて神社となった日枝神社、また明治14年創建の鍋倉神社(後の南部神社)がありました。鍋倉神社の御祭神は遠野南部氏の祖4代師行~8代政光の5柱、後に初代実長~3代長継を加えて計8柱、後に郷社となります。江戸期の教育は遠野城下の商業地としての経済的機能を背景としてその活動上私塾に学ぶものが多く、阿曽沼氏時代から継続してきた修験の華厳院・大勝院をはじめとする諸士の私塾5、町方の寺子屋は少なくとも9ヶ所を数え、凡そ20~100余名の子弟を教育しました。公的教育施設は安政3年創設の藩校信成堂があり、江戸の儒士久子永豊(翠山)の訓育を受けた江田大之進・田口圭一郎・工藤謹之助などが中心となって遠野南部家当主済賢に申請し、その許可を受けて城下の坂の下に開学したもので、通学生100名内外、寄宿生2~8名といいます。明治元年松本藩取締、以後江刺県、盛岡県を経て同5年岩手県所属。同12年西閉伊郡に属します。明治元年の推定戸数1,190。なお、江刺県時代には県庁を岩谷堂から当地へ移して信成堂をその庁舎としました。明治3年信成堂を再興し、寸陰館と命名して学制頒布まで継続。同年、住民は年貢減免を要求した遠野地方24か村農民騒擾に参加。用水は5ヶ町用水溝があり、早瀬川より上水。明治4年街路中央の用水路を両側に移しました。同5年遠野郵便役所開設。同6年横田村第一番小学校が正式に開校し生徒数は同年5月末で200名程度。明治8年同校は西横田小学校と改称し、又、新屋敷に東横田小学校が設置されました。同13年両校併合して公立横田小学校となります。明治9年横田警察出張所を設置、同10年警察署と改称。同11年裏町より出火し穀町西側から三ツ谷町・新小路の大半を焼失。明治11年の職業別戸数は農業718・商業272・工業107・雑業38。明治13年当地に西・南閉伊郡役所が設置され、また公立西閉伊郡病院開院、後に西南閉伊郡病院と改称。同18年横田登記所(後の遠野区裁判所、法務局出張所)設置。同19年公立西南閉伊郡病院閉院に伴い私立十全病院が開院。同22年横田村が遠野町となるに伴い当地も遠野町の一部となります。
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遠野町ははじめ西閉伊郡、明治30年からは上閉伊郡に所属。江戸期は横田村。大字は編成せず。大正3年岩手軽便鉄道(国鉄釜石線)の遠野駅が大工町東裏に開設。大正12年まで郡役所の所在地。町並の変化は明治24年一日市町と裏町を結ぶ辛卯小路(新横町とも、中央通り)、駅より裏町に直通する曙小路をはじめ、一日市町より裏町を貫く中小路(駅前通)、大工町より右折して駅に至る柳小路(新穀町西側)が開かれ、その後大正5年遠野家畜市場(馬検場)が穀町裏(市役所付近)に移転したので、これと一日市町を結ぶ市場通り、同13年駅前より裏町の北裏を穀町に抜ける新穀町(勇町)、更に昭和10年遠野営林署が遠野~附馬牛間に軌道を敷設したと同時に駅北裏に製材工場が設置され、それを契機に駅北裏を通り中組町より上組町に通ずる材木町がそれぞれ開町してほぼ現在の街路が整いました。戸数・人口は明治22年1,228・5,565、大正元年1,340・6,735。世帯数・人口は大正14年1,412・6,624(男3,291・女3,333)、昭和10年1,529・7,316(男3,647・女3,669)、同20年1,749・9,424、同29年2,108・1万326(男4,997・女5,329)。職業別戸数の概要は、大正元年農業548・商業482・工業259・公務95など、同10年農業410・商業239・工業141・公務168などとなっており、大正4年の岩手軽便鉄道花巻~仙人峠間開通に伴う中継交易機能の喪失や凶作・寄生地主制・駄賃付廃止などによる農村の疲弊は遠野町の商業戸数を著しく低下させました。物産は米を主とし果実・蔬菜・酒・醤油・味噌など。街道は明治28年遠野街道(後の釜石街道)開通。岩手軽便鉄道は昭和11年国鉄となり仙人峠開削工事が着工されましたが完成は昭和24年。教育機関では明治34年県立遠野中学校が県下第3番目の学校として本町に開校、女子職業補習学校は大正8年町立実科高等女学校、同12年県立に移管、同15年県立遠野高等女学校となり所在地は遠野小学校敷地。大正9年米国人宣教師アンネー・エス・ブゼルが遠野聖光幼稚園を一日市町に開園。第二次大戦後は旧制の遠野中学校と遠野高等女学校が統合し県立遠野高校となり、高等女学校跡はのち新制中学校の校地となりました。昭和26年砂場にカトリック教会の手により光の園幼稚園開園。他には明治35年遠野税務署、同38年盛岡電気株式会社遠野支店をそれぞれ設置。大正9年には遠野郵便局が電話業務開始。同14年東陸自動車株式会社、昭和6年岩手無尽株式会社遠野支店、同7年岩手殖産銀行(現岩手銀行)遠野支店、同25年東北銀行遠野支店、同27年遠野電報電話局などが設置されています。昭和25年、遠野病院は県立に移管。災害の記録としては明治24年穀町・一日市町に大火があり200戸焼失、昭和2年裏町(仲町)大火36戸焼失、昭和22・23年カスリーン・アイオン両台風来襲、特にアイオン台風では早瀬川左岸堤防が上組町上裏で決壊、下早瀬橋が流失。昭和29年遠野市遠野町となります。遠野市は遠野町・小友村・綾織村・松崎村・附馬牛村・土淵村・青笹村・上郷村が合併して成立。合併各町村名を継承した8町を編成。昭和39年遠野町の一部から上組町・材木町・穀町・東館町・中央通り・新穀町・大工町・新町・六日町・下組町が起立し、松崎町白岩の一部から早瀬町1~2丁目が起立。日本民俗学発祥の地、柳田国男の「遠野物語」で有名。近代的田園都市構想、トオノピア・プランを持ちます。昭和29年の人口3万5,341、同55年の人口3万1,056。人口は昭和36年の3万8,430人をピークに減少。同42年、遠野市総合計画新基本計画いわゆるトオノピア・プランが立案され、同56年までに市民センター・地区センター・たかむろ水光園などの諸施設が完成。農林畜産業の基盤整備も進められています。昭和34年仙人トンネル開通、県内初の有料道路で沿岸と内陸を結ぶ大動脈。同45年第25回国民体育大会ではサッカー競技会場となりました。
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鳥居。
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愛宕神社の御祭神は迦具土命、伊邪那美命。
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例祭日7月24日。
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社殿が見えました。
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不明の石殿一基。
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山神・金勢大明神。
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社殿前。
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灯籠一対。
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手水石(昭和6年旧6月24日)
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社殿。
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本殿。
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21.5
『愛宕さまは火ぶせの神様といわれている。ある時、某家の失火の際に神明の大徳院の和尚が手桶の水を杓で汲んでかけ、皆が駆けつけたときはすでに火は消えていた。翌朝、失火の者が大徳院にきて昨夜の礼を述べたが誰一人としてそんなことは知らなかった。それで愛宕様が和尚の姿になって火を消し止めてくれたものとわかったそうな。(遠野物語より)』
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遠野市HP(有形遺産(建造物))より…認定番号:144号 推薦団体:遠野町第11区自治会【遺産の概要】阿曾沼氏が文治年間に勧請したと伝えられ、延宝2年南部直栄が大破していたお堂を再興しました。『遠野物語拾遺』第64話に愛宕様が和尚の姿になって火事を消した逸話が残っており、遠野城下町の境に位置し城下を守る神様としても信仰され、旅の安全を感謝した「山ノ神」「出羽三山」の石碑が建立されています。参道の石段は新町の豪商両川覚兵衛が正徳6年に寄進し、桜の老木は文化~天保の頃遠野の医師(儒学者)和田元庸が京都の嵐山を模して植樹したとの記録が残っています。古くから「愛宕さん」として親しまれており、毎年「愛宕さんまつり」を開催しています。 
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拝殿向拝唐破風懸魚、蟇股、木鼻等。上部は鬼?
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拝殿向拝神額「愛宕山」
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隣接している建物。
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大徳院別当時の旧愛宕神社本殿のようです。
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